儲からないユニーク・スキル
ハルト(Harto)は東方にルーツを持つ、黒髪の平民、16歳の少年である。苗字を持つことは、平民にも許されてはいる。ただ、特に必要性がない場合、苗字を持たないのが、ここでは一般的だ。
「おーい、ハルトー」
なので、ハルトはハルトであり、苗字はない。
ハルトは、まだ幼さの残る十歳の時に、戦争孤児となった。あの日、家が焼け落ちる黒煙の中で最後に見たのは、母の泣き叫ぶ声と、父が振り返ることもなく剣を手に駆けていく背中だった。
それきり、二人が生きている姿を目にすることはなかった。
焼け焦げた瓦礫の中で、ハルトはひとり、すすけた空を見上げていた。周囲は崩れた家々と、静かになりすぎた街の残骸。もはや、自分がどこにいるのかもわからなかった。
数日後、彷徨う彼を拾ったのは、城壁の北側にひっそりと佇む教会だった。
そこに併設された小さな孤児院は、年季の入った石造りの建物で、冷たい風が隙間から容赦なく吹き込んでいた。木の床はひび割れ、夜には床下から小さな動物の走り回る音が聞こえた。
ベッドと呼ぶにはあまりにも硬い藁の寝床。食事は日に一度、薄めたスープと、石のように固い黒パンが支給されるだけだった。
それでも、誰かと屋根の下で眠れるだけで、ハルトは贅沢だと思おうとした。
教会もまた貧しかった。かつては人々が祈りを捧げに訪れた美しい聖堂も、今は壁の漆喰が剥がれ落ち、色褪せた聖像が寂しげに立ち尽くしていた。
礼拝堂の長椅子もいくつかは壊れ、誰も座らぬまま埃をかぶっていた。鐘楼に吊るされた鐘は錆びつき、もう何年もその澄んだ音色を響かせたことがない。
それでも、孤児院の年老いたシスターは、いつも優しい微笑みを忘れなかった。痩せ細ったその手で子どもたちの頭をそっと撫で、「いつか、神はあなたに小さな奇跡を授けてくださるでしょう」と静かに語りかけた。
けれど、ハルトは薄々気づいていた。神が本当に奇跡をくれるのなら、自分の家族はあんなふうに失われなかったはずだと。
それでも——心のどこかで、その奇跡を、たったひとつだけでいいから信じてみたい。そう思っていた。
「あっちの森に、トカゲがいるんだよ!つかまえに行こうぜ!」
「うん!トカゲって、美味いのか?俺、食ったことないよ」
「ちゃんと塩して食べれば、なかなかいけるよ!」
実は、ハルト。すぐに里親が見つかり、たった数ヶ月しか、孤児院にはいなかった。その数ヶ月にすぎない孤児院暮らしの中で、一度だけ、運命に導かれるようにロッセを目にしている。
その日は、曇り空の下で冷たい風が吹きすさび、孤児院の子どもたちは石畳の上で小さく肩を寄せ合っていた。
薄暗い教会の門の前で、ハルトは友人たちと並び、手のひらを吐息で温めながら、いつものように退屈そうに外を眺めていた。
「おい、ハルト、閹剣様がきてるよ!」
その一言に、周囲の空気が一変した。みな一斉に目を凝らし、凍えた身体を少しだけ前に乗り出す。その名は、子どもたちにとっても伝説だった。
そして、ハルトの視線の先に現れたのは、噂で聞いていたどんな勇者像ともかけ離れた、一人の少女だった。
教会の門を静かにくぐった彼女は、まだ十一歳の少女とは思えないほど気高く、どこか大人びた雰囲気を纏っていた。
銀糸のような髪が薄曇りの光を受けて柔らかく輝き、その一歩一歩が、まるで地上に舞い降りた精霊のように静かで、品格に満ちていた。
「閹剣」の二つ名で呼ばれる勇者。誰よりも剣を振るい、誰よりも血にまみれながら、それでも決して膝をつかない少女。
けれど今、目の前に立つ彼女は、一片の穢れすら感じさせない凛とした美しさを放っていた。
「おはようございます。今日も、聖水をわけていただきにきました。こちら、お布施になります」
その声は、冬の朝に響く鐘の音のように澄みわたり、ほんの少しの儚さを帯びていた。
ハルトは息をすることさえ忘れ、ただその場に立ち尽くしていた。言葉を紡ぐこともできず、足を動かすこともできない。ただ、心臓だけが痛いほど高鳴っていた。
「閹剣様・・・」
誰ともなく、誰かが呟いたその言葉が、ハルトの耳にも届いた。しかし、彼はそれに応えることもできず、ただその小さな背中を目で追うことしかできなかった。
銀の髪が風に舞い、細い肩が大きすぎる運命を背負っているのを、ハルトはこのとき、はじめて知った。
彼女の背中は、世界でいちばん美しく、そして、いちばん孤独だった。
この一瞬の邂逅が、ハルトの心に永遠に消えない光として刻まれることになる――まだこのときは、彼自身も気づいていなかったのだけれど。
「いつも、お布施を、ありがとう。ロッセ。気をつけて、行くんだよ」
ロッセは、この時点で、すでに閹剣の勇者として、その武勇が知られた存在であった。ハルトは、そもそも、音に聞く「閹剣様」は、屈強な男性だとばかり思っていた。
「閹剣様って・・・」
ハルトは、そこから先のことばを、つむぐことができなかった。これほど美しい・・・あんなにも麗しい・・・まるで女神様のよう・・・どれも違う。
もっと、この世界にとって重大な何かだと感じた。
◇
孤児院で過ごしていたハルトは、ある日、不意に訪れた転機によって新たな家族を得た。子どもに恵まれなかった老夫婦、リカルドとマリアの夫妻に引き取られたのだ。
二人は、ベルハイムの街角にある小さなレース編み工房——「桜工房」の主だった。工房の名は、春になると店先の小さな庭に見事な桜が咲き誇ることから名付けられたという。
淡い桃色の花びらが、毎年、冬の寒さに耐えた者たちへのささやかな祝福のように、優しく風に舞う。
リカルドは、無骨で無口な男だったが、レース針を握ればその太い指が魔法のように繊細な模様を編み上げた。
マリアは、小柄でふくよかな体型に温かな笑顔をたたえ、店の帳簿付けから客の相手まで何でもこなす、工房の実質的な中心だった。
ハルトは、引き取られた日から、自分にできることを探し続けた。養われているという負い目よりも、「この人たちに報いたい」という想いが、日々彼の背中を押していた。
針を持つ手は最初こそ震え、何度も糸を絡ませてはため息をついた。しかし、リカルドは一度も怒らず、ただ黙って隣で手本を見せ続けた。
マリアは優しく笑いながら、失敗したレースを解く手つきさえ「美しい練習の跡だね」と褒めてくれた。
ハルトは、やがて見違えるほど器用になり、小さな手は軽やかに糸を操るようになった。彼にとってレース編みは、ただの生業ではない。失われた家族の代わりに手に入れた、心の繋がりだった。
ある晩、蝋燭の火が静かに揺れる工房で、ハルトはふと顔を上げてマリアに言った。
「母さん、もう、先にあがってよ。あとは、僕がやっておくから」
マリアは縫いかけのレースを膝の上で撫でながら、目尻に深く刻まれた皺をほころばせた。「ああ、頼もしくなったわねぇ」そう言い残すと、小さな背中を丸めるようにして寝室へと向かった。
間もなく、リカルドも居間の壁に掛けられた古びた外套を手に取り、ハルトに向かって無骨な声で言った。
「父さんもほら、今日は町内会のみんなと飲み会だ。行ってくるぞ。あとは、任せた」
ハルトは針を動かす手を止めずに、軽く手を振った。
「うん、心配いらないよ。全部きれいに仕上げておくから」
工房には、針が糸を通す乾いたリズムだけが残った。外の夜風が桜の木を揺らし、窓越しに淡い月明かりが差し込む。
このとき、ハルトは静かに思った。——この場所こそが、ようやく自分の「帰る場所」になったのだと。
◇
アムール王国における成人は、法的に、14歳からだ。この年齢から、公式な戦闘行為への参加が認められるのも、王国における、この成人の定義による。
他の社会と同じように、成人すると、様々な義務を負う。また、成人になったことで、様々な権利も発生する。そうして発生する権利の中に、経営権の取得とその維持がある。
ハルトは、成年となった14歳の誕生日に、桜工房の経営権を取得している。以降は、桜工房で寝泊まりをし、16歳になる現在まで、ずっと真面目に働いている。
「そろそろ、潮時だな」
「そうですね、あなた」
経営権をハルトに譲った老夫婦は、昨年、引退している。老夫婦は、ベルハルト南部の城壁に近いところに、居を構えている。ハルトにとって、そこが、10歳から14歳までを過ごした「実家」になる。
繰り返しになるが、ハルトは、現在は、桜工房に寝泊まりをしている。もう成人しているのだし、老夫婦に、これ以上、迷惑をかけたくないと考えてのことだった。
だから、ハルトの「自宅」といえるのは、実質的に、桜工房だ。そんな桜工房の規模について、もう少し詳しく説明しておきたい。
アムール王国では、金貨100枚以下の財産譲渡には、税金がかからない。
桜工房に、家族以外の従業員はいない。事業規模も小さく、ギリギリ、ハルトたちの生活が維持できる程度だ。そんな桜工房は、2年前、金貨43枚の価値しかないと算定された。
結果としてハルトは、桜工房の経営権の取得時に、税金を払っていない。喜ばしい話ではない。譲り受けたのは、それだけ、価値の低い経営権にすぎないということだ。
ハルトが、かなり頑張って働いたこともあり、桜工房の売上は成長していた。経営権を取得した2年前よりも、売上は4割も増えている。しかし・・・困ったことに、利益は1割、減っていた。
売上の成長は喜ばしいことだ。ただ、利益が減っているのはよくない。この原因となっているのが、ハルトのユニーク・スキル(独自性の高い技能)である。
ハルトは、レース編みの才能に恵まれていた。そんなハルトは、他の職人が持たない、独自性の高い、ユニーク・スキルを獲得した。それは、古くなったレースを、完璧にリペアするスキルだ。
このスキルは、かなり面倒な、以下5つの工程に分類される。
(1)編み物をほどいて、レース糸に戻す
(2)糸の表面を薄く削って、汚れと一体化した繊維を除去する
(3)オリジナルの繊維と同じ繊維を準備し、削った分だけ太らせる
(4)汚れが、糸の内部まで染み込みにくくなるコーティングを行う
(5)ほどく前のデザインに、慎重に編み直す
本末転倒なのだが、レースは、こうしてリペアするよりも、むしろ新品を買ったほうが安い。なので、ハルトは、確かにユニーク・スキルを持ってはいたものの、リペアの売上実績は、まだ、なかった。
ユニーク・スキルではある。しかし、このスキルを持っていても、なんの得もない。そんなスキルは、誰も習得しない。だからこそ、ハルトのユニーク・スキルは、非常にレアだ。
相変わらず、リペアの売上はない。しかしハルトは、ベルハルトの教会の、古くなって汚れたレースを、ボランティア、無償でリペアしていた。
「いつも、いつも、すまないねぇ・・・」
「教会は、みんなの心の支えです。その厳かであるべき場所に、薄汚れたレースは似合いません。もともと、品質の高いレースが多いのです。リペアのしがいもあります」
当然だけれど、無償なので、売上にはならない。それどころか、リペアには膨大な時間と貴重な材料も必要になる。つまり、教会のレースをリペアすればするだけ、お金が出ていく。いわゆる、赤字である。
桜工房の売上は大きく成長しているのに、利益は減っている。その理由が、これだ。利益を生まない無償リペアの活動にかかっているコストが、桜工房の赤字負担になっていたのである。
もちろん、桜工房全体としては、まだ利益は出ている。それが、2年前よりも減っているという話だ。また利益も、ハルトの給与を費用として引き算した後の、残りである。
ハルトの生活ができないとか、そういうレベルの経営課題ではない。ただ、本来なら、もっと儲けられるのに、ということ。
銀行の法人営業の人も、いつも、桜工房に立ち寄るたびに、この話題を出す。リペアをやめれば、桜工房は、すぐに、簡単に、利益を大きくできる。
「ハルトさん、せめて、リペアを受け付ける量を減らすか、納期をもっと遅らせるか、できませんかね?」
「・・・大事なことなんです」
だが、ハルトは「大事なことだから」と、頑なに、教会からのリペア依頼を断らない。これを「バカなことだ」と考える人は、きっと、ロッセに出会うことはない。
似た者が出会う。似た者は、似たことが気になり、似たものに注目する。そして我々は、自分に似た人を好きになる。ロッセとハルト。この2人が出会い、惹かれ合うのも、きっと偶然ではない。
ハルトは、教会の燭台を飾る、全6枚の美しいレースを、無償でリペアし終わり、納品していた。このリペアされたレースが、ロッセとハルトの運命を、前に転がしていく。
ある日。いつものように、ロッセは、教会に聖水をもらいにきていた。そこでロッセは、燭台を飾るレース全部が、なんと、新品に代わっていることに気づいた。
ロッセは、高価なレースを新調するお金があるのなら、孤児院の環境を少しでもよくするべきだと、神父に訴えた。
「違いますよ、ロッセ。これは、新品ではありません」
その神父から、ロッセは、ハルトが持つ、ユニーク・スキルのことを聞いた。
閹剣ロッセ、17歳。ロッセが、母が編んでくれた、大切なレースの一つを、桜工房に、息を切らして持ち込んだのは、この日の午後のことだった。カラン。
素敵な人に出会いたければ、自分自身が素敵な人にならないと無理っていうことですね。この二人の場合は、孤児院への関心が大きかったですね。
ハルトは、そもそもかつて自分がお世話になったことがあるからですね。数ヶ月でしたが、孤児院がなかったら、老夫婦にも引き取られていません。のたれ死んでいたかもしれません。またハルトは、教会という場所が、できる限り美しい場であって欲しいと思っています。それは信仰によるものではなく、孤児院にいる親のいない子どもにとって、教会の美しさは、自己肯定感の重要なところを占めているからです。ハルト自身が、孤児院にいた短い期間でも、薄汚れたレースが気になっていました。もし、あのレースが本来の美しさを表現できていれば、孤児院での生活の印象も変わったはずだと思っています。
ロッセは、戦争孤児を生み出しているのは自分だという認識を持っているからです。そして、自分自身も両親を亡くしており、孤児たちの気持ちがわかるからです。何かをしてあげたいと思っています。きっと、自分だって大変なのに、孤児院への寄付もしていますよね、ロッセなら。またロッセは「燭台のレースを新調する余裕があんだったら、孤児院の食事とか、もっとまともなのにしなよ」と怒ってます。普段から、孤児院の状況を気にしており、かつ、教会が無駄遣いしてるんじゃないかと目を光らせているからこその指摘ですよね。もちろん、ロッセは、お母様のことで、レースにはうるさいところがあるというのも理由なのでしょうが。「自分でさえ、レースの新調なんてしてないのに」という、小さな嫉妬もあるかもです。
ね?この二人は、出会う前から素敵です。そして、こうして背景を考えてみればやはり、素敵な人は素敵な人と出会い、惹かれ合い、愛し合うのって普通のことだし、良いことだと思いますよね。