ロッセの開花
ロッセが剣の才能を示したのは、ロッセが、まだ、8歳だったときのことだ。
ベルハイムの街は、アムール王国の王都から東に約80キロ、豊かな丘陵地帯を越えた先に位置する辺境の街だ。
辺境とはいえ、その規模は決して小さくない。人口はすでに十二万人を超え、王国の中でも有数の大都市として知られている。
街の中心には、美しく整備された石畳の大通りが走り、通りの両側には歴史あるギルド会館や老舗の商館、王国でも評判の高いレース工房が軒を連ねている。
朝になると、広場では市場が立ち、異国の香辛料や絹織物が並び、香ばしい焼き菓子の匂いが風に乗って漂う。その賑わいは、まるで王都の一角を切り取ったかのような活気に満ちていた。
しかし一方で、街の外縁部には手つかずの大自然が広がり、魔獣が潜むと噂される森や、古の遺跡が隠れる谷間もある。
そのため、ベルハイムは交易都市であると同時に、熟練の冒険者たちが集う拠点でもあった。戦いと商い、静寂と喧噪。その二つの顔を持つこの街は、訪れる者すべてに忘れがたい印象を残すのである。
ベルハイムには、貴族の子息令嬢が通うような、寄宿舎の附属する私立学校もある。しかしロッセの家は、貧乏貴族だった。だからロッセは、そうした私立学校には通っていない。
ロッセは、貴族としての立ち振る舞いは、日々、母から教わっていた。また、ロッセは、普段から、たくさんの本を読んでいた。なので、8歳の時点で、ロッセは、すでに大人顔負けの知識を持っている。
母は、ロッセに、社会性を学んでほしかった。そのためロッセは、教会がボランティアで運営している臨時学校に通わされていた。臨時学校の生徒は、ロッセ以外は、全員が平民の子どもだった。
しかし、ロッセの、この臨時学校での経験は、悲惨だった。まず、そもそも勉強する内容が、ロッセにとっては簡単すぎた。教師よりも、ロッセのほうが知識に勝るくらいだった。
それよりも・・・。平民に混じって登校する、立ち振る舞いが上品なエルフの少女は、珍しい。ロッセが、意地悪ざかりの子どもたちの、いい遊び道具になるのも仕方のないことだった。
「やーい、おまえ、変な髪ー」
「なんだよ、その服、ダセーよ」
「ほら、かかってこいよ!」
ロッセは、また、少年たちから小石を投げつけられていた。いつもなら、少年たちを刺激しないよう、小石が当たっても、無反応をつらぬくところだ。泣いたり怒ったりすると、かえって彼らを喜ばせてしまう。
しかし、そのとき、ロッセは、子犬を抱いていた。ロッセは、小石から子犬を守れるように、小さな身体をさらに小さくし、地面と一体になって動かないでいた。
が、一つの小石が、子犬に当たってしまった。
子犬は、こういうとき「キャン」と、弱々しく鳴くものだと思っていた。しかし、子犬は鳴かなかった。子犬は「ゴア」と、恐ろしく感じられる、小さくない「音」を出した。
たかが小石が、子犬の命に届こうとしていた。子どもたちが不穏に騒いでいる。異変に気づいた大人たちが、数名、教会内から出てきた。
「貴様」
ロッセは、しばらくは、そのままの体制を維持していた。そして、そこにあった小枝を手に、ゆっくりと立ち上がる。
次の瞬間、その小枝が、まっすぐに、ものすごい速度で、小石を投げた少年の眉間めがけて飛んでいく。
飛んでいく小枝が、ロッセの小さな身体を、強引に引きずっている。勝手に動いている小枝こそが「加害者」である。ロッセはただ、手に握っている「加害者」の動きに、身体を預けているだけだ。そう、みえた。
「うわーん!いたいよ!」
幸い、小石を投げた少年の頭蓋骨は、小枝との勝負に負けなかった。
大人たちは、小枝を入念に調べた。しかしそれは、神の意思を持って、勝手に動く、不思議な小枝ではなさそうだった。
やはり、ロッセが、この小枝を動かしていたようだ。そんな事実を認めるのに、大人たちは、かなりの時間をかけた。
◇
この事件からしばらくして、一通の命令書がロレーヌ家の門前に届けられた。硬く封じられたその文書は、ベルハイム騎士団からの、正式な出頭命令。
赤黒く光る封蝋は、不吉な運命を告げるかのように重く、冷たく輝いていた。
それを受け取ったのは、父だった。ロッセは玄関の柱の影から、父の横顔をそっと覗き見ていた。普段は穏やかに笑う父の顔が、その瞬間だけ固く険しく歪んだのを、幼いながらにはっきりと覚えている。
「ロッセ、おまえは、私と一緒に来なさい」
父はそう言ってロッセの小さな手をそっと握った。その手は大きく、分厚く、ひび割れていたけれど、不思議なほど暖かかった。
ベルハイムの街を歩くあいだ、ロッセはずっと父の背に身を隠すように歩いた。父の広い背中は、幼い彼女にとって、まるで堅牢な城壁のようだった。
けれど、その頼もしさの裏で、父の背がいつもより少しだけ小さく見えたことに、胸の奥がきゅうっと締めつけられた。
ベルハイム騎士団本部の荘厳な門が目の前に現れると、父の歩みはほんのわずかに遅くなった。それでも意を決したように、父は重々しい鉄扉の前に立ち、ノックを打ち鳴らした。
その音は冷たい石壁に反響し、ロッセの小さな胸を何度も打ち鳴らした。
通された待機室は、薄暗く、壁に刻まれた古い紋章がまるで彼女を見下ろすかのようだった。ロッセは思わず父の後ろに隠れる。父の外套の裾をぎゅっと握りしめ、その布越しに震える自分の指先を感じた。
けれど、どれほど父の影に隠れても、その緊張感からは逃れられなかった。騎士団員たちの低く唸るような声、鎧の擦れる重い音。それらはすべて、彼女の耳に地鳴りのように響いた。
やがて、重い扉が軋みを上げて開き、一人の大男が現れる。父の肩越しにその男の姿を見た瞬間、ロッセは思わず息を呑んだ。その男は言葉少なに「来い」とだけ告げ、踵を返す。
父が、この大男にやられてしまうかもしれない。咄嗟にそう感じて、怖くなった。
父は振り返り、小さなロッセに目を合わせた。「大丈夫だ、そばにいる」と優しく微笑む。けれど、その声はほんの僅かに震えていた。
ロッセは父の大きな手をもう一度強く握りしめ、そのまま訓練場へと足を踏み入れることになる。
扉の向こうでは、陽光が砂埃の中に斜めの光線を描き、屈強な男たちが雷鳴のような掛け声を上げて剣を振るっていた。ロッセはその場に立つだけで、自分がひどく場違いな場所に放り込まれたことを痛感した。
(お父様・・・本当に、大丈夫・・・ですか?)
ロッセは必死に父の背に隠れながらも、その背中の向こう側で何が待っているのかを、怖くて覗き込むこともできなかった。
このあと、ロッセの父は、騎士団長とおぼしき人物と、ずっと話をしていた。ロッセは、そこで、愛想を振りまく父の姿を、はじめてみた。
「このたびは、お忙しいところ、このような機会を頂戴し、恐悦至極にございます!皆様の働きのおかげで、私どもの生活が成り立っていること、重々承知しております!おお、そちらのアーマーは、大変素晴らしいものですね!ですが、団長どのほどの手だれであれば、誰も攻撃など当てられないでしょう!いかに立派なアーマーでも、活躍する場面はなさそうですな!」
「ちょっと静かにしてくれたまえ・・・」
「は、はい!申し訳ございません!」
これまでロッセは、威厳のある、立派な立ち振る舞いをする父の姿ばかりみてきた。だからロッセは、ここで、騎士にヘコヘコする父の姿が、非常にショックだった。
貧しくても幸せだった記憶、そして戦場の記憶。この二つの記憶を分ける、ロッセの過酷な人生のスタートに、このときの、情けない父の記憶がある。
(生きていくために、必要なこと・・・でも、あんなお父様の姿、みたくなかった)
◇
怯える少女、ロッセは、小さな手で自分の身の丈ほどもある木刀を必死に抱えていた。その木刀はあまりにも重く、両腕で支えるのがやっとだった。
細い指は木の柄に食い込み、白く血の気を失っている。それでも、誰もその苦しさに気づこうとはしない。
父の背中はもう遠い。気がつけば、ロッセは広い訓練場の真ん中に、たった一人、置き去りにされていた。周囲を取り囲むのは、厚い胸板に逞しい腕、鋼のような筋肉を誇る大人の男たち。
その眼差しは試すように、あるいは見下すように、幼いロッセを品定めしている。
「これより、模擬戦を開始する!双方、構え!・・・はじめ!」
甲高い号令が響いた瞬間、ロッセは咄嗟に木刀を構えようとした。だが、その動作すら重たくて思うようにいかない。
一人目の剣士が、大上段から容赦なく木刀を振り下ろしてきた。ロッセは咄嗟に身をひねり、小さな体を地面すれすれに滑り込ませるようにかわす。その瞬間、彼女の体は勝手に動いていた。
気がつけば、手の中の木刀は正確無比な軌道で振るわれ、剣士の足元を鋭く薙ぎ払っていた。大の男がその場に膝をつき、次いで倒れる。
「ば、馬鹿な・・・!」
騒然とする周囲をよそに、二人目、三人目と剣士たちが次々と襲いかかる。しかし、ロッセの動きはそれを悠然とかわし、まるで風のように隙間を抜ける。
そしてそのたびに、彼女の小さな木刀は、ありえない正確さで急所すれすれを打ち抜いた。
その光景は、もはや「戦い」ではなかった。ロッセは、まるで無意識のまま舞うように、必要最小限の動きだけで攻撃を無効化していく。
八歳の少女の小さな体が、熟練の騎士たちを軽やかに翻弄していく様は、見る者の常識を根底から覆す光景だった。
最後の一人が尻もちをつき、呆然とロッセを見上げたとき、場には重苦しい沈黙だけが残っていた。
この瞬間、ベルハイム騎士団の誰もが認めざるを得なかった。少なくともベルハイムには・・・いやもしかしたらこの王国において、たった八歳のロッセに敵う者は存在しないのかもしれないと。
そしてこの日から、ロッセは、手合わせでは、誰にも、一度も負けていない。それから数年後、ロッセは、ベルハイムにとどまらず、アムール王国全土で知られる、最強の勇者となる。
無垢な少女に、男根を断つ剣の使い手「閹剣」の二つ名は、到底、ふさわしくない。この二つ名には、8歳のロッセに負かされ、騎士団での地位を降格された剣士たちの恨みが込められている。
神との勝負に負けて、降格だなんて。
工夫したのは、子犬に「キャン」と鳴かせなかった部分です。あと「子犬の命を危険にする」と書けばいいところを、あえて「子犬の命に届く」みたいな表現にするのは、やりすぎると危険ですよね。わかってます。わかってますが、つい(笑)