閹剣(えんけん)
彼女は、ユニークな剣技を使う。その刹那、剣があるべき場所に、剣がある。他者からは、剣が勝手に動き、使い手がそれに引っぱられているようにみえる。
「は、はやい」
構え、ため、振りかぶりといった一切の準備動作がない。剣のほうが、生き物のように、あるべき場所へと躍動している。使い手は、ただ剣に振り回されているようにしかみえない。
「くっ、うわっ!そ、そこから!?」
特に、彼女が、聖剣を持ったときは無双ぶりを発揮する。使い手である彼女が、仮に目をつぶっていたとしても、聖剣が、敵のすべての攻撃をさばくだろう。剣が主、使い手が従。
「ま、まいりました・・・」
神が、剣を動かしているようにしかみえない。
「それまで!」
神と戦うことになる敵は、戦闘意欲を失う。敵の、生への執着さえ切るという意味で、宦官の蔑称である「閹」。この剣技の使い手は「閹剣」の二つ名で呼ばれている。
「勝者、閹剣!」
閹剣の勇者、ロッセ・ド・ロレーヌ(Lossë de Lorraine)がこの物語の主人公だ。ファースト・ネームのロッセ(Lossë)は、古代エルフ語で「雪のような銀白色の〜」を意味する形容詞である。
「また、閹剣様の勝ちか。王国では、もう誰も、閹剣様にはかなわないだろうな」
ロッセという名は、彼女の美しい銀髪を表現するに相応しい。家名ド・ロレーヌは、ロッセが貴族であることを示す。とはいえ、ロレーヌ家は、メイドさえ雇えない貧乏貴族である。
「お疲れ様でした。素晴らしい太刀筋でした。ご縁があれば、また、お手合わせください」
貧乏貴族ではある。しかし、ロレーヌ家の人々は本の虫で、知性に優れていた。
祖父の代に建てられたお屋敷は、今や時の流れに逆らうようにして、かろうじてその風格を保っている。その中心に鎮座するのが、荘厳なアーチ型の扉を持つ書庫だ。
その書庫は、薄暗いランプの光を頼りに歩かねばならないほどの広さを誇り、古びた棚には、金箔の背表紙が鈍く光る魔道書や、今では失われた詩人たちの初版本、王国建国以前の史書など、稀少な書物がぎっしりと収められていた。
それらの蔵書は、一冊ごとに一族の歴史と誇りを背負い、まるで生きた証人のように静かにそこに在り続けている。
ロレーヌ家が度重なる経済危機に見舞われた際には、この貴重な蔵書の一部が、ため息とともに手放されてきた。それは一族にとって、血を流すのと同義ともいえる痛みだった。
書物を売り渡すたびに、ロッセはその棚の隙間が広がっていくのを見つめ、胸の奥に冷たい風が吹き抜けるような寂しさを覚えていた。
ロレーヌ家は度重なる財政難を、この蔵書の一部を手放すことで何度も乗り越えてきた。ロッセは書庫の静寂の中で、時折、物思いにふける。
剣士である自分がなぜこんなにも知識を求めるのか、その答えを探すかのように。
ロッセは、まず、勇者として、戦場にいる。しかし、戦っていないときのロッセは、ほとんどの時間を、この書庫で過ごしてきた。戦場と書庫が、彼女の居場所だった。
3年前に両親を事故で亡くしてからは(事故ではないとする説もある)、戦場にいる時間が少し減った。そして、ますます彼女は、この書庫にこもることが多くなっている。
ロッセは、わずか17歳にしてロレーヌ家の当主である。銀髪青目、小柄で華奢な貧乏貴族。古ぼけたお屋敷に、一人で暮らしているエルフの少女が、ロッセのプロフィールだ。
なお本人は、いちいち、周囲から下品なイジリを集めてしまう「閹剣」の二つ名を嫌っている。嫌っていることが知られているからこそ、周囲はますます「閹剣様」と話題にする。
曰く「閹剣様に近づく男は、痛い目にあうぞ」「その髪型、閹剣様みたいで、男が寄りつかないよ」「悪いことばかりしていると、閹剣様にいいつけるよ」といった具合に。
後述する、とある事情から、彼女は自分のアーマーに純白のレースによる装飾を必要とする。
剣士は、日常的に盗賊や魔物の返り血を浴びる。そんな環境に身を置く剣士が、純白のレース装飾に身を包むことは、合理的ではない。
レースは、吸水性が高い。しかも、ロッセのレースは、すべて純白である。だから、それはいつも返り血で赤く染まる運命にある。さらに、少し時間が経つと黒く変色して固まる。
しかし彼女にとって、この純白のレース装飾は、どうしても必要なものだ。だから彼女は、ほとんど日課として、返り血で汚れてしまったレースを洗っている。
貧乏貴族なのだ。こうしてレースを洗う作業を、誰かにお願いすることはできない。また、安くない新品のレースを買うことも、できるだけ避けたい。
汚れたままにしておくと、汚れは落ちにくくなる。だから、汚れたらすぐに洗えるように、ロッセのバックパックには、小さな手桶と聖水が必ず入っている。
魔物がうろつく洞窟内で、小さな身体を丸め、しゃがんで、一生懸命になにかを洗っている少女がいたら、それはロッセだ。
ロッセの姿をみたければ、朝、ベルハルトの街の北側にある教会に行けばいい。毎朝、ロッセは、その教会に、聖水をもらいにくるから。
「おはようございます。今日も、いい天気ですね」
「閹」の字は、曹操を罵った陳琳による「贅閹の遺醜」という言葉から持ってきています。宦官を蔑むときの字なので、現代では、利用される機会が極端に少ない字です。多くの人にとって、おそらく、見たこともない字でしょう。そんな状態が、ちょっと可哀想にも思えたので「閹」という字のイメージアップのためにも、この作品における主人公の二つ名に設定させてもらいました。