古典落語「だくだく」
古典落語「だくだく」
台本化:霧夜シオン
所要時間:約25分
必要演者数:最低2名
(0:0:2)
※当台本は落語を声劇台本として書き起こしたものです。
よって性別は全て不問とさせていただきます。
(創作落語や合作などの落語声劇台本はその限りではありません。)
※当台本は元となった落語を声劇として成立させるために大筋は元の作品
に沿っていますが、セリフの追加及び改変が随所にあります。
それでも良い方は演じてみていただければ幸いです。
●登場人物
八五郎:この噺の主人公。
店賃を二年分も溜め込んでしまい、大家から退去するよう言われ
る。
先生:絵の先生。絵師。
八五郎とは友達のようなものである。
泥棒:八五郎の家に盗みに入った泥棒。
近眼乱視、ついでに老眼の役満である。
●配役例
八五郎・枕:
先生・泥棒:
枕:皆さんは、私物というものはどのくらいお持ちでしょうか。
部屋ひとつぶん、とかがまぁわりと平均的なものかと思いますが、
中には旅行鞄二つ程度、なんて極度のミニマリストもいたりします。
こうなるともし泥棒が入っても貴重品の目星が付けやすくてあっさり
盗られたりとか、あるいは貧乏そうだからそもそも眼中に入れられな
かったりとか、もしくは何でもいいから全部持って行ってしまえ、
なんて物騒な結論に至る泥棒もいるかもしれませんな。
落語の世界にも泥棒が多く登場します。
ま、たいていが間抜けだったり、悪い事をしているはずなのにどこか
憎めない、そういうのが多いです。
ところがあると思って盗みに入った先が、実は何もなかったなんて事
になると、こういう反応をする場合もあるようで。
先生:どうした八っつぁん。
しばらくだったな。
八五郎:どうも先生、ついつい忙しくてご無沙汰して。
先生:いや、無沙汰はお互い様だ。
忙しくて、結構な事だな。
八五郎:それがね、あまり結構じゃねえんですよ。
実は今まで住んでたとこの店賃を、一年と十二ヶ月ほど溜めまし
てね。
先生:それを言うなら八っつぁん、二年だろ。
八五郎:いやあ、一年と十二カ月って言った方が、何となく景気がついて
いいやね。
先生:そんなのに景気をつける奴があるかね。
しかしまた恐ろしく溜め込んだな。
八五郎:ええ、まぁ早い話がそういうことで。
先生:遅く言ったって同じだよ。
で、どうしたんだ。
八五郎:まあ、大家が言うにはね、
お前さんいつまで経っても店賃払うあてもねえだろうし、
料簡もねえだろうから、すぐに家を空けてくれと、
こう言うんですよ。
ただその代わりね、すぐに家を空けてくれたら、今まで溜まった
店賃は払わなくてもいいから、なんてふてえ事を言うもんですか
らね。
先生:どっちがふてえんだよ。
八五郎:まぁまぁ、それならありがてえと思ってさ、
何やったってすぐに家を空けりゃ、店賃を払わなくていいってん
だから、これァありがてえ、助かったと思ったね。
先生:ふうむ、それはうまくやったな。
八五郎:ところがうまかねぇんですよ。
てのはね、引っ越すったって引っ越す先がめっからねぇてぇと、
引っ越すわけにいかねえんですからね。
先生:それはそうだな。
そりゃ困ったな。
八五郎:ところがそれがね、困らねえんだ、へへへ。
いい塩梅に安い店賃のとこがめっかったもんですから早速ね、
引っ越そうかなと思ったんですけどね、
ついちゃあまぁなんですがね、今まで使ってた家財道具やなんかを
向こうへ運ばねえってえとね、これは引っ越した事にはならねえ
んですよ。
先生:そりゃそうだろう。
運んだらいいじゃないか。
八五郎:いや、運びてえんですけどね、あっしは力がねえんですよ。
先生:なら誰かに頼んだらどうだい?
八五郎:いや、頼む銭がありゃ、そもそも店賃滞らしてませんよ。
先生:ふうむ、そりゃ困ったなあ。
八五郎:ところが困らねえんですよ。
先生:さっきから何言ってんだい…。
八五郎:いや、これがまたね、いい塩梅に表を道具屋が通ったもんだから
早速呼びましてね、
「おう、ちょいと済まねえけどな、うちにある家財道具、
一切合切持ってっちゃってくれ。きれいに片付けてくれりゃいい
んだから。」
って言ったらね、二人ばかり仲間を呼んできてみんな持ってっち
ゃった、何も無くなっちゃったんですよ。
まぁ早い話がね、あっしァ身一つでもって引っ越したと、こうい
う事なんですよ。
先生:そりゃまたずいぶんとさっぱりしたね。
八五郎:ええ、もうさっぱりどころかさっぱりし過ぎちゃってね、
何もねえ。
ガランとしたところに座ってるとね、なんだか空き家に住んでる
ような心持ちがしてね、面白くとも何ともねえんですよ。
やっぱりこりゃ、家財道具かなんかなきゃいけないなと考えまし
てね、部屋の壁という壁にまず白い紙をこうダーッと貼ったんで
すよ。
それでそこにね、先生に家財道具の絵を描いてもらいてえなと
思って来たんですけど、どうですかね、描いてもらえませんか?
先生:家財道具の絵だって?
そんなもんわたしは描いた事ないよ。
八五郎:いや、描いたことねえって先生、昔から、
「八っつぁん、わしは下手な絵の一つも描くんだよ」
なんてこと言ってたじゃないですか。
あっしもね、何も上手い絵を描いてくれって言ってるわけじゃ
ねぇんですよ。下手でいいから描いてくれって言ったんです。
頼んますよ。
先生:これァ呆れたね、なんて口のきき方だ。
人に物を頼むんなら、もう少し持ち上げなさいよ。
下手でいいから描いてくれなんて言われたのは初めてだね。
八五郎:うん、あっしも初めて言った。
先生:なに言ってんだよ。
少しは持ち上げたらどうだい…。
八五郎:それじゃ、褒めりゃ心持ちよく描いてくれるんですか?
ならわけねえや。
じゃ、褒めるから聞いといてくださいよ。
いいですか、褒めますからね。
いきますよ?
ぁ~、先生、なんだね、先生は絵の名人だね。
先生:バカにしてんのかい。
だいいちね、絵に描いた家財道具なんて役に立たないだろ。
八五郎:先生は気にしなくていいんですよ。
あっしはどういうわけかね、気で気を養うってんですかね、
何でもその気になっちゃうんですよ。
だから先生に絵を描いてもらやね、あっしは本当にあるつもりに
なってあとは面白おかしく暮らせるってやつなんです。
だから先生、描いてくださいよ。
この通り、嫌な顔しねえでさ。
お願いしますよ、頼みますよ、お安い御用だ。
先生:なんだい、お安い御用だって。
…わかったよ、お前さんとじゃケンカにもなりゃしない。
描いてやるよ。
それでな、そこの筆立てに筆は五、六本入ってるだろ。
あと絵具箱もあるからな、それを一緒に持って案内してくれ。
八五郎:あ、これですか?
それじゃ先生、こっちこっち、こっちです。
【二拍】
先生、あの家がそうなんですけどね。
先生:どれ…うん、なるほどな、これはまたずいぶん小ざっぱりとした、
結構なお住まいだな。
八五郎:へへ、小ざっぱりったってね、小ざっぱりし過ぎちゃってますけ
どね。
ちょいと待ってくださいよ、いま開けますからね。
っと…さ、先生、遠慮しねえでずっと入ってずっと入って、
ずぅっとずぅっとずぅぅぅ~~っと。
あまり奥へ行くとね、裏へ抜けちゃうから。
先生:余計なこと言いなさんな。
ふんふん、ふんふん、ほぉぉ~~、しかしなんだなお前さん、
よくこれだけ上手く紙を貼ったね。
八五郎:へへ…そうすか?
じゃあ早速ですいやせんが、まずその辺からとっかかってもらっ
ていいですかね?
そこはやっぱり床の間だね、床の間お願いしますよ。
先生:なるほどな、まずは床の間か、よしよし。
【二拍】
ふむ、こんなもんでどうだ?
八五郎:あら!!っはっはっは、先生うまいねぇ!
こりゃ驚いた!てぇしたもんだ!
さすが商売にしてるだけあるね!
これァ気に入っちゃった、ようがす、ようがすよ!
あ、それでね先生、その床の間の真ん中に掛け軸かなんか描いて
くださいよ。
絵柄はね、色っぽいとこで女の山水かなんかをね。
先生:女の山水なんてあるかい。
【二拍】
こんなもんでどうだな?
八五郎:ほうほう!へえぇようがすようがす!
いいねェ!いいねたまらんね!
あ、じゃあその下のとこ空いてるでしょ。
そこにね、お座敷用の金庫描いてもらおうかな。
その上に大理石の置時計もね!
金庫の扉はこう半開きになっててね、そうだなあ…、
札束で八千万ばかり見えるってとこ描いてもらって……
そう! そうそう!
あ、すかしは要りませんよ。
先生:絵のお札にどうやったらすかしを入れられるってんだい…。
金庫に置時計と…こんなもんでいいかい?
八五郎:えぇえぇ、ようがすよ!
じゃ今度はこっち、こっちんとこにね、
箪笥を描いてもらおうかな。
総桐のいーいやつをひとつね、ズァっと!
先生:なるほどな、たしかに箪笥は必要だ。
【二拍】
よし、できたぞ。
八五郎:そうそう!そうですそうです!!
じゃ、今度その隣にね、茶箪笥描いて下さいよ。
こう三段になってましてね、
上部分が扉になってて、真ん中がこう、違い棚でね、
下が引き出しになってるんですよ。
先生:また注文が細かいな。
【二拍】
こんなもんでどうだな?
八五郎:あぁえぇえぇそうそうそうそうです!
で、その上の段にね、茶道具を一式描いて下さいよ。
先生:いや、お前さん茶なんか点てた事ないだろ。
八五郎:いいんですよォ、描いて下さいよぅ。
そういうのがあるってぇとね、表から家の中をちらっと見た奴が
この人はなかなか結構なお道楽ですね、なんて言われるって言う
からね。
先生:見栄もそうあけすけに言われるとすがすがしいな。
【二拍】
…ほら、できたぞ。
八五郎:そーうですそうです、ようがすようがす!
で、今度は下の段か、どうしようかなぁ…。
あ、じゃあそこはこうしましょう。
えっとね、羊羹の切ったのが菓子皿に乗っかってるってとこ、
それをお願いしますよ。
先生:食べ物まで描かせるのかい。
しょうがないねーー
八五郎:【↑の語尾に喰い気味に】
あっとォ!厚く切って厚く!
先生:な、なんだい、いきなり大声出すんじゃないよ。
厚さひとつにまで注文付けるのかい。
八五郎:当たり前じゃないですか。
薄く切ってあったらね、しみったれだと思われるじゃないですか
。
先生:しょうがないね…。
ほら、とらやの羊羹だ。
八五郎:へへへ、いいねぇ!
あとは…あ、じゃあここに長火鉢描いて下さいよ。
欅の如鱗杢かなんかでもって、目がこう、こんなんなってるよう
なの。
で、南部の鉄瓶が乗っかってて、
お湯がチンチン煮立っていて、湯気がしゅーーっと!
先生:うるさいね。
音まで描けるわけないだろ。
八五郎:いやだからまぁ、そういうつもりになって描いてくれりゃいいん
ですから、そうぐずぐず言わねえで。
先生:やれやれ、お前さんにも困ったもんだね。
ほら、できあがったぞ。
八五郎:よぉうがすようがす!
じゃ、あとはね、そこの猫板のとこでね、猫があくびしてるって
とこ、描いてもらっていいですかね?
先生:なんで普通にしているところじゃないんだい…。
ほら、これでいいかい?
八五郎:あら!あらあら!
先生うまいね、本当に!
可愛いねこれ!仔猫で三毛だね。これァいいや。
気に入っちゃったね。
あ、先生、悪いんだけど、猫の脇に「タマ」って名前、入れとい
て!
先生:タマ?ひねりも何もないが、まぁいいだろう。
八五郎:そうそうそれそれ、いやぁだんだん賑やかになってきやがったね
。あ、先生すまねえ、あすこんとこにね、踏み台描いて。
先生:踏み台?
別にそんなもんいらんだろうに。
八五郎:いやそういうもんじゃないんですよ。
家なんてものはね、いらねえなぁなんて思うものが、
とかくもろもろあるもんなんだからさ、
ぐずぐず言わねえで、手間を惜しまねえで!
先生:まったく、しょうがないな…ほら。
八五郎:へへへ。ようがすようがす!
先生あとはね、こっちのまだがら空きなんだ。
いっぺんに済むようにこうしましょう。
まず衣桁掛けを描くでしょ、そこに結城の着物が帯と細紐と一緒
に引っ掛けてある。
で、下の空いてるとこは…、
そうそう、仙台平の袴が表から帰ってきて何気なく脱ぎっぱなし
になっている態で!
先生:手数のかかることを言うもんじゃないよ。
まったくどうしようもない…
【二拍】
こんなもんでいいかい?
八五郎:ええようがすよ、ありがてぇなあ!
それで今度はね、えぇっとやっぱりなんだな、台所だね。
五合炊きの釜が掛かっててるへっついなんか描いてもらってね、
でもってその中に薪がこう五、六本くべてあって、
火がこうどんどんどんどん、ぼっぼっぼっぼって燃えててね、
今まさにおまんまが炊きかけになってるってとこをね!
先生:お前さんね…
四六時中おまんま炊いてるように見せる気かい?
八五郎:いいんですよ!
のべつ炊きかけで温かいおまんま食ってるように見せりゃ、
それァ大した贅沢ってやつで!
先生:まあ、描くだけならタダだからね…。
八五郎:あとは玄関だね玄関!
やっぱり玄関には下駄箱だよ。それに傘立て、こうもり傘を
五、六本と、その向こうには箒と塵取りを立てかけといてくださ
い。
先生:立てかけといてくださいはないだろ。
実際に物があるわけじゃないんだから。
言い方がおかしいよ、まったく…。
ほら、できたよ。
八五郎:いやぁようがすようがす!
これですっかり揃っちゃったなぁ、いやぁこりゃありがてえや。
あっ。
そうだ先生、あと一つだけありましたよ。
長押に槍を描いといてください。
先生:いや、長押に槍って…お前さん武術の心得ないだろ。
八五郎:ないけど、そうじゃねえんですよ先生。
表からチラッと家の中を見た奴がさ、
「あ、この家には長押に槍が掛かってるな。
さては士族、武士の出だな。」
ってなって、侮られることがねえんだ。
先生:誰がお前さんを侮るって言うんだい…。
だいいちね、わたしはそんな高いとこへ手が届かないよ。
八五郎:だったらあそこに踏み台があるじゃねえですか。
先生:ありゃわたしが描いたんだよ。
八五郎:あ、そうだった。
あんまり上手く描けてるもんだから本物があると思っちまった。
じゃああっしが踏み台の代わりになるから。
遠慮しないで乗っかって乗っかって。
先生:そ、そうかい。
じゃ、失礼するよ…っと。
八五郎:おっ、おっ、先生やっぱり男だね。
けっこう目方があるよ。
先生:もう少し辛抱してくれよ…っと、できたよ。
八五郎:あ、描けました?
どれどれ…あらっ、これァいいねぇ、ちゃんと槍が鞘に収まって
る。これなら誰が見たってぱっと見、本物に見えますからね。
いやぁどうもありがとうございます、ご苦労様でした。
先生くたびれたでしょ、すいませんね。
家へ帰ってさ、お茶の一杯もゆっくり飲んで。
先生:いい加減にしなさいよ。
わたしがこれだけ描いてやったんだから、お前さんがお茶の一杯も
出したらどうなんだい。
八五郎:いやぁ出してえんだけどさ、いま出来立てですからね。
もしつまめるんだったらそこにとらやの羊羹がありますけど。
先生:そりゃわたしが切った…じゃない、描いた羊羹じゃないか。
八五郎:ままま先生、あとで改めてお礼にうかがうんでね、
ここは嫌な顔しねえで諦めて、
今日はまっつぐ帰ってくんない。江戸っ子じゃないかね。
先生:まったく…はいはい、あてにしないで待ってるよ。
八五郎:じゃ、そういうわけで、どうもありがとうございました!
あっそこ、どぶ板ねえんで気を付けて!
【二拍】
いやぁ、こんだけ描いてくれて…いい先生だなあ。
これなら誰がどう見たって本物に見えるよ。
はぁ、先生もくたびれたろうけど、こっちも指図してくたびれち
まった。
そりゃそうだ、朝から何にも食ってねえもんな。
よし、とりあえずはおまんま腹に入れて来るかぁ。
【二拍】
泥棒:お…?確かここは空き家だったはずだが…誰か越して来たのか?
どれ…ちょいとのぞき見…、
はあぁ、近眼に乱視、加えて老眼…年は取りたくねえな。
【二拍】
なんでぇ、やけに物持ちの良さそうな家だな。
こんな貧乏長屋にしちゃ珍しいや。
近頃は世の中不景気で、泥棒稼業も仕事がねえと思ってたが…、
あるとこにはあるもんだ。
とはいえ、こんなに人通りが多くちゃしょうがねえ。
よし、ひとつ今夜はこの家に決めた。
さっそく、支度にかかるか。
【二拍】
八五郎:ふう、食った食った…。
どれ、寝酒でもちびちびやりますかねぇ。
っ、っ…へへ、うまいねえ。
しかし、絵に描いた餅…じゃねえ、絵に描いた家財道具でも、
けっこう乙な心持ちになれるもんだ。
酒も美味けりゃ絵も上手いってね…。
ふぁ…いけね、眠くなってきやがったよ…。
【寝息】
泥棒:えぇと…お、あれだ、確かにあの家だよ。
俺の目に狂いはねえ。
おや、明かりが付いてんな…誰かいやがるのか…?
【ここらから声を落として】
ちょいとこの隙間からのぞいて……ッ!?
おいおい、こりゃあ物持ちだねえ。
よくこれだけの道具をそろえたもんだよ。宝の山だね。
…にしても、やけに小汚ねえ野郎が寝てんな。
留守でも頼まれたのか?
徳利が転がってやがんな。ははぁ、酒ェ喰らって寝てやんだね。
へへへ、ありがてえ。
どれ、しまりは…おいおい、してねえのかよ。
こんな間抜けな野郎に留守を…っておいおい!
へっついの中で火がぼうぼう燃えてんじゃねえか!
火事になったらどうすんだよ…。
まあいい、火事になる前に俺がいくらか盗み出しといてやらあな。
かえって世の為になるって奴だ、ありがてえありがてえ。
八五郎:【寝息→目を覚ます。つぶやくように】
っ、ぉおいけねえ。
すっかり寝込んじまった。いけねえ、風邪ひいちまうよ…っ!?
なんだ、見かけねえ野郎が入ってきてやがるよ。
あのなりは…泥棒だな。
こりゃいけねえ、大変なことに…ならねえな。
あいつ、この家からいったい何を持ってくってんだ…?
へへ、おもしれえや、寝たふりして見ててやれ。
泥棒:【声を落として】
はぁぁこれァいい箪笥だなぁ…総桐だよ…どれ、中身は……?
ん? んんん? 取っ手がつかめな……
ってこれ、紙に描いた絵じゃねえか…!?
八五郎:【声を落として】
ぷっ、くくく…バカだねえ、絵と本物の区別もつかねえでやんの。
泥棒:【声を落として】
ははぁわかった。
後からここへこういう箪笥を置こうってんで描いたんだな。
贅沢な事してやがるよ。
まぁいいや、いまは現金の世の中だ。
金庫は…って、おいおい、扉があけっぱなしじゃねえか。
いやほんと間抜けな奴に留守番頼んだもんだよ。
おかげでこっちは開ける手間がはぶけっ…!?
んん?んんんんん!?
八五郎:【声を落として】
うくくく…間抜けはてめえじゃねえか。
それにしても先生の絵は大したもんだよ。
泥棒:【声を落として】
んなっ、なんだこりゃあ、これも描いた絵じゃねえか!?
も、もしかして……!
やっぱりだ。あれも、これも、みんなそうだよ。
猫はあそこでずーっとあくびしっぱなしだし。
なに…タマ?ふざけんな。
鉄瓶の湯気も固まってるもんな。
家財道具が全部絵って…どうなってんだ!?
八五郎:【声を落として】
~~っくくくく…やぁっと気づきやがったよ…。
さすがにこれで退散するか…?
泥棒:【声を落として】
てことは、この寝てる野郎が描いたのかな…?
いや、入る前から寝てやがったぞ。
もしやこいつも絵…じゃないな、息してるな。
あ、そうか…わかったぞ。
こいつ、家財道具が何もねえから絵に描いて、
物があるつもりになってやがるんだな。
とんだ間抜けな家に入って来ちまったもんだよ…!
八五郎:【声を落として】
描いたのは俺じゃねえけどな…。
泥棒:とはいえ、俺も長年の泥棒稼業だ。
何にもねえからって手ぶらで帰ったんじゃ、
ご先祖の石川五右衛門様に対して申し訳が立たねえ。
八五郎:【声を落として】
おや、何だか風向きが変わったか…?
泥棒:【声を落として】
ようし、この野郎があるつもりになってるんだったら、
こっちもひとつ、盗んだつもりになってやろうじゃねえか。
八五郎:【声を落として】
おいおい、さっきよりおもしれえ事になって来たぞ…。
泥棒:【声を落として】
さぁこうなったら、
まずは箪笥の一番下の引き出しをスーッと開けたつもり。
大きな風呂敷が入っていたつもり。
こいつをバッと開いて広げたつもり。
その上の引き出しをスーッと開けたつもり。
博多帯や西陣の帯とかがたくさん入っていたつもり、
こいつをぜんぶ風呂敷に入れたつもり、いちばん上の引き出しを
スーッと開けたつもり。大島の着物がたくさん入っていたつもり、
これをぜんぶ風呂敷へ入れたつもり!
八五郎:【声を落として】
ぷぷぷっ…盗んだつもりたぁ、この泥棒もなかなか粋だね。
泥棒:【声を落として】
ようし、お次はこの金庫の中の札束を、
懐に一億五千万円ばかし捻じ込んだつもり!
ついでにその上の大理石の置時計を風呂敷へ乗せたつもり!
風呂敷をゆわえたつもり!
ぃよいしょッ、と背負ったつもり!
んッ…!んんッ…とっとっ…!
重くて持ち上がらないつもり…ッ!
八五郎:【声を落として】
ぶっ…くっくっくっ、ははは…!
間抜けな泥棒が入ってきやがったもんだよ…!
つもりだつもりだってさ…!
ん?ちょっと待てよ。
たしか先生に描いてもらった時、
金庫の中の札束は八千万だったはずだ。
そうだ、八千万しか入れてねえんだよ。
なのにいま聞いたらあの野郎、一億五千万っつったよな…。
おいおいずいぶん持って行きやがるなちきしょう。
つもりとはいえ、そんなに持って行かれてたまるかってんだよ、
この野郎。
よォし、こうなりゃ向こうが盗んでいくつもりになってんなら、
こっちもひとつ、つもりになって脅かしてやろうじゃねえか。
【ここから普通に】
バッと絹布の夜具をはねのけたつもり!
起き上がると脱ぎっぱなしになっている仙台平の袴をはいたつも
り!
細紐でもってたすき十字に綾なしたつもり!
手拭いでもって後ろ鉢巻きにしたつもり!
長押にかかっている槍をとって鞘を払い、りゅうりゅうとしごい
たつもり!
泥棒の脇腹目がけて、ブスーッと突いたつもり!!
泥棒:!!
あたたたっ!!
と、突かれたつもり…!
八五郎:ぐいぐいぐいッ!
と、えぐったつもり!
泥棒:だくだくっ、と血が出たつもり…!
終劇
参考にした落語口演の噺家演者様等(敬称略)
柳家喜多八
柳家一琴
※用語解説
・店賃
家賃の事。
・とらや
和菓子の超老舗。
・欅の如鱗杢
稀に発生する魚の鱗のような模様の杢で、
別名、魚鱗杢とも。
2024年の価格は1㎥あたりざっと59000円也。
※上方だと、「書割盗人」という演目になります。