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アトリは外に出ると、助手席に飛び乗るとほぼ同時にヒクイは車を発進させる。アトリは座席に頭をぶつけ、氷を落とした。
「いっけね、グラス持ってきちまった」
グラスを握りしめたままなことに、車が走り出してからアトリはようやく気がついた。そして座席の座り心地が悪い。尻の下に手を入れれば、タバコがあった。
「ヒックお前、タバコ吸ってたか?」
「いや。ああ、一昨日、チャービルさん乗せたから。それか昨日の客の忘れ物だろう」
ヒックは前から目を離さず答えた。アトリはタバコのにおいをかいだ。甘い香水の香りがした。アトリは鼻を鳴らした。
「女か」
「見えた」
中央広場の中を二台の車がつっきていく。広場の人々は悲鳴をあげながら車から逃げていく。チャボの車は二時通りの方へいった。追いかけている黒い車との車間が狭くなっていた。ヒクイは逃げ惑う人のあいだを器用にすり抜け、罵声を浴びながら一時通りの方へハンドルをきった。
「おい、違うぞ、道」
アトリが唾を飛ばす。ヒクイは余裕の笑みを浮かべる。
「二時通りはいま、水道管の工事で明日まで通行止めだ。あの逃げ方は相当混乱している。きっと工事の手前で気がついて曲がるとすれば、この道に出てくるはずだ」
ヒクイが説明したそばから、右のわき道から白い車が飛び出し、再び中央広場の方へ戻っていく。アトリは一瞬だったが、死にそうな顔で運転するチャボが見えた。
「ヒック、すれ違った」
「はいはい、Uターン、Uターン」
ヒクイがハンドルを回し、タイヤを鳴らしながら乱暴にきた道を引き返す。荷台のうしろがベンチにあたり、木片が飛ぶ。まっすぐに戻すと、さらにスピードを上げる。アトリはバックミラーを見る。黒い車が追いかけてくる。
「鬼さんがきたぜ」
「並走するから、お前声かけろ」
アトリは窓をあける。チャボの車の隣につけ、グラスに残っていた最後の氷を運転席の窓に投げた。当たった音でチャボがアトリの方を見て目を見開く。チャボの顔からは尋常でない汗が噴き出し、寝間着はまるで土砂降りのなかを歩いてきたかのようにびしょ濡れだった。アトリは窓から身を乗り出し叫ぶ。
「助ける!えっと」
どうやって敵を巻くか考えがなかったアトリは言葉に詰まる。
「次、左折だ。それで三時通りまで出て、サンシ橋を渡るようにいえ」
ヒックが早口でアトリの背中に指示した。アトリは左を指差す。
「次、左折!サンシ橋を渡れ!橋に行け!は、しっ!はーしっ!」
アトリは簡潔にしつこく、チャボに伝えた。チャボは青白い顔で頷いた。アトリは後部座席に白いなにかがあるのに気がついた。チャボはスピードを上げて、ヒクイたちの前へいく。その白いなにかにアトリは目を凝らす。そしてそれは、かすかに震えるように動いた。
「後ろに誰か乗ってる」
「女か?」
「見えない」
ヒクイはチャボの車のうしろに入り、黒い車のすぐ前を走る。チャボの車が左折する。ヒクイたちも左折する。黒い車も遅れずについてきた。すると右の助手席の窓が開き、褐色の片耳ピアスの男が、窓に座り武器を肩に構えた。バックミラーを見ていたアトリは自分の目を疑い、ふり向いた。
「あいつが持ってるのランチャーだぞ!ロケットランチャーなんか名画座でしか見たことねえよ!」
褐色の片耳ピアスの男が無邪気に笑いながら撃ってくる。ヒクイは左すれすれまで車体を寄せる。車体と壁がこすり合さり火花が散る。尖った榴弾は間一髪トラックにあたらず、外壁を壊した。壁の破片と爆音と煙の中から三時通りにトラックは飛び出す。窓がひび割れ、車体はぼこぼこになった。三時通りを走っていた二人乗りのバイクはそれに驚き手前で急停車したが、それもむなしく、黒い車がはねた。
「死んだか?」
アトリの声は焦りをもつ。
「生きてることを祈ってな、死んだら面倒になる奴らだ」
ヒクイはふり向かず、チャボの車がサンシ橋を渡ったことを確認した。
「アトリ、タバコ吸いな」
「はあ?」
アトリは顔を歪ませる。ヒクイは構わず、どこからともなく出したライターをアトリの前に持ってくると火を付けた。
「早くしな。キャッチボールはお前の方が投げるのうまかったよな」
「かくれんぼはお兄様の方がうまかったけどな」
「それはお前がいつもからだの半分しか隠してなかったからだろう」
ヒクイはサンシ橋の上にトラックを止めた。ふたりは同時に外に出る。アトリは紫煙を漂わせたタバコを咥え、シャツの裾でグラスの中を拭いた。ヒクイは荷台のタンクの蓋を全部開けると倒した。荷台の中にガソリンが零れていく。アトリはタバコをつまむと口から離し、腹の底から出した声で忠告した。
「サンシ橋から離れろ!爆発するぞ!」
ヒクイがアトリの元へ走る。アトリはグラスの中にタバコを入れると、投げた。グラスは放物線を描き、トラックの荷台に落ち、割れた。そしてタバコの火がガソリンに引火した。数秒後、トラックは爆発し、サンシ橋の上で大炎上した。アトリとヒクイは熱風から腕で顔を守りながら、路地裏に逃げる。
「せっかくの車が。もったいねぇ」
アトリが自分の車ではないとはいえ、惜しんだ。
「ちょうど買い換えようと思ってたからさ」
ヒクイは燃え上がる愛車を眺めながら飄々としていた。
「けど、これだけのことして、おとがめなしってことはないだろうよ」
苦笑するアトリに当たり前だと念押しするように、消防のサイレンが鳴り響いた。
「早いな」
「これだけ大ごとにすれば、あいつらもこの場を退くだろう。館長のところへ行こう。あの人が弁解してくれないと、俺たちはただの公共物を破壊した馬鹿野郎になる」
「弁解でどうにかなるなら、俺はずっと優等生だよ」
弟の苦情に兄は耳を貸すことはなかった。
チャボの車は四時通りと五時通りの間の路地の奥に停車していた。アトリたちが走ってかけよる。アトリが運転席をのぞくとチャボはハンドルにからだを預け、息切れをしていた。ドアを開けるとアトリはチャボに呼びかけた。
「おい館長さん、しっかりしろ」
チャボは呻くだけだった。
「どうする、ヒック」
「とにかくここを離れよう。車も置いていく」
アトリがチャボの腕を首に回すと、助手席に革のケースがあるのが目に入った。
「隣にあるのは?」
「持っていってくれ。うしろ、娘が……」
チャボが苦しそうに言葉をこぼす。
「娘?」
アトリはチャボをヒクイに任せると、座席を倒す。そして白い布を引いた。
最初に入ったのはローズグレーの髪だった。エナガはゆっくりと起き上がり、怯えながらアトリを伺った。こぼれそうで、吸い込まれそうな大きな黒い瞳、右目下のほくろにはあどけなさから芽生える色香がある。アトリは頼りなさそうな少女だと思った。そしてまた、エナガにはどこか不確かな幻想的な香りがした。チャボは少し落ち着き、説明をした。
「わたしがいうまで、隠れていろといった。あいつらの狙いはこの子だ」
「こいつが?」
アトリはエナガを見る。エナガはとまどい、うつむいた。
「アトリ、ヒック」
ふたりを小さく呼びながら、ヨシキリが自転車で走ってきた。
「ヨシキリ、どうしてここに?」
ヒクイが聞けば、ヨシキリは得意げに八重歯を見せた。
「気になって遠回りして追いかけてきた。追いついたときにはヒックのトラックが燃えてた。母ちゃんがうちに連れてこいって」
「イエさんが?」
アトリはヒクイに目線をやる。ヒクイは「失礼」と一言伝え、支えていたチャボを背負った。
「遠慮した方がいいのかもしれないけど、ここは甘えよう。病人もいる。イエさんに診てもらおう」
アトリは頷く。そしてエナガにいった。
「移動する。信頼できる人のところだ。ここにいればまた奴らに見つかる」
アトリはエナガに手を伸ばした。エナガは困ったが、迷う選択肢がなかった。アトリの手の上に自分の手を乗せた。アトリはエナガの足元に気がついた。
「お前、裸足じゃんか」
エナガは自分の足元を見てあっともらした。家の中でスリッパを履いていたが、焦らされるがまま、車に乗ったため車庫でスリッパを落として来てしまった。アトリはエナガから手を離すと車のキーを抜いて、ケースを掴みエナガに押し付ける。
「持って」
いわれるがまま、エナガはケースを抱きしめた。アトリは左腕をエナガの背中に回すと、車から引っ張り出した。エナガは小さく短い悲鳴を上げた。アトリは気にせず、右腕を足に通すとエナガを横抱きにした。
「ちょっとしんぼうして。すぐそこだから」
エナガはからだを固くしながらも、頷いた。
「早く行こう」
ヨシキリが待ちきれず、自転車を漕いだ。
「走るか」
「そうだな」
ヒクイが先にいく。アトリは落とさないようにエナガを抱え直すと、走り出した。エナガはただ、何が入っているかもわからないケースを抱きしめることしかできなかった。