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未来は過去にあり、過去は未来にある。今日という日からいちばん遠いのは、昨日である。それは我々人間が抗うことのできない法則であるという。
(一日目)
学校が夏休みになってからも、エナガ・モックオレンジは、毎朝六時半には起床して養父のチャボ・スイバのために朝食の準備をしていた。けれど、エナガが、膝丈のベージュ色のシャツワンピースのウエストにあるリボンをしめながら二階からおりてきたとき、時刻は八時を過ぎていた。階段をおりてすぐ目の前にある玄関に、ドアの投函口から入れられた新聞と手紙が二通落ちていた。エナガは先にキッチンへ行くと青いミルクパンに水を入れ、白いコンロの火にかけた。玄関に戻ると、中腰でマットの上に落ちた郵便物たちをとろうとすれば、胸までまっすぐと伸びたローズグレーの髪が耳から垂れた。エナガはそれを耳にかけ直すとちゃんとかがみ直し、新聞と手紙を拾う。
リビングへ行き、カーテンと窓を開ける。光が入り、部屋の壁や家具がカーテンによって潜めていた色を目覚めさせ、一日のはじまりを活気づかせる。外は好晴だった。それにエナガはすぐに背を向けた。手紙は二通ともチャボ宛で、食卓テーブルの上に置いた。エナガは新聞を広げる。一面は昨日、号外まで出た「時間教」が逮捕された記事が大きく載っていた。
【世界統合機構本部前での宣言から約一年。時間教教祖タイム、ハーリキン市警に出頭】
記事は「時間教」の横顔を写した写真が半分近く占めていた。首まで伸びた黒髪と太い黒フレームの大きな眼鏡で表情はよくわからない。「時間教」の記事の斜め左下にもうひとつ記事がある。
【ハーリキン市立未来人博物館で窃盗。未来人愛用の間接照明の展示品が盗まれる】
見出しの下には「歴史的大失態!」の太字が躍っている。四日前にも逮捕者が出て、問題となっている、闇オークションに出品するための犯行ではないかという推測と「時間教」の逮捕との関係があるかはまだ不明である、と書いてあった。歴史的出来事が一日で二件も起こり、ハーリキン市民たちは、どこか落ち着きがなかった。エナガは憂鬱の方が大きかった。チャボが未来人博物館の館長であるからだ。責任者としての立場がある。それと同時にチャボは腕時計を身につけるほどの「時間マニア」としても有名だった。エナガの死んだ父親も「時間マニア」であり、その縁でふたりは親友となった。
展示品が盗まれたとわかったとき、普段のチャボでは想像ができないほどに彼は激昂し、感情のままに担当警備員をクビにした。興奮しすぎたチャボは、怒り狂ったあとに卒倒し、博物館の職員に運ばれて昨夜、帰宅した。チャボはストレスに弱く、そのために胃も弱く、憔悴しながら胃をおさえうずくまり、容量以上の薬を噛み砕いて飲み、昨夜は帰宅からずっとベッドから抜け出すことができなかった。
ミルクパンの沸騰した湯が音を立てる。エナガは慌てて新聞をたたんで、カウンターに置いた。冷蔵庫から卵をふたつ出し、そっと沈める。シンクの前の棚にある、鶏型のキッチンタイマーを七分に回しセットする。半熟卵は胃に優しいとチャボは毎朝食べる。キャベツのスープでも作ろうと考えるエナガの黒い瞳に、再び新聞が入った。あからさまかもしれないが、起きてすぐにチャボの目に入らない方が彼の胃のためだろうと、エナガは新聞をリビングのソファに持って行く。すると、車のエンジンが止まった音が聞こえ、エナガは窓の外を見た。家の前に黒い車が止まっていた。運転席と助手席がほぼ同時に開く。左の運転席からは黒いタートルネックを着た黒髪の若い男。反対からは、褐色肌で黒髪の背がぐんと高い男。右耳には青灰色の揺れるピアスをしていた。エナガは怪しい男たちに怯え、思わず窓を閉め、階段の方へ小走りで向かった。
「おじさん、起きて!外に怪しい男の人たちがいる、どうしよう」
物音が聞こえる。チャボが起きたようだった。エナガはキッチンに戻り、ガスコンロの火を切ってカウンターの裏にしゃがみ込んだ。チャボが小さな革のケースを抱いて階段からおりてきた。真っ白い髪は寝癖だらけで、自慢の口ひげも向きが整っていない。寝間着姿で、寝起きそのままである。玄関のドアがノックされ、チャボは思わず立ち止まった。
「朝早くに申し訳ありません、ドアを開けてください」
チャボは息を飲む。音を立てないようにキッチンへいく。
「エナ、エナ」
ひそめた声でチャボが呼ぶ。カウンターの裏からエナガが顔を出す。チャボは食卓テーブルにかけていた白いクロスを引くと、怯えるエナガを包んだ。
「顔を絶対に出してはいけない」
「あの人たちだれ?」
「説明は後だ。とにかく今は逃げなければならない。立つんだ」
チャボはカウンターにあったキーケースを握りしめると、エナガの手を掴み、勝手口から外に飛び出した。同時にリビングの窓ガラスが割られた。しかし家の中から聞こえるのは、キッチンタイマーが時を刻む音だけだった。