第7話 一番
五月某日。
今さっき午前最後の鐘が鳴り昼休憩の時間となった大学のとある一室。神経質そうな男性教授の授業を終えた学生たちの声でざわつきだした教室で、竹崎の前の席の女子学生が振り返り
「ねえねえ。竹崎って次の日曜あいてる?山口と話してたんだけど、三人でドライブ行こうよ」
と言った。すると、その言葉に竹崎よりも早く反応したのは竹崎の隣の席の男子学生で
「えっ?ちょ、待て待て、俺は?」
「え?あんた免許持ってないじゃん」
「そうだけどさあ。仲間外れは良くないんじゃない?」
彼がそう言うと、彼女はわざとらしく偉そうにふんぞり返って「しょうがないなあ」と言った。
…この活発そうな女子学生・沖野茉子は工学部の数少ない女子の一人だ。ストリートファッションを好み、癖でうねった長い茶髪をいつも後ろで一つにまとめている。彼女と話している香山は元高校球児で、生まれてから今までずっと坊主頭だという。二人とも竹崎とは学籍番号が近いというよくある理由で親しくなり、もう一人の山口という男子学生と合わせて四人で行動をともにすることが自然と多くなった。
「ごめん、その日は予定ある」
竹崎がそう言うと、茉子は肩を落として「えー」と不満気な声を出した。
「…デート?」
「いや。友達と約束してる」
「ふうん。じゃ、いつあいてる?」
茉子がそう言うと、竹崎はスマホを手にしてスケジュール管理アプリを開こうとした。が…
「ちょっと待て」
香山はそう言ってやんわりと竹崎のスマホを奪ったかと思うと、その画面をまじまじと見つめた。そして
「アイドルグループですか?」
「…まあ、確かに、アイドルっぽいのもいるけど」
香山に向けられたスマホ画面を見ながら竹崎がそう言うと、今度は茉子が「なに」と言って香山から竹崎のスマホを奪いとった。
竹崎のスマホの待ち受け画面は、学校の中庭で竹崎、奥野、井崎、植村の四人で撮った写真だ。たこ焼きの屋台の前で、お揃いの青いTシャツを着て写っている。
「へー…文化祭?」
「そう。高三のときの」
竹崎が茉子にそう答えたあと、
「ミスターコンの一位から四位?」
香山がそう言うと、竹崎は呆れた顔で「どう見てもそういう格好じゃないだろ」と言った。するとまだ画面を見つめていた茉子がまた
「このメンバーが一番仲良いの?」
と尋ねた。
「というわけでもないけど…いや、そうかな。分からん」
「なにそれ?じゃ、一番仲良いのは?」
「一番…仲良い人?」
竹崎は茉子の質問を復唱したあと、茉子の手からスマホを取り戻して画面に視線を落とした。しかしなかなか答えないので、また茉子が
「…そんな考える?あ、一緒に免許取った人は?ここに写ってる?」
と聞くと、竹崎は「この人」と言いながらタオルの捻り鉢巻をした井崎を指差した。すると茉子は「じゃ、この人が一番仲良いんじゃないの」と言ったが…
「……」
「なぜ黙る」
「なんていうか…」
「?」
「比べられない」
竹崎はそう返したあと、この話はもうおしまいと言うようにスマホをバッグにしまおうとした。…が、すぐに茉子に止められスケジュールを確認させられた。
夕刻。
井崎は大学から帰った後、通っていた高校の近くにある洋食屋にバイト面接に来ていた。面接は厨房裏の狭い事務室で行われた。
オーナーは痩せ型で眼鏡をかけた気難しそうな男性だった。ずっと一人で店を続けてきたが七十歳を過ぎてから体力的にキツくなってきたため、数年前から二人だけバイトを雇っているのだという。バイトは基本的に調理しないが、簡単な付け合わせを任せることはあるそうだ。また、週に一日はバイト二人体制で閉店後に掃除をする。
「じゃ、さっそく明日からよろしく」
オーナーがそう言って丸い木製のスツールから立ち上がると、井崎も簡素な事務用椅子から腰を上げて「はい、よろしくお願いします」と言った。
それからオーナーは井崎を連れて事務室を出ると、厨房で後片付けをしている若い男性に「森くん」と声をかけた。
振り向いた男性は素朴で真面目そうな顔立ちだった。
「明日から来てくれる井崎くん」
「井崎です。よろしくお願いします」
オーナーに紹介された井崎がそう言って頭を下げると、彼も「どーも。森です」と言って頭を下げた。
*
バイト面接の翌日。
井崎は大学が終わってから六時五十分に店にやってくると、急いで着替え、シフト通り七時から厨房に入った。すると厨房でフライパンを振るっていた森が、ちょうどできあがったオムライスに鍋の中のソースをかけたあと、少し離れたところで見ていた井崎に
「これ、三番に持ってって」
と言った。
面接のあとに簡単に仕事の手順を教わったとはいえ、バイト初日の井崎はまだ分からないことだらけのため、この日は森に指示を仰ぎながら二時間やり過ごした。そして閉店後は三人で厨房と店内の掃除をして、バイトの二人は十時に退勤となった。
事務室で着替えながら、井崎は森に「そういえば、森さんって調理もされるんですか?」と話しかけた。
「ああ、オムライスだけね」
「すごいですね。あのオムライスめっちゃ美味しそうでした」
「ありがとう。デミグラスソースは作れないけど」
「ソースなしでも美味しそうでしたよ。卵フワッフワで」
井崎がそう言うと、森はちょっと照れくさそうに「まあ…そうね」と言った。そして
「…バイト始めて三年経ったときに、オーナーがやってみるかって言ってくれて」
「そうなんですか」
「俺が大学院に行くつもりだって話したから、しばらく辞めそうにもないって思ったんだろうな」
「森さん、今大学院生なんですか?」
「そう」
森がそう言うと井崎は「そうだったんですね」と言って、それからまた黙々と着替えはじめた。
二人は店内のテーブルで経理作業しているオーナーに挨拶したあと、裏口から店の外に出た。
裏口のすぐ傍にとめてあった黒い自転車は森が乗ってきたものだった。井崎は森と別れの挨拶を交わしたあと先に店の前の通りに出た。が…
「あの…」
自転車を押して表に出てきた森は、井崎にまた話しかけられると少し驚いた様子で「お?何?」と言った。すると井崎は少し小さめの声で
「よかったらなんですけど、オムライスの作り方教えてくれませんか?」
と言った。
「えっ……うーん……オーナーがなんて言うかな」
「紙にレシピ書いてくれるだけでもいいんで!」
「それなら、まあ…」
森は戸惑いつつもそう言うと、嬉しそうに「本当ですか!?ありがとうございます!」と頭を下げる井崎をまじまじと見つめた。
「…もしかして、彼女に作ってあげるとか?」
森がそう言うと、井崎は一瞬真顔で固まったあと「えっ?ああ…そうですね」と言った。
「ふうん。間違った作り方教えてやろ」
「ええっ?いやいや、ちゃんと教えてください。頼みますよ」
森の言葉に苦笑いを浮かべて井崎がそう言うと、森は「冗談だよ。いいな〜、彼女」と言いながら自転車に乗って去っていった。