第6話 秘密
四月某日。正午過ぎ。
理工学部棟の一階にある屋外休憩スペースには、六人で使える四角いコンクリートのテーブルとイスがいくつか設置されている。植村と出水はそのうちの一つのテーブルで向かい合わせに座って各々スマホをいじっていたが、出水はふと顔を上げると
「そういえば植村、映画館のバイト決まったの?」
と尋ねた。
「決まった」
「良かったじゃん」
出水がそう言うと、植村は何故か渋い顔で「んー…まあ…」と歯切れの悪い返事をした。
「何。なにか問題?」
「いや…俺、清掃とか案内とかのが良かったんだけど、コンセッションが人足りてないからって…」
「え、コンセッションて、ポップコーンとか売るとこ?植村、接客すんの?」
「…なんで半笑い?ケンカ売ってる?」
出水の反応にムスッとして植村がそう言うと、出水はすぐに
「いや、ごめん。でも、笑顔で接客する植村が想像できないから」
と取り繕ったが、植村はツンとそっぽを向いて「別に笑顔じゃなくても」と言った。
「まあ、やたらニコニコする必要はないけど。でもちょっとは愛想よくしろよ」
「普通にやるって」
「お前の普通は普通じゃないから」
出水はそう言ったあと、少し間があいてから「フードデリバリーとかは考えなかったの」と言った。すると植村はまた渋い顔をして
「いやー…ナシだな」
と言ったが、出水は「そう?俺、やろうかなって思ってんだよね」と言った。
「え、マジで?」
「うん、自転車で。頑張れば隙間時間でも割と稼げるっていうし」
「部活もやってんのに?キツイんじゃないの」
「そうかな。でも、高校のときほど部活キツくないから。大丈夫でしょ」
「ふうん…。強豪校だったの」
「インハイいったよ」
出水がそう言うと、植村は何故かじとっとした目で出水を見ながら
「…お前、一般入試でここ入った?」
と聞いた。
そして、出水が何でもないような顔で「うん」と答えたそのとき。
植村のスマホの画面にメッセージアプリの通知が表示されると、植村はすぐにスマホに視線を戻しメッセージを確認した。
“なでれた!”
…というメッセージのあとに、一枚の写真がアップされている。腕をいっぱいに伸ばして、なんとか猫の頭に手を触れている奥野の写真だ。猫の表情は完全に「仕方ないな、ちょっとだけだぞ」という感じだが、奥野はとても嬉しそうな顔をしていた。
「…彼女?」
植村の様子を見て出水がそう言うと、植村はちらりと出水を見たあと小さな声で「…お前には絶対会わせたくない」と言った。
「植村の彼女を好きになったりしないのになあ」
出水は呟くようにそう言ったあと、ちょうどトイレから戻ってきた小原を見上げて
「植村がまたニヤついてる」
と言った。
小原はスマホ画面を見ている植村を見るとすぐに「ああ、彼女」と、どうでも良さそうに言った。が、そのまま少しの間、植村を見ていたかと思うと
「俺、最初は植村が彼女いるっての嘘かと思ったんだよね」
と言った。
すると出水も…
「あ、俺も。だって写真も見せない、名前も教えないってねえ?」
と言って小原と顔を見合わせ、それで植村はやっとスマホから顔を上げた。
「…なんで俺がそんな嘘つかなきゃならないんだよ」
「いや、モテ過ぎ防止とかさ。植村みたいな奴が見栄張ってそんな嘘つくと思わないし」
「モテ防止ならお前の方が必要だろ。嘘つかなくていいのか?」
植村がそう返すと、出水は少し考えたあと
「俺はまあ…むしろモテる男アピールしたいかも」
と言った。
「はあ?何のために」
「モテる奴に口説かれたら嬉しいっしょ」
「…なに。大学に気になる子でもいんの?」
「そのうち教える」
出水がそう言うと、出水の横に座って二人のやりとりを見ていた小原が「今教えろよ」と口を挟んだが、出水は視線を逸らして「ムリ」と言った。
大学が終わってから三人で小原の部屋に来て、レポートに取りかかってから一時間ちょっと。現在、午後六時半。
小原はこの春からアパートでひとり暮らしをしている。小原の実家は大学からそう遠くないが、小原の大学進学を機に母親が海外赴任している父親のもとへ行ったからである。
三人は最初は図書館で課題をしようと言っていたのだが、間際になって出水が、小原か植村の部屋に行ってみたいと言いだした。それで三人は、大学から歩いて十分の小原のアパートにやってきたのだった。ちなみに出水は大学の学生寮に入っている。
「植村食わないの」
三人で囲んでいるテーブルの真ん中に置かれたチョコレートの箱を顎で指して小原がそう言うと、植村はノートパソコンの画面を見たまま「いい」と言った。
「植村ってチョコ好きなんじゃないの?前にチョコ買ってたよな。あ、分かった、彼女のか」
出水は一人で納得したようにそう言って、植村はそれに小さく頷いたあと、ベッド傍のデジタル時計に目をやりながら「でも腹は減った」と言った。
三人は七時半に中華料理店の出前を受け取り夕食を済ませると、ゴミを片付け、植村と出水は八時半に小原の部屋を出た。
出水の横でノロノロと自転車を漕いでいる植村に、出水は「次は植村んちだな」と言った。
「別にいいけど。バスでくんの?」
「いや、チャリあるよ。今日は寮まで取りにいくのが面倒だっただけ」
「あ?そうなの。歩いて帰る方がダルいだろ…。先帰っていいすか」
植村がそう言うと、出水は植村の右腕に軽く触れながら「まあまあ、大通り出るまで付き合えって」と言った。
…その直後、出水は急に植村の右袖をくいと引っ張ると歩く速度を少し落とした。というのも、二人の前方から歩いてくる体格のいい男が、ついこのあいだ大学の門のところで見かけた小原の幼馴染みだということを伝えようとしたのだ。植村はすぐに察したようだった。
彼は前に見たブレザー姿とは随分違うシンプルなトレーナーにゆるいズボンという格好だったので、二人ともすぐには気がつかなかったのだ。
彼は視線を感じたのか少し怪しむような目で二人のことを見たが、何も言わず通り過ぎていった。
「今のって、小原の幼馴染みだよな」
植村がそう言うと、出水はそっと彼に振り返りながら「小原んとこ行くのかな」と言った。
「そりゃ、そうだろ」
「…」
「おい。もう行くぞ」
「…」
「先行くからな」
じっと彼の消えた方を見ている出水にそう言うと、植村はゆっくり自転車を漕ぎだそうとした。しかし…
「ちょっと気になるな」
出水はそう言ったかと思うと来た道を引き返しだし、植村は呆れたような顔でしばらく出水の後ろ姿を見送っていたが、結局は出水の後に続いて小原のアパートまで戻ったのだった。
彼は二階建てのアパートの階段を上がると、真っ直ぐ小原の部屋に向かった。植村と出水はアパートの前の塀の陰からその様子を見ていた。
彼が鳴らしたインターホンからこもった声がしたあと、少ししてからドアが開いて小原が顔を出した。小原はじとっとした目で彼を見ると
「こんな時間に来るなよ。明日学校だろ」
と言った。
「ちゃんと終電で帰るって」
「ダメだ。できるだけ早く帰れ。だいたい何しに来たんだよ」
「冷たあ。顔見にきただけじゃん」
そう言ったあと、自分より背の低い小原の顔をのぞき込んで「襲ったりしないって」と付け加えた彼に、小原は動揺したのか少し後退りしながら「当たり前だ」と言い放った。
「せっかく貢ぎ物も買ってきたんだから、追い返すなよ」
彼は手に持っていたビニール袋を小原に見せながらそう言った。すると小原は小さくため息をつき…
「…十時には帰れよ」
「えー?」
やれやれという感じで彼を部屋に入れようとした、そのとき。塀の後ろから少しだけ顔を覗かせていた二人に気づいた小原はギョッという顔で固まり、彼も何かと振り返り二人の方を見た。
「え、なんで…」
小原がそう言うと、出水は何食わぬ顔で塀の後ろから出ていき「いや、スマホ忘れて」と言った。
「は?どこに」
「俺が座ってたあたりにない?テーブルの下かも」
出水がそう言うと小原は肩でため息をついたあと、突っ立って二人を見ていた幼馴染みを部屋に押し込んでから自分も中に入っていった。
植村は何か言いたげな顔で出水を見たが何も言わなかった。
それからすぐにまた出てきた小原が「おい、ないぞ」と言うと、出水は「ほんとに?」と言って肩にかけていた大きなリュックに手を突っ込み、少しすると
「ごめーん、あった」
と言ってスマホを掲げた。
*
二限の授業が終わり周りの学生がさっさと教室を出ていくと、ゆっくり机の上を片付けていた出水が
「昨日、幼馴染みくんはちゃんと帰ったの」
と徐ろに口を開いた。
出水の隣に座っていた小原は一瞬表情をこわばらせたように見えたが、すぐに「もちろん。帰らせた」と言いながら立ち上がった。すると
「あの幼馴染みくんさ…」
「なに」
「大丈夫なの」
「なにが」
「襲われたことがあるとかないとか」
出水は小原の顔を見ずにそう言った。すると小原もふいと顔を背けて「ああ…あれはただの、あいつの冗談。お前に心配されるようなことは何もないよ」と言ったが…
「あ、そ」
出水が素っ気なくそう返すと、小原は気まずそうな顔で少しの間黙り込んだあとまた出水の隣に座った。そして教室に人がいなくなると
「前に付き合ってた」
と口を開いた。
「…でも、ほんとにちょっとだけ。中高一貫の男子校で、校内で付き合ってる奴らとかも普通にいて…そういう環境だったから、俺らもなんとなくそういう流れになっただけで、二人とも元々男を好きなわけじゃないから」
小原がそう話すと、出水は納得したように「そうか」と言った。しかし、通路を挟んで小原の隣に座っていた植村が突然
「元々男を好きじゃないから何?」
と突っ込むと、二人は少し驚いた顔で植村を見た。
「…だから、それで別れた」
「あっちは未練あるように見えたけど」
「今だけだ。そのうちなくなる」
小原がそう答えると、植村はまだ何か言いたそうな感じだったがそれ以上何も言わなかった。