第5話
四月某日。
大学に来てすぐ、二限の教室へ向かう前に経済学部棟にやって来た奥野は、入り口の前でひなたぼっこしている猫の傍にしゃがみこんだ。…ここに棲みついている茶トラのメス猫だ。経済学部棟の玄関ポーチの隅っこには彼女の家であるダンボール箱が置かれており、中にはピンク色のタオルケットが敷かれている。棲みついてもう五年になるといい、他学部の学生も含めたくさんの人から可愛がられているが、ごはんは決められた担当者以外は与えてはならない決まりだ。
奥野がそっと彼女の額に手を伸ばすと、彼女はシャーッと牙を剥いて威嚇した。
「なんでえ?毎日会いに来てるのに」
奥野がそう言ったとき、後ろでフフッと笑う声がして振り向くと、麻木が口に手をあてておかしそうに奥野のことを見ていた。
「シャー言われてる」
「笑わないでくださいよ〜」
奥野はしゃがんだまま麻木を見上げてそう言った。すると麻木は
「まあまあ、しょげないで。みんな通る道だから」
と言いながら奥野の横にしゃがみ込むと、すぐに喉を鳴らしはじめた茶トラの頭を撫でた。奥野は麻木に撫でられて気持ちよさそうに目を細めている猫を、ちょっと膨れっ面で見ていたが…
「…麻木さんも、最初はシャー言われました?」
「もちろん。まあ、三日で言われなくなったけどね」
「ええ!なんですかそれ!」
そう言ったあと、奥野は急に何かいいことを思いついたというようにニヤリとしたかと思うと、一歩横に寄り、麻木とピッタリ肩をくっつけた。麻木は少し驚いた顔で奥野を見たが、何も言わずにすぐ視線を逸らした。
「ほら、麻木さんと仲良しだよ〜」
「……」
「怖くないよ〜」
奥野はそう言って優しく茶トラに話しかけると、もう一度手を伸ばした。…が、また同じように威嚇されてしまった。
「ぬうう…ダメか」
そのとき
「…麻木さん?」
背後から聞こえた声に二人が振り向くと、オレンジ色のパーカーを着た明るい茶髪の男子学生が目を丸くしてこちらを見ていた。…そして、そのパーカーの学生の一歩後ろにもう一人。奥野の視線は自然とその男子学生の方へ流れた。
重ための目蓋に、小さな鼻、薄い唇。その全体的に主張の弱い顔立ちは、一般的に“イケメン”と言われる部類ではないかもしれない。しかし、百八十センチ程あると思われる身長とそのスタイルの良さも合わせると、何か独特の魅力のある容姿だった。
「え、え、もしかして…?」
パーカーの学生は奥野の顔を見ると、そう言って麻木と奥野を交互に指差した。すると麻木は立ち上がり、ため息混じりに「違うよ。そういうんじゃないから」と言った。
「えー?そうなんですか。すいません…すごく親しそうだったから」
パーカーの学生はちらりと奥野を見てそう言い、奥野は何も言わず小首を傾げながら、取り敢えず立ち上がった。
「奥野、この二人は経済学部の二年で、こっちはトラ先輩のごはん担当の中西」
「え、あ、そうなんですか」
「で、こっちは俺の高校の後輩でもある丹羽」
麻木はパーカーの彼の次に、一歩後ろの彼を指してそう言った。一歩後ろの彼は奥野と目が合うと軽く会釈をし、奥野も慌てて頭を下げた。
そして
「…あ、麻木さんと同じ高校ってことは、管とも知り合いですか?」
「管?知ってるよ。管の友達?」
丹羽がそう言うと、奥野はパーカーの彼の方にも視線をやりながら「はい。外国語学部の奥野です」と自己紹介をした。
それからすぐ経済学部の二人は学部棟の中へ入っていき、束の間の沈黙が流れたあと、麻木が
「あー、えっと、ごめんね、勘違いされちゃって」
と口を開いた。
「え?あ、いえ…というか…その…麻木さんて」
「うん。ゲイなんだ、俺」
麻木がそう言うと、奥野はなんでもないふうな調子で「ああ、そうなんですか」と言った。しかしその目がゆらりと泳いだのを見逃さなかったのか、麻木はフッと笑って
「大丈夫だよ。俺、ストレートは好きにならないから」
と言った。
「…!やっ、別に、そんな心配してないですよ!」
「いやいや、奥野には警戒されても仕方ないから。確かに俺、可愛い系がタイプだし」
麻木がそう言うと、奥野は少し気まずそうに俯いた。それから言いにくそうに
「ストレートは好きにならないって…そういう、あれですか…?体質っていうか…」
と口にすると…
「いや、別にそういう性癖ってわけじゃないけど。前にストレートと付き合って後悔したから。もうこりごり」
麻木はカラッとした様子でそう答え、奥野は「そうですか」と、どこか空虚な返事をした。
今日の最初の授業は中国語で、小さめの教室だが席は自由だ。授業開始の七分前に教室に入った奥野は、管の隣にやってくるとすぐに身を屈め
「…管、麻木さんがゲイだって知ってた?…よな?」
と声を潜めた。
管はいじっていたスマホから顔を上げると「ああ…うん。高校のときからオープンだったし」と言った。
「そうなんだ」
「男子校だったからか、オープンゲイとかバイとか割といたんだよね」
「へえ…」
「…言ったほうが良かった?」
「え、いや、別に…。あ、そうそう、さっき丹羽さんに会ったよ」
「丹羽さんに?ふうん…あ、分かった、また猫のとこ行ってたんでしょ」
管がそう言うと、奥野は「へへ」と笑いながら管の隣の席に座った。
最後のコマを終えて外に出ると、辺りはもう薄暗くなっていた。一人で講義を受けていた奥野はさっさと門の方に歩きだしたのだが…
「ちょっといいですか?」
門の手前まで来たとき、門の側で立っていた男子学生がそう言って奥野の行手を阻むと、奥野は目を丸くして立ち止まった。彼は奥野の目の前まで歩み寄ると、にこにこ笑顔になって
「俺、文化祭の役員やってるんだけど…君、ミスターコンテストに出てみない?」
と切り出した。
「…えっ?いや、俺は」
「あ、ごめんね。急に言われてもびっくりするよね。うちの大学で毎年ミスターコンテストやってるんだけど…」
「あ、あの、すみません。俺、興味なくて」
「えー?そうなの?うちのミスターコンって結構注目度高くて、優勝してアナウンサーになった人とかいるよ?」
「それは知ってますけど、俺はいいです」
「もったいない!」
「いや、大丈夫なんで。失礼しm」
「絶対に出た方がいいって!出場した人はみんな、出る前より出たあとの方が輝いてるから!ミスターコンでは準備段階でいろんな人と関わるし、自分を見つめ直す機会にもなるからさ」
「や、俺は…」
「ね!君ならグランプリ狙えるし!」
男子学生が奥野の肩に手を置いてそう言うと、奥野は「…あの…じゃ、考えときます」と言った。しかし、それで大人しく解放してくれる彼ではなく…
「ほんとに?それなら、もう登録だけ済ませちゃお」
「え!?いや、それはちょっと」
「んー…じゃあ、連絡先だけ聞いといていいかな」
「え…と」
奥野は明らかに逃げだしたそうに目を泳がせていたが、男子学生は粘り強く奥野の前に立ちはだかった。彼は奥野よりも少し小柄だったが、押しのけて進むのは躊躇ったのか、奥野は諦めたようにポケットのスマホに手を伸ばした。
しかし
「嫌なら教えなくていいよ」
奥野の背後から聞こえた声に、奥野はスマホをつかみかけた手を止めた。声をかけてきたと思われる人物はそのまま二人の横を通り過ぎたが、男子学生の意識が一瞬その人物の方へ向くと、奥野は今しかないと
「じゃ、失礼します」
と言いながら彼の横をすり抜けた。すると彼はしまったという顔をしたあと
「にわぁ!」
と、声をあげた。
その声に奥野がビクッと肩を揺らし立ち止まると、同時に「にわ」と呼ばれた男子学生も立ち止まり面倒くさそうに振り向いた。
「お前が麻木さんを説得してくれないから、こっちは必死で他のイケメン探してんだぞ!」
「参加希望者だけでやればいいでしょ」
「それじゃ投票率上がんないのよっ…」
「そこは参加者で頑張って盛り上げてください。出たくない人をしつこく勧誘するのは良くないと思います」
丹羽耀はそう言うと、また二人に背を向けて歩きだした。
「あ、あの、ありがとうございます」
すぐに丹羽のあとを追った奥野がそう声をかけると、丹羽は「いいえ」とだけ言って、奥野はそのまま丹羽の隣に並んで歩いた。
「…丹羽さんも陸上部だったんですか?」
奥野が聞くと、丹羽は「そう。今もね」と言った。…管、麻木、丹羽の三人は、高校でともに陸上部に所属していたのだ。丹羽だけが今も陸上を続けているようだ。
「そうなんですか。何の種目やってるんですか?」
「十種」
「へえーっ。かっこいいですね」
「どうも」
「何がいちばん得意なんですか?」
「走り高跳びかな」
「ほお〜。見てみたいなあ」
そう言って人懐っこい笑顔を見せる奥野を、丹羽は少し不思議そうに見ていた。そして
「…奥野くんは何かやってるの?」
「俺は大学では何も。高校ではバドミントンやってました」
「バドミントンか。俺もスポーツの中でかなり好きだよ」
丹羽がそう言うと、奥野はぱっと顔を輝かせ
「ホントですか!?じゃあ、今度みんなでやりましょうよ!」
と言った。
すると、彼にとってはまさかの展開だったのだろう、丹羽は「えっ?」と言って間の抜けたような顔をした。
「…みんなって?」
「丹羽さん、麻木さん、管、プラス俺です!」
「…道具は?」
「大丈夫です!俺、家にラケット四本あるんで」
奥野はちょっとドヤ顔でそう言い、すると丹羽はちょっとだけ呆れた感じだったが、小さく笑って「いいよ、やろう」と言った。