第3話
四月某日。朝。
古い学部棟の二階。奥から二番目の小さな教室へ入ると、出水がこちらを見て手を振った。植村は並んで座っている出水と小原の後ろの席に着いた。すると、すぐに出水が後ろに振り返り
「な、植村って彼女いんの」
と言った。
「いる」
植村が答えると、小原も振り向き「やっぱいるんだ」と言った。
「部活で他の学部の女の子たちにめっちゃ聞かれるの」
「…お前に近づく口実だろ」
「そういう子もいると思いたいけどね」
植村の言葉に出水がそう返すと、スマホをいじりだしていた植村は上目遣いで出水を見たあと
「ってことは、お前は彼女いないの」
と言った。そして
「そうそう、これからつくるところ」
出水がそう言うと、植村は「あ、そう」と言ってまたスマホに視線を落とした。しかし、すぐに小原が
「それより、植村の彼女の写真見たい」
と言ったので、植村は面倒くさそうにゆっくりまた顔をあげた。
「ない」
「はー?彼女の写真持ってないなんてことある?」
「お前らに見せる写真はない」
植村がそう言うと、小原は顰めっ面で出水の方を向いて「だってよ」と言った。しかし出水もちょっと不満そうな顔をしたかと思うと、小原を指差し
「っていうか、お前さっき、俺がこれから恋人つくるって言ったくだりを“それより”って切ったよね」
と言った。
すると小原はわざとらしく爽やかな笑顔で出水の肩に手を置き、それで出水は諦めたように
「まあ、確かに植村の彼女見てみたいけどな〜。美人系?かわいい系?」
と植村に質問した。
植村は少し考えたあと「どっちも」と答えた。すると二人は柄にもなく「うぇーい」とちゃらけた声を出し、それから今度は小原が「名前は?」と質問をした。が…
「…なんでそんなん聞くんだよ」
「や、別に。暇だから」
「…教えない。それよりバイト決まんねえ」
植村がそう言って話を逸らすと、小原は不満気な顔をして「選り好みしてんだろ。もう、ホストやれよ、ホスト」と返した。
一限目のあと、奥野と管は学部棟の一階のフリースペースに来て、ついさっき英語の授業で出された課題をはじめた。
二人は四角い白いテーブルに向かい合わせに座りノートパソコンで作文しやすそうなネタを探していたが、奥野はすぐにテキトーな記事を見つけると、もうパソコンの電源を切ってスマホを手にした。
そうこうしていると…
「管」
背後から聞こえた声に反射的に顔を上げた奥野は、「あ、こんにちは」と言った管の視線の先を追って振り返った。
ミルクティーみたいな色に染められた髪は襟足が長めで外側に跳ねていて、両サイドに分けられた前髪は片方だけ耳にかけられている。彼は繊細そうな綺麗な顔立ちで、奥野と同じくらいの身長だが、体格は奥野よりもだいぶ男らしい。
振り返った奥野と目が合うと、彼は目をぱちくりさせたあと管を見て
「同じ学部の子?」
と言った。
「はい」
管はそう返事をすると、ポカンと彼の顔を見ている奥野に
「高校の先輩の、麻木さん。今三年生」
と紹介した。
奥野は管に「へえ!」と言うと、また麻木の顔を見上げた。
「奥野幸太です」
「麻木真叶です。よろしくね〜。俺も外国語学部だから、何か分かんないこととかあったら遠慮なく言ってね」
「ありがとうございます」
二人がそう言って挨拶を交わすと、管は奥野に「麻木さん、学年主席なんだ」と言った。
「へえ!才色兼備なんですね!」
「…奥野くん、人の懐に入り込むの絶対上手いでしょ」
「え、お世辞じゃないですよ!」
「そーお?ありがとね」
麻木は優しく笑ってそう言うと、ちらりとテーブルの上に目をやって
「で、今は二人で課題中?」
と言った。
すると奥野はちょっとバツが悪そうに「あ、いや、俺はバイト探してて」と言いながら、画面の真っ暗なノートパソコンをそっと畳んだ。すると…
「え、じゃあ、俺がバイトしてるコーヒーチェーン来ない?」
「えっ」
「ちょうどバイト一人減ったところでさ」
「そうなんですか?」
「駅から近いし。まあ、ちょっとは歩くけど」
「そ、その辞めた人の代わりが俺なんかでいいのかどうか…」
「大丈夫だよ、おいでおいで〜。後で管に情報送っとくね」
麻木がそう言うと、奥野は背筋を伸ばし「あ、ありがとうございます!」と言った。
「他のとこがいいなって思ったら、全然断ってくれて大丈夫だから」
「ありがとうございます!」
「じゃあね」
「ども!」
麻木が去っていくと、奥野は背筋を伸ばしたまま麻木の背中を見送った。そして麻木がフリースペースから出ていくと管を見て
「めっちゃいい人だね」
と言った。
「うん」
「めっちゃキレイな人だし」
「うん」
管は奥野の言葉に頷いた。しかし、それから管が「奥野も」と言うと、奥野は目を丸くして「え?」と言った。
「顔かわいいし、オシャレだし」
管の言葉に、奥野は「あー…」と言いながら自分の着ているものを見下ろした。全体的に春らしい淡い色合いでまとまっている。
「いや、コレはね、俺のセンスじゃないの。服は姉ちゃんに選んでもらっててさ。恥ずかしいんだけど」
奥野がそう言うと、管は草食動物のようなつぶらな瞳をくるっとさせて「そうなの?」と言った。奥野はこくりと頷いた。
「そう、俺が自分で選ぶと…」
「ん?」
「あの…決して管の気分を害する意図はないんだけど…」
「…うん?」
「俺が自分で選ぶと、そういうTシャツとか、そういうズボン選ぶ」
奥野が管のTシャツとズボンを順番に指差しながらそう言うと、管はさっき奥野がしたように自分の着ているものを見下ろしてから
「え…ほんと?」
と言った。
「うん、もう、めっちゃセンス一緒だよ」
「…あ、だから俺に声かけてきたの?」
「え、いや、そういうわけじゃないけど。入学式の日はみんなスーツじゃん」
「あ、そっか」
「…コレがオシャレって思うなら、今度うちの姉ちゃんと三人で買い物行く?」
奥野は自分のTシャツの右肩のあたりをつまみながらそう言った。すると管は「えっ!?」と驚いた声を出したが、奥野は平然と
「管に似合う服選んでくれるよ。俺は今の管も好きだけど」
と続けた。すると管は俯いて「いやいや…」と苦笑したが…
「姉ちゃん喜ぶよ。他人の服選ぶの好きなの」
奥野がそう言ってにこっと笑いかけると、管は「えー…」と言ってまだ苦笑いを浮かべながらも、どこか少し嬉しそうなカンジだった。
午後八時。
大学のあと、井崎は直接家には帰らず、いつもは乗らない電車に乗り換えてとある駅へとやって来た。それほど大きな駅ではないが、近隣に高校や大学があるため人通りは多い。
井崎は駅の南口から出ると線路沿いを歩きはじめた。左手に建ち並ぶ店はほとんど年季が入っていたが、中には最近できたようなキレイなお店もあった。やがて赤い提灯と赤いのぼり旗が見えてくると、井崎はその店の様子をうかがうように歩幅を狭くした。
…古過ぎず、しかし決して新しくもないたこ焼き屋だ。制服姿の女子高生二人組が二席しかないカウンター席に座っていたが、ちょうど帰るところのようで、足元に置いていたスポーツメーカーのゴツいリュックを背負うと
「ごちそーさま、田中さん!」
「田中さん、バイバイ!」
と言って去っていった。
それから井崎がやってくると、“田中さん”は緊張感のない声で「いらっしゃいませー」と言った。井崎はちょっと首を傾げながら、笑いを含んだ声で
「田中さん?」
と言った。
「適当に呼ばせてる」
「名前教えてあげないんだ。っていうか、名札ないの?」
「ないよ。まあ、必要ないんじゃない」
「そっか。ていうか、もう一人で勤務ってすごくない?文化祭の経験めっちゃ活きてんじゃん」
「いや、ほんと、そうなのよ」
竹崎がそう言うと、井崎は「三年の文化祭楽しかったなあ」と言いながらカウンター席に座った。それから女子高生たちの去っていった方をちらりと見遣ると
「…にしても、所構わずモテるね。太田さんは気が気じゃないだろうな」
と言った。
「んなこたないと思うけど」
「竹崎は?」
「ん?」
「太田さんと大学離れて心配?」
「そりゃ、まあ」
「だよな。太田さんめっちゃモテるし。あ、ねぎたこお願い」
「はいはい」
「…でも大丈夫だよ。太田さん、竹崎のこと大好きだもん」
たこ焼きをひょいひょいと船皿に盛っていく竹崎の手元を見ながら井崎がそう言うと、竹崎は一瞬手を止めて
「お前こそ」
と言った。
竹崎の言葉に、井崎は目を丸くして竹崎の顔を見た。
「え」
「藤田さん、めっちゃ一途じゃん」
竹崎はマヨネーズをかけながらそう言った。すると井崎は「ああ…」と間の抜けたような声を出した。そしてたこ焼きに大量のネギが盛られるのを眺めながら
「まあね」
と言った。