第10話
五月某日。
英語のライティングの授業のあと、奥野と管は大学の留学センターにやってきた。
管は何種類も置いてある留学関連の資料の中から、薄いパンフレットを一つ手にとった。長期休暇中に参加できる短期留学の資料だ。
奥野は二年生か三年生で何かしらの留学プログラムに参加するつもりだが、まだ短期にするか中期にするか悩み中である。なので今回は、今年の夏休みに短期留学をするという管についてきただけだったのだが…
「…奥野、いっしょに行かない?」
管はパンフレットの中身をパラっとだけ見たあと、突然奥野にそう言った。
「え?」
「無理にとは言わないけど…俺、初海外だし、ちょっとビビってて…」
「あー…」
奥野はラックから管がとったものと同じパンフレットをとると、表紙を見つめながら
「周りに他の日本人まったくいないってことあるのかな…?」
と言った。
「分かんない。さすがにプログラム参加者が俺だけってことはないと思うけど…友達がいっしょだと、何かあったとき相談できて心強いし」
管がそう言うと、奥野はパンフレットを開きながら「んー…そうだな…」と言った。
「あ、そんな真剣に考えなくていんだよ。そもそも奥野が今年は行く気ないの知ってるし。ダメ元で誘ってみただけだから」
「うーん…」
「さ、図書館行こっか」
「…」
「あの、まあ、なんとかなるよ。一ヶ月だし」
ずっとパンフレットに視線を落としたままの奥野に、管は少し焦ったようにそう言った。しかし
「ちょっと、考えてみる」
奥野が急に顔をあげてそう言うと、管は間の抜けた様子で「え…ホント?」と言った。
「うん。俺だって管がいっしょの方がいいし。休みの日にいっしょに出かけたりできるかもじゃん」
奥野がそう言うと、管は嬉しそうに頬を緩めて「うん」と言った。
「あ、でも、親に相談しなきゃだし、無理かもだけど」
「いいよ。一応、期待はしないでおくから」
管がそう言った、そのとき。奥野のズボンのポケットからピコンという音がして、首を傾げながらスマホを確認した奥野が途端に「えっ」と声をあげると、管はきょとんとして奥野を見た。
「どうしたの?」
「えっと…ごめん、先に図書館行ってて!」
奥野がそう言うと、管はきょとんとしたまま「いいけど」と言った。
「じゃ、あとで!」
奥野はそう言ってその場を後にし、小走りで正門の方へ向かった。
正門では植村が、やはり注目を浴びながら奥野を待っていた。周囲からの視線やヒソヒソ話す声などないみたいに涼しい顔でスマホをいじっている。
奥野は密かに面倒くさそうな顔をしたあと、植村に駆け寄り
「え、えいと、授業は?」
と声をかけた。その声に植村はやっとスマホから顔を上げると…
「三限が休講になったから、あとのコマもさぼることにした」
何食わぬ顔をしてそう言った。
「ええ?大丈夫なの?」
「大丈夫。今日はあと一コマだけだったし、その授業はテストの点が良ければ単位もらえるって」
植村の言葉に、奥野は「ああ、そうですか」とちょっと皮肉っぽい顔をしてみせた。すると植村は「まあ、今日だけだよ」と言ったあと、奥野をじっと見つめて
「なんか都合悪かった?」
と言った。
「え、や、別に…」
「そお。今、空きコマだろ。何してたの」
「管の用事で事務室に行ってた。そのあとは図書館で課題しようとしてたの」
「ふうん。で、管くんは」
「先に図書館行ってもらったよ」
奥野がそう言うと、植村は「図書館か…」と呟いた。
「まだ時間あるし、管も誘ってお茶でもする?」
「…いや。俺も課題持ってるし、図書館でいいや」
「そう?」
「図書館どこ?」
植村は辺りを見回しながらそう言った。すると、奥野はなぜか急にもじもじとした様子で「あのさ」と切り出した。
「…ん?」
「ちょっと、言っておきたいことが」
奥野が若干ヘラっとしてそう言うと、植村は何か嫌な予感がするというように目を細めて奥野を見た。
「…なに」
「俺たち、大学ではお互いに彼女がいることにしようって言ってたじゃん?」
「…」
「なんだけどさ、俺…付き合ってる人いないことになってるから」
奥野の言葉に、植村は小さく天を仰いだ。そして…
「ハア?なんで?」
「ごめん…。聞かれたときにさ、最初はホントに、彼女いるって言うつもりだったの。けど、ふとさ…写真見せてとか言われるんじゃない?そしたら、どう答えたらいいの?っていうのが頭に浮かんで。とっさに、いないって答えちゃったの」
「お前らに見せる写真はないとか、適当に言っとけばいいだろ」
植村がそう言うと、今度は奥野が「はあ?言えるわけないでしょ、そんなこと」と言って顔を歪めた。しかし…
「俺は言ったけど?」
「…え、言ったの?小原くんたちに?」
「以外の奴らにも」
植村は平然とそう言って、奥野はハーと声を出してため息をついてから
「あのね…普通の人はそういうこと言ったら、みんな離れてっちゃうの。自分は特別なんだって覚えときな?」
と言った。
植村は何か不服そうな表情ではあったが反論はしなかった。それで奥野はちょっと柔らかい表情に戻ると
「でもさ、よく考えたら、女の子と付き合ったことないのに彼女いるフリしても、そのうちボロが出そうじゃん?だから、“恋愛とか興味ないんですよね〜”なキャラでいく方が俺には多分合ってると思うんだよね」
と言った。しかし植村の浮かない表情は変わらず…
「そんな曖昧なキャラ設定意味ねーよ」
「あるよ」
「どうやって演じんの」
「他人の恋愛バナシとか、めっちゃリアクションしたくてもあんまり興味なさそうな顔で聞いてる」
自信満々な奥野に植村は小さくため息を吐いた。が、それから少しの沈黙のあと…
「…さ、管が心配するといけないから、早く行こ」
奥野がちょっと気まずそうにそう言って植村の袖をつまむと、植村は素直に奥野といっしょに歩きだした。
奥野は植村を連れて図書館に入ると、パソコンゾーンの横にある自習スペースに向かった。管からそこにいるというメッセージが来ていたのだ。
「あれっ!丹羽さんだ!」
自習スペースまでやってくると、管の前の席に丹羽がいることに気がついた奥野は嬉しそうな声でそう言った。そして、その声で奥野の方へ振り向いた丹羽は植村に気がつくと、不思議そうな顔をして「…おお」と言った。管も不思議そうに目を丸くして二人の方を見ていた。
「空きコマですか?」
二人の傍まで来た奥野が丹羽にそう聞くと、丹羽は「そう」と言ってからチラリと植村に目をやった。
「あ、えっと…このひと、高校の友達なんです。休講になったからって突然遊びにきました」
奥野がそう言うと、植村は二人に「どうも」と言って軽く会釈した。すると、管は同じように「どうも」と言って会釈を返し、丹羽は「こんにちは」と挨拶したあと奥野を見て
「びっくりした。こんなイケメン、うちの大学にいたっけって思った」
と言った。
「俺もビックリしましたよ。ホント、急に来るんですもん」
丹羽の言葉に奥野はそう言って笑った。が、それを聞いた管が「奥野、空きコマで良かったね」と言うと、急にぎこちない笑顔になって
「え、あ、そうだね。確かに」
と返した。
「次の授業って大教室?」
奥野が管の隣に座ると、植村は奥野の隣に座りながらそう尋ねた。
「そう」
「じゃあ、紛れ込めるな」
「いや…栄斗みたいなのが急に来たら絶対バレるってば」
奥野が苦笑混じりにそう言うと、丹羽も「そりゃあバレるわ」と奥野に同調した。…そのとき、管は何故かじっと植村の方を見ていたかと思うと、急に
「…奥野、たまに植村くんの服着てる?」
と言って、その場に妙な “間” が生まれた。
「…えっ?いや…これ、俺の服だけど」
慌てて自分の着ているものを確認してから奥野がそう言うと、管は視線を奥野から植村へとずらしながら「じゃなくて…」と言った。
植村は、袖と首元にステッチの入った黒い長袖Tシャツを着ていた。…奥野は植村の部屋に泊まった翌日に借りて着て帰ったものを、家で洗ったあとにまた着ることがあった。
「植村くんが着てるやつ、こないだ奥野着てたよね」
「あ…そうだっけ…そういや、なんかの理由で借りたことあったかな。忘れちゃったけど」
「そう?他にも借りてなかった?たまに奥野っぽくない服のときある。ちょっと袖が長くて、腕まくったりしてる」
「あー…そういや、たまに借りてるかな」
「だよね。仲良いんだね」
管にそう言われると、奥野は「まあ」と言ってぎこちなく笑った。その横で植村は諦めた目をしてノートパソコンの準備を始めた。
丹羽はさっきから少し俯いて、おそらく笑いを堪えているようだった。
次の授業の時間が近づくと、管は一人でトイレに立った。丹羽もそれと同時にもう次の教室へ向かうと言って机の上を片付けはじめ、トートバッグと部活用のリュックを持って立ち上がると「じゃあ」と言って去っていった。
「…絶対バレたろ」
丹羽の背中が離れていくのを見ながら植村が呟くようにそう言うと、奥野も少し気まずそうな顔で丹羽の背中を見送りながら
「…丹羽さんは気づいてるね。爆弾投下した本人は気づいてなさそうだけど」
と小さな声で返した。
すると植村は呆れたような顔で奥野を見て…
「っていうか、あれは幸太の自爆だろ。あんな下手なリアクションがあるか?バレバレ過ぎる」
と言い、その言葉に素早く植村に振り返った奥野は、心外だというような顔で
「なんだよ、俺のせいにすんの?栄斗だってすぐに返す言葉出てこなかったくせに。俺が困ってるのに黙っちゃってさ」
と返した。
…が、植村はもう呆れて笑うしかないというような様子で
「助け舟出すまでもなく自爆したろ。幸太が最初に “そうそう、たまに借りてんだよね” で済ませれば良かっただけの話。服の貸し借りくらい堂々とすればいいだろ。なんで変に誤魔化そうとするかな」
と言った。
「…なんだよ、じゃあ、俺のせいか」
「そう。幸太のせい」
「栄斗が来なければバレなかったけどね。しかも、よりによって俺が借りた服着てこなくても」
一ミリも譲歩する気のない植村に、奥野はいじけたようにそっぽを向いてそう言った。すると植村はため息だけついてもう何も言い返さず、それから二人は互いに顔を背けて黙り込んだが…
「…でも、大丈夫だよ。丹羽さん絶対口固いと思う。他人のことペラペラ喋るような人じゃないって」
やがて奥野がそう口を開くと、植村も「…まあ、そんな感じだけど」と言った。そして
「っていうか、幸太があの人に懐く理由が一瞬で分かった」
「え?」
「丹羽さん、ちょっと竹崎に似てる」
植村がそう言うと、奥野は途端に目を輝かせた。
「そうなの!分かる!?顔は似てないけど、雰囲気とかシルエットがもうめっちゃ竹崎と重なんの!」
奥野は嬉々としてそう言い、植村は「分かったから」と言いながら奥野の口を手で雑に塞いだ。
周囲にいた学生らは様々な好奇の目で二人のことを見ていて、奥野はハッとすると気まずそうに肩を窄めた。
朝。
経済学部棟の前でトラ先輩に挨拶をしていた奥野は、背後から「奥野」と呼ばれると、待ってましたというように素早く振り向いた。
「おはようございます」
奥野がそう言ってペコリと頭を下げると、丹羽は「おはよう。早いね」と言った。
「早く目が覚めたので」
「ふうん」
「朝練お疲れ様です」
奥野がそう言うと、丹羽は「ありがとう」と言って学部棟の中へ入っていった。…しかしすぐに振り返り、去っていく丹羽をじっと見つめていた奥野と目が合うとその場に立ち止まった。そして、ぎこちない笑顔で手を振った奥野から目を逸らして少し考えたあと、奥野のもとに引き返してきた。
奥野はどこか不安そうな目をして「どうしました?」と言った。すると…
「…心配しなくても、誰にも言わないから」
丹羽は突然そう言って、奥野は一瞬目を丸くしたが、それからすぐに安心したような表情に変わった。
「…やっぱり、バレバレでした?」
「まあね」
「ですよねえ。…管も気づいてると思います?」
「どうかな。あの感じで実は気づいてたら、かなりの役者だよな」
「管って、ちょっと謎なとこありますもんね」
「まあでも、気がついてても誰かに喋ったりしないと思うよ」
丹羽の言葉に、奥野はまた更に安心したように表情をやわらげ「そうですよね」と言った。そして、丹羽はそんな奥野をまじまじと見ていたかと思うと、
「でも、なんでそんなに隠したいの」
と尋ねた。
「それは…栄斗と約束したので。男と付き合ってること誰にも言わないって」
「そう。奥野に他の男が寄ってこないか心配なんだな」
奥野の返答を聞いて丹羽がそう言うと、奥野は苦笑を浮かべて「心配性なんです」と言った。




