第1話 春
前作「チョコレート・タイムズ」の続編です。前作を未読の場合、ところどころわかりにくいところがあります。
三月某日。
二週間前に高校を卒業した奥野幸太は、朝から一時間半ほど電車に揺られ、とあるマンションへとやって来た。大通りに面した十一階建ての賃貸マンションで、奥野がここに来るのは二回目だ。奥野はエレベーターで五階に上がり、ある部屋の前まで来ると慣れない手つきでリュックから鍵を取り出した。先日、四葉のクローバーのキーホルダー付きでプレゼントされたものだ。
鍵を開けて中に入ると、奥の部屋で床に座っていたイケメンがくつろいだ体勢のまま手を振ってきた。奥野は部屋に入ると、鍵を顔の横でチャリっとさせて「来たよ」と言った。
「いらっしゃい」
この部屋の住人である植村栄斗はそう言って立ち上がると、部屋を見渡す奥野の隣に立った。
一回目に奥野が来たときはまだ入居前だった。植村と日用品を買いに行くためにここに来たのだが、そのとき既に配置されていた大きな家具・家電の位置はそのままで、部屋の隅にいくつか重ねて置いてあったダンボールの箱は無くなっていた。その箱の中に入っていたのであろう小物類の中に、置き時計と写真立て以外の装飾品はなかったようだ。
奥野は実に植村らしいシンプル過ぎる部屋の中で、唯一遊び心の感じられる写真立てに目をやった。黒い棚の、ちょうど奥野の目線の高さくらいの段に置かれている。三つのフレームが連なったタイプの写真立てだ。
「前に来たときと変わってないだろ」
植村がそう言うと、奥野はもう一度部屋全体を見回しながら「うん。ほぼ変わってないね」と言った。
すると…
「こっち来てみ」
植村はにっと笑ってそう言うと、クローゼットの方へ歩きだした。
植村がクローゼットを開けると、奥野は背後から中を覗き込んだ。春物のアウターやシャツなどがハンガーにかけられていて、その下に六つの収納ケースが並んでいる。植村はしゃがんで左下の収納ケースを開けるとふり返り、
「ここの収納は幸太が好きに使って」
と言った。
奥野は目をぱちくりさせて空の収納ケースを指差し「え?ここ?俺用?」と言った。
「着替えとか日用品とか置いといたら便利じゃん?」
「ほお…」
「で、こっち来て」
植村はそう言うと今度はキッチンへ向かった。奥野は「今度は何?」と、嬉しそうな顔で植村の後についていった。
植村は食器や調味料がしまってある棚の前で立ち止まった。棚の一画に置いてあるバスケットの中にチョコレート菓子の袋が入っていて、バスケットの横にはスティックシュガーの入った袋が置いてある。そして、植村がバスケットに触れて
「ここ、チョコ置き場」
と言うと、奥野は大きめの声で「チョコ置き場!」と復唱した。
「チョコ以外でも幸太のために買ったやつはここに置いとくから、勝手に食べていいよ。幸太が好きなの持ってきて置いといてもいいし」
植村がそう言うと、奥野は植村にぎゅっと抱きつき「ありがとう」と言った。すると植村は一瞬嬉しそうに頬をゆるめたが、ふと何かに気がついたように真顔になった。
奥野は植村の右肩にピタっと左頬をくっつけて、植村からその表情は見えなかったが…
「…笑ってる?」
「笑ってない、感動してる」
「声が笑ってんだよ」
「…フッ」
「何にツボりましたか」
「…チョコ置き場」
奥野がそう言うと、植村はちょっと拗ねたように「あ、そう。ウケて良かったわ」と言った。しかし、奥野が植村に抱きついたまま、植村の顔を見上げて
「いや、ホントに嬉しい。ありがとう」
と言うと、植村は拗ねてる感じも残しつつ愛しそうな目で奥野を見つめた。そして「どーいたしまして」と言うと、奥野はニコッと笑って
「でも、夏はチョコ溶けちゃうからね」
と言った。
「あ…そっか…じゃあ、夏は冷蔵庫に」
「ん、そうさせてもらう。隅っこに入れとくから」
「別に隅っこじゃなくても…っていうか幸太、リュックしょったままだな。ごめん」
植村がふと気がついてそう言うと、奥野は「ああ、だいじょぶ」と言いながら植村から離れた。すると植村は奥野の頭をなでながら
「向こうでゆっくりして。コーヒー入れるわ」
と言い、奥野は「ありがと」と言ってキッチンを離れた。
当然だが植村の部屋には植村が実家にいたときに使っていたものもあって、高校時代に奥野が植村の部屋で勉強を教わったときに使っていたミニテーブルもその一つだ。奥野はそのテーブルのそばにリュックをおろすと棚の方へ行き、写真立ての前に立った。
写真立てはアンティーク調で、連なった三つのフレームはそれぞれ異なったデザインだ。その全てに奥野の写った写真が収まっている。一枚は植村と二人の写真、もう一枚は友人の井崎と竹崎も含めて四人で撮った写真、そしてあとの一枚…真ん中の写真は奥野が一人で写っているものだ。
「教祖様か…」
奥野がそう呟いたとき、植村がキッチンから「それ、いいだろ」と声をかけた。
「うん。…でも、大学の友達が遊びに来たときはどうすんの?」
「どうするって?」
「男と付き合ってるってバレバレじゃん」
「別にいいよ。隠す気ないし」
植村がそう言うと、奥野は「そっか」と頬を緩めてまた写真に目をやった。
高校の同級生だった二人は、高二の終わりから付き合い始めて今で一年とちょっと経つ。そして、来月からそれぞれ別の大学での新生活がスタートするわけだが…
「でも、幸太は隠して」
浄水器から湯沸かしポットに水を移しながら植村が突然そう言うと、奥野は「え?」と言って振り向いた。植村はポットのスイッチを押してから顔を上げると、真面目な顔で奥野を見た。
「今日、丁度そのことを話そうと思ってたんだけど…幸太、大学で自分がゲイってこと誰にも言うなよ。大学だけじゃなく俺のいないところではどこでも」
「…あえて自分から言うつもりはないけど」
「聞かれても言うな」
「…じゃ、ゲイじゃないけど男と付き合ってるって言うのは」
「それもダメ。女子と付き合ってることにしといて」
食い気味にそう言ってきた植村に奥野が「なんで」と言うと、植村はちょっと呆れたような目で奥野を見たあと、ドリップコーヒーの封を開けながら
「心配だからに決まってるだろ」
と言った。
奥野はそれから謎にポットを見つめている植村の顔をしばらく無言で見ていたが、やがて「浮気なんかしないよ」と言うと、植村は微かに肩を揺らしたあと、強気な態度で
「いいか、俺は幸太のために言ってるんだぞ。幸太がゲイだって周りに知られたら、ちょっと男も試してみたいとか、興味本位で寄ってくる奴が出てくるかもしれない。そんなの幸太だって嫌だろ?」
と言った。
「でも、友達にはバレても大丈夫でしょ」
「竹崎レベルに信用できるっていえないなら大丈夫じゃない」
「…分かったよ。バレないように気をつけますー」
奥野は小さくため息をつくと、ちょっと不真面目なカンジでそう言った。すると植村はまたポットに視線を戻してから、奥野にギリギリ聞こえるくらいの声で
「分かったなら大学のイケメンにヘラヘラ愛想ふりまくなよ。速攻でバレる」
と言った。
その言葉に奥野はカチンときたような顔で植村を見たが植村は気がつかず、やがてお湯が沸くと二つのバッグにちまちまとお湯を注いだ。
「…じゃあ、栄斗は美少女と付き合ってるってことにしておいて」
お湯を注いだあと一つのカップにスティックシュガーを入れていた植村は、突然そう言われると眉を寄せて奥野を見た。
「…は?なんで」
「俺がそっちの大学に遊びに行ったときジロジロ見られたくないから」
「はあ?しょうもな」
「俺には嘘つかせるのに自分はできないわけ」
奥野がそう言うと植村は面倒くさそうな顔でしばらく黙りこみ、やがて諦めたようにため息混じりで「分かったよ」と口にした。しかし…
「おっけ。じゃ、俺が遊びに行くときはただの友達として行くから、わがもの顔で触ってこないでね」
奥野がそう言いながらテーブルの前に腰をおろすと、それを聞いた植村はやるせない表情でその後ろ姿を見ながら、カチャカチャと音を立てて奥野のカップをかき混ぜていた。
午前十一時四十五分。
井崎と竹崎は自転車を押して自動車教習所の駐輪場から出ると、赤信号の横断歩道の前で立ち止まった。…井崎は高校を卒業してからすぐ茶髪にして、ますます爽やかなアイドルのような見た目になっている。
「なあ、このあと用事ある?」
自転車に跨りながら井崎がそう言うと、竹崎は「いや、別に」と言った。
「途中にイケイケドーナツあるじゃん。新作食べたいんだけど」
「いいけど。中で食ってくの?」
「どうしよ?竹崎は昼ごはんどうすんの」
「コンビニで買って帰ろうと思ってた」
「じゃ、一緒にドーナツ食べてこうよ」
「そうするか」
「それなら俺、イケイケラーメンも食お」
井崎がそう言ったとき、ちょうど信号が青になって二人は自転車を漕ぎ出した。
二人はカウンターでドーナツとドリンクの乗ったトレーを受け取ったあと窓際のテーブル席に座った。
「いい天気だなあ…」
席に着いてすぐガラス越しに空を見上げて井崎がそう言うと、竹崎はちらりと窓の方に目をやりながら「そうだな」と言った。それからすぐに井崎の注文したラーメンが運ばれてくると、井崎は食べかけのドーナツを置いて先にラーメンを食べはじめた。
…定番のもっちりドーナツを半分ほど食べた竹崎は、ちらりと井崎を見た。顔色は悪くないが妙に大人しい。ちまちまとラーメンを啜っている。
「座学もうちょっとで終わるな」
もっちりドーナツを食べ終えてから竹崎がそう言うと、井崎は「ん?うん、早く免許取りたいな」と言った。
「取ったらすぐ行きたいとこあんの?」
「や、別に。…ドライブ行こうぜ、順番に運転して」
「そうだな。高速乗ってサービスエリアでなんか食べるとか」
「いいね!それは絶対行こう」
井崎はにっと笑ってそう言った。しかし、それからふいと視線を逸らしてドリンクを口にしたと思ったら、急に緊張したトーンで
「あのさ」
と切り出した。すると竹崎もちょっと緊張した顔で井崎を見た後、遅れて「ん?」と言った。井崎は重苦しい空気を醸し出しているわけではないものの、竹崎に向けた表情は明らかに固かった。
「実は、竹崎に相談っていうか、話したいことがあって」
「なに」
「うん。えっとですね…その…」
「……」
「竹崎の将来を、俺にくださいっ」
井崎がそう言いながら頭を下げると、竹崎はポカンとして井崎を見つめた。そして少ししてから「…というのは?」と言うと、井崎は目を泳がせながら顔を上げた。
「だから…つまり…俺の、パートナーになってください?」
「…と、いうのは?」
「…というのは、つまり、俺と」
「……」
「会社つくろ?」
井崎がそう言うと、竹崎はやっと表情を緩めてソファにもたれた。
「…最初からそう言え」
「面目ない」
「…当然、何の会社かは決まってるんだよな」
竹崎の質問に井崎が間髪を容れず「ウェブコミック」と答えると、竹崎は小さな声で「ウェブコミック…」と復唱した。すると井崎は苦笑して
「うん、言いたいことは分かるよ。今さら参入して成功するのは難しいってことくらい俺も分かってる。でも、なんていうか…なんとなく構想してた起業プランがさ、だんだん現実的に思えてきたっていうか…竹崎と俺ならできちゃうんじゃないかって」
と言った。
井崎が話す間、竹崎は真剣な表情でその話を聞いていた。そして
「いつから考えてたの」
「年末あたりから」
「その起業プランっていうのは?」
「マジで聞いてくれる?」
「そりゃ、興味はある」
竹崎がそう言うと、井崎は「ほんと!」と言って前のめりになった。しかし
「…あ、でも、企業プランとかカッコよく言っても俺、知識とか全然ないし、竹崎が思ってるより全然ショボいと思うから、それを踏まえた上で話を」
「分かってる。早く言えって」
「待って、その前にラーメン食っていい?のびちゃう」
「なんで頼んだんだよ」
「ごめんて」
井崎はそう言うとせっせとラーメンを食べはじめ、竹崎は小さく笑ってから自分も二つ目のドーナツに手を伸ばした。