ふたりの夜を抜け
───こうなったのは、数週間前。
一瞬のことだった。
何が起こったのか、理解ができなかった。
目を覚ましたときには、私がいた町は無人となっていた。
かつて活気に溢れていた穏やかなあの町は、何故かその日から不気味なほどに静かだった。
私は一人、そこに取り残されたのだった。
だが、一番の問題はあの異形種の発生だろうか。
この出来事を境に正体不明の生物、“異形種”が街に徘徊する様になった。
全身が奇妙な形をしている人型の生物。
その形は種類によって様々で、人型を保っているものもあればもはや何の生物かも分からないような形になるものもある。
そんな異形種の大きさは、それぞれ個体別に違っている。
その中でも三メートルを超える大型は、私たちにとってとても脅威になり得る存在だ。
大型は他より気性が何倍も荒く、他の生き物を見つけ次第対象を完全に見失うまで追い続ける。
そして、その対象が動かなくなるまで何度も攻撃を続ける。
私はその光景を幾度となく目にしてきた。
「…ふう」
今日も人助けで一日を終わらせた。
今日は何人くらい助けただろう?
一…二…三───十三…そう、十三人だった。
こう聞くと結構多い様に思える。
だけど、実際見えないところでは何人も犠牲になっているはず。
別に、此処に取り残された人たち全員を助けたいとは思ってない。
それはあまりにも現実的ではないから。
だけど…もしこの手が届いていれば。
“届いていたかもしれないのなら”
そう思ったとき、私は強い後悔に襲われる。
“助けられていたかもしれない“
そんな可能性を意識するたびに、私の心は痛みを増す。
「おかえり、椿。今日はちょっと遅かったね?」
後ろから声をかけられ、私は振り返った。
そこには銀色の長い髪を靡かせ、丈の長い白衣を着た女性が立っていた。
「あ、ヒヨリさん。はい、ただいま帰りました」
「もう、毎回そんなに畏まらなくていいのに…」
ヒヨリさんは今回も困ったように笑った。
「今日も人助け大変だったかい?お疲れ様、今コーヒー淹れるよ」
「ありがとうございます」
事実、ヒヨリさんの淹れるコーヒーはとても美味しい。
一日の終わりには、ぴったりの一杯だと思う。
広いソファに座り、息を整える。
目を瞑って、心を落ち着かせる。
コーヒーの香りが辺りに立ち込める。
その香りがとても心地が良い。
コーヒーの香りを堪能しながら深呼吸をする。
こうすると次第に身が溶けて、最終的にソファと一体化できるのだ。
まあ実際そんなわけは無いのだけど。
私にとってそれくらい気持ちがいいという一種の比喩的表現である。
これが私流、一日の疲れを短時間で吹き飛ばせる最適なリラックス方法なのです。
「椿、起きてる?コーヒー淹れたよ」
そんなことをしている間にコーヒーが出来上がったらしい。
「ありがとうございます、いただきます」
ちなみに、私は角砂糖を一個だけ入れる飲み方が好きなのです。
ドポンと音を立て、角砂糖が沈んでいく。
音を立てないように、ゆっくりと混ぜていく。
程よく混ぜたあと、コーヒーをひと口啜る。
その香りを深く味わう。
その苦味もじっくりと堪能する。
その中のほんのちょっとの淡い甘さも味わう。
個人的には、コーヒーの良さを一番楽しめる飲み方だと思う。
一方で、向かい側ではドボドボと液体が音を立てている。
音が気になりその方向に目を向けると、そこには角砂糖とミルクをこれでもかと大量に入れるヒヨリさんがいた。
「………」
「ん?どうしたの椿?じっとこっち見て…」
「い、いえ…なんでもないです」
まあ…飲み方は人それぞれですから。
あの飲み方もまた一興、ということで。
静まり返った部屋で、私たち二人はコーヒーを啜る。
「そういえば、今日は何体いた?」
最初に静寂を切り裂いたのはヒヨリさんだった。
「そうですね…大型が一体…中型が二体くらいだったかと…」
「大型が一体って、大丈夫だった?」
「はい、かすり傷一つありませんよ」
「よかった…」
ヒヨリさんは安心し、肩をゆったりと下ろした。
「けど…一体どこから湧き出しているんだろうか…」
ヒヨリさんは手元のコーヒーカップに目線を落とした。
その目元はどこか暗く見えた。
しばらく沈黙が続いた後。
「…まあ、犠牲者を少しでも減らせたのは良かった」
顔を上げ、無理をしてそうな笑顔でそう言った。
「ヒヨリさんのせいではないですよ。そう気を落とさないでください」
「…うん、でも…そうも言ってられないから」
そう言ってヒヨリさんは甘々のコーヒーをまた一口啜った。
「そうだ、あれ以降キミの能力はちゃんと安定してるかな?」
そう聞かれて、私は自分の体をしっかりと意識しながら確認する。
「はい。ちゃんと自分の意思の通りに発動できていますし、問題無いかと」
あの時以降、自身の能力を制御できないということはまず無くなった。
今こうして人助けができているのも、この能力が安定してくれたおかげだ。
「キミのその能力は、一度暴走してしまったら命に関わりかねない。能力を使って人助けをするのは構わないけど、無理はしすぎない様にね?」
「はい、分かっています」
これは、今より何週間か前のこと。
私がこの能力の存在に気が付いた日。
鋭利な刃が内側から突き刺してくる様な感覚を全身に感じ、私はしばらく生と死の境目を彷徨った。
そんな私を、その時助けてくれたのがヒヨリさんだった。
ヒヨリさんは、私の身体に触れただけで暴走する私の力をしっかりと安定させてくれた。
それどころか、力の安定方法まで教えてくれた。
そう、ヒヨリさんは私の命の恩人だった。
「キミも覚えているだろう?あの出来事を」
「…はい、私たちの…町が…」
「あの出来事を境に、ボクたちの身体に変化が起こった。それがその“能力”だ」
「能力…?」
「簡単に言ってしまえば…命の色だよ」
「命の色…ですか?」
「そう。その能力こそ、キミの象徴とするものなんだ。個性…とも言うかな?」
「これが…?」
「意外かな?キミの本質は、思ったより刺々しいものだったみたいだね」
「………」
「…冗談だよ?そんな顔しないで?」
ヒヨリさんはその時、私が分からないことを手取り足取り教えてくれた。
この事をきっかけに、私はヒヨリさんと行動を共にする様になった。
「…椿?大丈夫?」
ヒヨリさんの声で、思い出浸りの時間から戻された。
「あ、はいすみません、大丈夫です」
「まあ今日もたくさん人助けして疲れてるんじゃないかな?今日はボクが夕ご飯作るからさ、キミはまだゆっくり休んでいなよ」
どうやら、ヒヨリさんには心配させてしまった様だった。
でも、疲れているのは本当なので。
「ではお言葉に甘えて…」
「うんうん、何ならお昼寝しててもいいよ?ご飯出来たら起こすからさ」
「ありがとうございます」
ヒヨリさんの言った通りに休ませてもらうことにした。
先ほどから眠気がすごい勢いで襲ってくるため、軽く睡眠に入ろうと思い目を瞑った。
自分の意識をどこかに預け、体をリラックスさせてみる…が。
「…寝れない」
果たしてさっき飲んだコーヒーのカフェインのせいなのか。
私の目はいつも以上に覚めまくりだった。
でも眠いには眠いので、疲れに身を任せて目を瞑ってはみるが。
その日は結局、午前0時を過ぎるまで軽い昼寝ひとつ一切満足にできなかった。