第068話目―そふぁー―
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「お手柄だから感謝はするが……旅人か。入国に際して、問題を起こすな、という書類にサインはしたな? 今回のようなケースならば特別にどうのこうのは言わないが、悪い意味での問題だけは起こさないでくれよ」
お屋敷に案内される前に、宙にぶら下げたままだったならず者をしかるべき場所に突き出したら、僕らの身元の確認もされ……カードを見せたところ、そんなことを言われた。
この街に入ったのは昨日なので、当然サインをしたことは忘れていない。
だけれど、今回に限っては事情も事情なのであって……。
まぁ、お咎め無しというのだから、そこらへんは理解してくれているようだけど。
相手の顔に泥を塗らないようにする、というアティの耳打ちは、改めて正しい助言だなと僕は思う。
逆恨みという懸念が当たった場合、僕らはこの国での上流階級を相手に揉めることになるからだ。
そうなってくると、ならず者をとっちめた今回と違って、こちらの事情や理屈は勘案されない可能性が出てくる。
誰しも偉い人に面と向かって逆らいたくないだろうし……。
「お済みになられましたか?」
ならず者の引渡しを終えて詰め所から出ると、お嬢様がにこにこ笑っていた。
他意はないんだろうけど、でも、僕からすると悪魔の笑みに見えてくる。
感謝したいのは分かる。
けれど、感謝される側なのに気を使わないといけない僕らの身になって欲しい。
「えぇ、まぁ……」
「であれば、お屋敷に向かいましょう。……時に、お名前をお聞きしても? 恩人のお名前を知らずとあっては、このサルスタッド家が息女フィオネーン・サルスタッドの名折れとなりましょう」
「なるほど。フィオネーンさんですね。僕はハロルドです。ハロルド・スミス」
「ハロルド様……」
「別に様はいらないけどね……」
「いえ、そのような無礼は行いません。ところで、私の呼び方なのですが、ご学友や家族はみな愛称のフィオを使います。親しき人、あるいは親しくなろうとする人にだけ許している呼び名になります。よろしければハロルド様も……」
――急に、背筋がぞわっとした。
慌てて周囲を振り返ってみると、変な人影も異変も何一つとしてなかった。
町並みは普通だし、すぐ近くにいるアティもいつも通りの表情をしているし、セルマも……あれ、なんかセルマの顔が引き攣ってる。視線もアティを向いたり僕を向いたり落ち着いていない。
「どうしたの?」
「い、いえ御主様……その、あの、奥様の仰られた通りに、早めに向かわれて早めに帰られた方がよろしいかと」
なんだそんな事でキョドっていたのか。
再確認されるまでもなく僕はそのつもりだよ。
しかし……もしかして、普段の冷静さからは想像がつかないけど、柄にも無くセルマは歓待を受けることに緊張しているのかな?
意外な一面を見た気がする。
「そうだね。長居はしないようにしよう」
「それが一番でございます」
「あ、あの……?」
「はい? どうかしましたか、フィオネーンさん」
「急に振り向かれて、どうされたのかなと思いまして……」
「なんでもありません。僕の気のせいでした」
「なら、良かったですわ。……ところで、私のことはフィオネーンではなく、フィオと」
「……さすがにそれは出来かねます。僕はただの旅人で、すぐに居なくなる存在です。愛称を呼び、そこから交友を深める時間があるわけではありませんし、そもそも僕は、フィオネーンさんとそうした縁を持ちたいといった下心のようなものゆえに動いたわけでもありません。ですので、安請け合いで了承は出来ません。……僕をそういった無礼な人物にしたい、というなら別ですが」
「そのようなことは……。ハロルド様のご事情やお考えを察せず、失礼致しました。ただ、別にそのような人物に仕立て上げたいのではなくて、純粋に、お近づきになりたかっただけですので、それだけはお分かり頂ければと」
「……お気持ちだけ頂いておきます」
適度に心理的な距離を取りつつ、僕は周囲を再び見回す。
街並みは普通だし、アティはにこにこしているし、セルマも落ち着きを取り戻している。
何も問題はない。
うーん、今さっきの寒気は一体何だったんだろうか?
服の隙間から外気がたまたま入ってきたのかな。
何せ冬だしね。
きっとそんな所だろう。
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「……こちらになります」
努めて冷静だが、どこか意気消沈した乾いた表情の執事――ヴァルザに案内され、お屋敷の一室に通された。
準備が済むまでここで待機していて欲しいとの事だった。
執事が居なくなってから、ぐるりと部屋の中を眺める。
広くて大きい部屋だ。
赤のカーペットが床に敷き詰められ、大きな鏡が壁には立てかけられ、天井は高い。このお屋敷は入り口の段階で結構凄かったんだけど、それは決して見せかけではないらしい……。
部屋の中に高そうなソファがあったので、アティと一緒に座ってみる。すると、思っていたよりも柔らかくて体が沈みそうになった。
「……」
アティが無言のまま抱きついてくる。ひっくり返りそうになったのを、阻止するためだろう。ソファとは別の柔らかい感触が僕の体に当たる。
いつも味わっている慣れた柔らかさではある。
でも、慣れてはいても、やはり一番に好きな相手の感触だからこそ、同時にむずむずしてくるという……。
いやその、さすがに人の家でいかがわしい事をしようとは思わないよ?
さすがにね……。
僕が今アティの腰に手を回しているのは、それは、アティが僕に抱きついてきた理由と同じで、ひっくり返らないように、お互いに支えようと思ってのことだ。
まぁその、ついでに感触もしっかり楽しんではいるけど……。
なお、そんな僕らの様子を見て、セルマが眼を細めていた。
なんだか物憂げな表情である。
僕は視線を逸らして見なかったことにした。
ソファーよ、お主なかなかに良い仕事をしおる……。




