第九話
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「考え直すことだ、若いの。今なら何も聞かなかったことにできる。」
「我は不退転の覚悟でここにいる。それが分からぬお前ではあるまい。」
わずかに日が差す薄暗い天幕の下で両者は相対した。
「先々代より仕えて四十年。余所の誘いを蹴りアスタールの御為に剣を捧げて戦ってきた。国王陛下は儂の功に報いてくださり、農夫の倅が今では音に聞こえた辺境伯だ。」
「それが今では煙たがられ、遠ざけられている。あまつさえ奸臣の讒言に惑わされた王に封土を削られ、有らぬ疑いまで受けている。ケルヴァー、兵卒に慕われても貴族の多くはお前を疎んじている。アスタール王はこの戦いに敗れた時にはお前を断頭台に送ったことだろう。農夫が一人死んだところで誰一人悲しまみはしない。」
ぴしゃりとエーヴィンが遮った。事実に反論する言葉もなく、ケルヴァー将軍は苦々しげに表情を歪めている。
「黙れ、小童。たとえ不義理を受けようと、儂が不義理をなす理由とはならぬ。儂はアスタールを裏切らぬ。」
「お前は今、まさにこの時も不義理をなしている。」
自らを指さして言ったエーヴィンに動じる様子もなくケルヴァー将軍は先を促した。
「この国は戦いに苦しんでいる。弱く愚かで自らの責務を果たす意思もない、凡百の王にも力及ばぬ卑劣な者が支配を続ける限り、未来はない。たとえお前が力の限りこの国を支えたとしても、だ。
ケルヴァー、お前は剣を捧げるべき相手を間違えている。」
「まさか、お前だとは言うまいな。」
「貴様の忠誠など求めておらん。お前が剣を捧げるべきはただ一つ。アスタールに生きとし生けるすべての者だ。」
困惑を隠せないその顔にエーヴィンは畳みかけた。
「農夫だったお前には分かるはずだ。人は新たなる時代を求めている。戦争のたびに畑を荒らされ、家畜を食われ、肉親を殺され、故郷を焼かれ、税をむしり取る横暴な貴族のために数多の民が苦しんでいる。世は怨嗟に満ちているのだ。死せる者がこの世に未練を残すのも道理よ。
この国は替わらなければならない。そのために何をすべきか分かるはずだ。」
「連年の戦いでアスタールは疲弊している、その通りだ。じゃが……。」
「死地に活路を見出せても、自ら未来を勝ち取る術を知らぬようだな。」
「何が言いたい。」
そういえば、とエーヴィンが呟いた。
鉾先の変わるその問いにわずかに眉を寄せながらケルヴァー将軍は答える。
「独り身の孫娘がいたな。名はなんといったか……。」
「メフィナだ。」
「目に入れても痛くない、かわいい孫娘だ。戦争と流行病で親族を失ったその娘を守れるのはお前をおいて他にはいない。」
「いずれは誰ぞ、良い者と婚儀をあげる。」
没落の見えたケルヴァーの娘と婚儀か。エーヴィンは右頬を引いて嘲笑うように言った。
「道理で嫁ぎ遅れるわけだ。」
この侮辱にさしものケルヴァー将軍も青筋を立てる。
「貴様には関わりないことだ。」
「果たしてそうかな。お前には二つの選択肢がある。生きて我に従い新たな時代を自らの手で築くか、今ここに死して骸となり亡者どもと肩を並べるか。
あの村でお前は言っていたな。救えるものならば救いたいと。その言葉に偽りがないならば、他でもない今がその時だ。」
空から見た牧歌的な見た目とは打って変わり、石垣に囲まれた魔族の村々は貧しかった。
村人は自らの祖国の兵士達に恐れを含んだ眼差しを伏し目がちに向けていた。民衆は沿道に集まりアスタール兵の行進を見守っていたが、故郷を守った彼らに温かい歓迎はなかった。
エーヴィンは村々の様子ーーとりわけ農耕器具、人々の装いに振る舞い、衛生水準ーーを観察していたが、人類の最盛期を知るエーヴィンに言わせれば、さながら中世か古代にでも迷い込んだかのような場所であった。魔法の技術は一般の農民には広くは普及しておらず、魔法使いや知識階級にしか伝えられていないことは明白だった。
遙か昔からいる家畜動物やそれに似た魔獣を飼い慣らした魔族は、麦と思しき作物の生産を主としつつ畜産業を営んでいる様子だったが、汚れた衣服や頬のこけた顔は、いつ見ても退屈気でつまらなそうな顔をしており、エーヴィンの目にはアスタール軍の到来を歓迎しているようには映らなかった。村の人々にとって、兵隊は歓迎すべき存在ではなかったのだ。物言わずとも俯いているその表情は雄弁だった。
「貧しいですね。」
「戦争が続いているからだ。」
「助けてあげられないんですか。」
哀れみを覚えたのではかった。魔族が苦しもうとも、エーヴィンには関わりないことである。同胞の敵に憐憫など感じない。
その問いは、自らが演じた無邪気な子供という偶像にあわせたに過ぎなかったが、脳裏にはその時の記憶がはっきりと刻まれている。一段と老け込んだように、深くゆっくりと肺を膨らませて言った「救えるものならば救いたい」という言葉を諦めの感情が覆っていた。
儂にはどうにもならん。吐き出したように言ったが、しかし、諦めがついていない。貧農の生まれであっただろうケルヴァー将軍には思うところがあったはずだ。
「今がその時だ。」
そう告げられてもなお迷いを捨てきれず、ケルヴァー将軍は眼光鋭く眉間にしわを寄せている。やがて「お前の背に刻まれた魔方陣の写しだ」と懐から取り出した紙切れを破り捨てた。エーヴィンを従わせるための切り札をあっさりと、である。
ひらひらと紙切れが宙を流れる。
エーヴィンが呆気にとられ、また気を取られた一瞬にケルヴァー将軍は動いた。背後の剣を手に取り鞘を無造作に捨てる。一呼吸遅れてホルスターから取り出した銃を構えたエーヴィンにも怯まず剣を構えたケルヴァー将軍が襲いかかる。
迸った一筋の光が銀色の刃に反射し煌めいた。目の眩んだ刹那、決着を見た。
「……見事だ。」
重く鈍い響きが天幕を満たした。
腹に銃口を押し付けられたケルヴァー将軍は敗北を悟ったのか剣を手放した。絨毯に横たわる剣に一筋の光が差している。刃が退けた光線が天幕の天井を貫いていた。
「お前の忠誠を我は求めぬ。…………だが、役に立ってもらうぞ。」
その時、大きく乱暴な力が天幕を吹き飛ばし、地面が揺るがした。すわ何事かと目を見張るケルヴァー将軍の目にその姿が影を落とした。
【大事ないか。】
「当然だ。」
天幕へと集まったのは竜だけではなかった。ケルヴァー将軍を護衛する騎士達が兜をかぶる間もなく駆けつけていた。殺気立った面持ちで無事を尋ねた騎士の言葉にもケルヴァー将軍は放心状態でいた。
「竜が……。」
「いかがなされましたか。」
「ああ…………竜が戦勝の宴に呼ばれなかったことでご立腹らしい。ああ、まったく困ったのう……。」
ふ、と誰かが声を発した。意味はない。
失笑が漏れたのだ。張り詰めた緊張がぷつりと切れ、いつしか輪を作って取り囲んでいた騎士達は大口を開けて笑い始めていた。ただ竜だけが理解できず戸惑いの混じった威嚇を続けている。そして、それが一層の可笑しさを生んでいるのだった。
【笑っておるのか。おのれ、何が可笑しいのだ。】
「大丈夫。」
【何が「大丈夫」だ。……気に食わん。】
天幕を立て直すように命じたケルヴァー将軍は苦笑いを浮かべながら頭を抱えていた。
「話の続きは中でしましょう。」
「……そうしよう。」
上機嫌の騎士達を下がらせた天幕の中でエーヴィンは再びケルヴァー将軍に対峙した。入口には顔を突っ込んで様子を窺う竜の姿もある。
「それで、何をすればいいのかな。」
「アスタール王を殺す。」
「方法は?」
「凱旋式だ。」
多大な功績を挙げたケルヴァー将軍を迎える王都では盛大な凱旋式が行われる。エーヴィンには、アスタール王国で凱旋式が行われているか知ることが出来なかったが、ケルヴァー将軍が口を挟まないことから古い時代の人間と変わらないことを確信した。
段取りはこうである。
アスタール王の虚栄心を掻き立てる書簡を送り、自ら出迎えさせる。竜と兵士達が街を練り歩き玉座へと向かい王と対峙する。アスタール王本人を確認次第これをエーヴィンと竜が殺す。
「王が堕落しようとも護衛は手練れだ。儂の時のようにうまくいくとは限らぬぞ。万一王が警戒して出てこなければ失敗するやもしれん。」
「そのための竜だ。
お前の腕の見せ所になる。すでに竜のことは報告したのであろう。ならば、王の虚栄心と好奇心をくすぐればよいだけのことだ。王に与する奸臣どもには竜の力で脅しをかければよかろう。お前は今や凱旋将軍だ。最後になるからとでも言って凱旋式をやらせるように押し通せばよい。」
「そのあとは?」
「お前の手勢が王都を制圧する。我が名を新たなる王として広げ、王命を下す。」
「王命というと?」
「我は貴族を廃する。」
ケルヴァー将軍が息を飲んだ。
「そんなことをすれば反乱が起こるぞ。お前は戦争を止めるのではないのか。」
「ケルヴァー、なぜ農夫というのは貧しいと思う。我が思うにそれは戦争によるところもあるが、第一の問題は貴族が農民から搾取を続けているところにある。貴族を廃し中央、それ即ち我が任じたものに統治させ中間搾取を廃さねばならないのだ。
それに加えて世襲制を取り払わなければ、これに止めを刺すことはできない。お前を取り立てた王というのは実に優れている。だが、その子は孫は、それに倣うとは限らぬ。現実にお前が仕えていた王は暗君だ。農夫から兵士までが噂していることだ、だれも疑いはしない。」
「反乱の危険を冒してでもすべきなのかな。後回しにすればよかろう。」
「後でネズミ捕りをすることになるぞ。」
「ネズミ、か。内側から食い荒らされては堪らんの。」
反乱分子を抱えて建国するわけにはいかない、ということである。
「貴族を廃するとなれば、儂は農夫にでも戻ることになるのか。」
「いや、お前は我が命により将軍に任じる。忙しくなるぞ。人事をお前に一任して我が代理として留守役を預けることになる。」
「随分な大盤振る舞いじゃが、儂が裏切ることになればどうする。」
「裏切るのか、お前が?」
エーヴィンは笑った。
「裏切れば殺すまでのことだ。だが、お前をおいて他に適任なものがいるものか。我はお前が信頼に値する男であると確信している。我が反乱を鎮める間、お前には政務を一任することになる。兵站を途切れさせるなよ。」
「反乱を鎮められるのだろうな。泣き言をいうために王都へとんぼ返りされるなど御免被るぞ。」
「迅速に鎮圧にかかる。二カ月と時間はかけん。」
「アスタールは狭くないぞ。」
「敵が合流することにでもなれば厄介だ。ましてや、北方や東方の介入を受ければ勝つことは不可能だ。もとより時間との戦いになる。」
時を忘れて両者は語り合った。ケルヴァー将軍にエーヴィンを子供と侮る様子はなく一つ一つの言葉に耳を傾け、時に提案し、今後を図り、それはケルヴァー将軍に指示を受けようと訪れた伝令が現れるまで続いた。
ふとエーヴィンが気付いた時には竜の姿は入口にはなかった。話の半ばまで聞いていたのが、退屈して飛び去ったに違いなかった。伝令が去るのを見届けたケルヴァー将軍が振り返った。
「いやはや、出会ったときは子供だと思っていたが、魔法使いのように頭が回るようだな。それでいて騎士のように大胆だ。どこぞの隠者にでも教えを受けておるのか。
いきなり我に従えなどと言われた時には驚いたぞ。」
「人は見た目には寄らぬものだ。無邪気な子供を演じると必要な情報が容易く手に入る。」
「やれやれ、後生畏るべし。思えば出会ったあの時から騙されていたわけだ。」
「お前は背中に魔方陣を描いたではないか。」
「あれはただのはったりだ。」
苦笑いをするほかになかった。互いに騙しあいをしていたのだ。
「だが、背中に描いて自由を縛る魔方陣というのは現実にあるらしい。もしも、本当にあったならばどうするつもりじゃった?」
「そんなものが我に通じると思うか。」
「それはどういう意味だ?」
エーヴィンは不敵に笑ってそれ以上は言わなかった。
「お前はまったくもって謎ばかりじゃな。どこぞの高貴な魔法使いの末裔だといっても信じられるぞ。」
「謎めいている方が魅力的だろう。演出は重要だ。凡人ならばいざ知らず、我は王となるのだ。」
「陛下と呼んだ方がいいかの?」
「今はまだ王ではない。だが、事が成った暁には人は我をこう呼ぶだろう、魔王エーヴィンと。」