第八話
戦いは勝利のうちに幕を下ろした。
開戦時の激突から後退を続けていたアスタール兵を追うバルシア兵らは、戦場に姿を現さない竜の存在をいつしか忘れ、指揮官の檄に従い獲物を振るっていた。先行した第一陣を破られた不安と竜の噂で不穏な雲行きを感じていたバルシア兵は、それぞれの想像に劣る手応えの敵に切り結び、圧倒した。
そこへ現れた一筋の陰。
青炎が平原を焼き、部隊を両断するかのごとく赤く揺らめく壁が行く手を阻んだ。それを合図にアスタール軍は一斉に反攻に転じた。中央を率いるは、ケルヴァー将軍の信頼厚いナタル卿旗下の手勢である。
背後に燃え上がる熱を感じてバルシアの兵士たちは、戦いの流れが変わったことを感じた。それは、竜が現れたと叫ぶ、悲鳴にも似た仲間の言葉で確信へと変わる。背後で魔法使いが火を消そうと躍起になっているとは知る由もない兵士たちは隊を乱して逃げ始め、そして前線が崩れた。
「進め、アスタールの若者よ。祖国を侵す敵を打ち払うのだ。儂に続け。」
騎乗するや、ケルヴァー将軍は剣を引き抜いて味方を鼓舞し、本陣を動かした。突出した敵の一隊は瞬く間に殲滅され、浮き足立つ敵に奮い立つ兵が襲いかかり大勢は決した。竜をようやくのことで追い払った魔法使いとそれを護衛する一団にアスタール兵が殺到し、次々と力尽きた者達が地へ倒れ伏した。
事ここに至り、武器を捨てて降伏の意思を示した者の他は、そのすべてが殺され、かくしてクァンテンにおける戦いは太陽が西に傾く頃に終わった。
「勝ったな。」
【しかし、逃げられたではないか。】
「優先すべきは敵を追い払うことだ。魔族の戦いも人間の戦いも、殺し尽くせばよいというものではないのだ。これだけの損害を出せば、敵はもう戦い続けることが出来ない。目的は果たせた。」
【…………。】
「もう過ぎたことだ。倒せなかったことは悔やまれるが仕方あるまい。」
敵を叩き十分な混乱を与えたエーヴィンと竜は、上空を旋回しながら戦況を見下ろしていた。そして戦いの趨勢が決まった頃、竜の赤い瞳は逃走を図った一団の姿を捉えていた。その様子を伝え聞いたエーヴィンは追撃することを決め、竜はそれに従った。
足早に戦場を後にする一団は身なりもよく統制もとれていた。敵の指揮官に違いないと目星をつけ襲いかかった二人は予期せぬ抵抗にあった。慌てふためいて逃げ出すものと思われたその騎士らは、そのうちの二騎が速度を落として頭上に竜をやり過ごすやいなや、本隊が示し合わせたかのように反転し、隊列に交じっていた魔法使いの放った力が竜を地面に叩きつけた。
【二度も同じ手が通じるものか。】
その連携は見事に意図した働きを示したが、先立つ戦いで同じ魔法を受けたことがあった竜は、慣性で大地を抉りながら地上にその姿勢を保った。しかし、さしもの竜も騎兵に炎を浴びせる最中のことで不完全燃焼の煙を吐いてせき込んでいる。
衝撃を受けて前のめりになった体を起こしたエーヴィンは何事かと尋ねようとした矢先、背後の息遣いに気が付いた。銃に手をかけ左後ろを振り向いたその視界に、剣を抜き放ちざまに斬りつけようとしている影を認めたのだ。
鞍にまたがっていたエーヴィンは歯を食いしばって呻きながらも仰向けに倒れる。倒れながら銃をホルスターから取り出し、眼前を横切った刃の主めがけて引き金を引いた。
「この……。」
竜の尾から、その背中を駆け上がってきたのであろう騎士は、エーヴィンの放った光線を身をよじって交わしたが、続く一発に胴体を撃たれ、背後へと跳躍した。
全身を鎧に守られた騎士は体勢を崩して左翼の斜面に剣を突き立てた。片膝を付きながら見上げた兜と、フード越しにエーヴィンの顔とが睨み合う。
【おのれ、下等な分際で我に刃を立てるか。】
凄まじい咆哮とともに竜が騎士を体から振り落とそうと翼を上下に揺する。行方の定まらない銃口を騎士へと向けてエーヴィンが乱射し、騎士は剣を引き抜くこともかなわず翼を滑り落ちた。
一難去って辺りを見回すと、何人もの騎士と魔法使いが竜とエーヴィンを取り巻いていた。馬上では不利と見たのか、馬を捨てて立ち向かう覚悟を決めたようであった。このままでは竜が本領を発揮できずに押し返される。
迷いはなかった。
【よせ、危険だ。】
鞍から立ち上がると左翼へと飛び降りて剣を引き抜いた。
竜が叫んだが、翼を滑り落ちる体は止まらない。
右手に剣を、左手に銃を携えエーヴィンは走り出していた。自らを狙った騎士はすでに味方から別の剣を受け取っている。地上の騎士を光線でけん制し馬上の騎士へと向かうや、槍の穂先を躱して馬の足を剣で突き刺した。呪詛の言葉と共に倒れる様子を横目に地上の騎士へとエーヴィンが斬りかかる。
一方の竜はエーヴィンが降り立った今、その猛威を制限するものはない。槍を手にしたある騎士は前足に弾かれ地面を転がり、また別の魔法使いは強力な顎がその肉体を噛み砕き、両断した。ひるんだ騎士と魔法使いらが後ずさると、長く白い竜の首がほのかに赤みを帯びた。
「炎が来ます、私の許へ。」
呼びかけた魔法使いの許へ集まった者達には炎を防ぐ盾を持つ者はいない。しかし、青い炎が収まるとそこには一つとして燃え尽きた死体はなかった。
助かりました。
そう告げようとした言葉は途中でかき消された。
大地を隆起させて盾とし、自らの立つ地面を下降させて炎をやり過ごす。魔法使いの意図を看破した竜は素早く距離を詰めて太く大きな足で踏みつけたのだ。
「王様が逃げ延びた。ここは俺が食い止める。隊長はお逃げ下せい、ここは俺が。」
「しかし……。」
「まだ王様は安全じゃねえ。ごろつきどもに囲まれてる。手前が行って役に立て。」
エーヴィンは追い詰められていた。意表を突かれて兜を落とした騎士の一人を撃ち殺したのも束の間、立ち上がったもう一人と、合わせて二人を相手取らねばならなかった。その内の一人、果敢にも竜の背に飛び乗った騎士は想像以上の手練れだった。付け焼き刃の剣筋をあっさり見破られ、浄化の力を受けてもわずかな呻きを漏らせど、勢いは留まらない。
手にした剣を彼方の方角へと弾き飛ばされたエーヴィンは後ずさって距離をとった。そこへ一騎の兵が駆け寄り何事かを伝えていた。この時にして、図らずも敵国の王を守る精鋭に襲い掛かっていたことをエーヴィンはようやく知った。
馬上の男が隊長と呼ばれた騎士に馬を譲るのを黙って睨みつける他に出来ることはなかった。
「すまない。」
「気にすんな。帰ったら酒を用意しておけよ。大樽でな。」
「…………名も知れぬ者よ。次は必ず殺す。それまでの命だ。覚えておくがいい。」
捨て台詞を残し、騎士達の隊長は馬に鞭打った。あとに残された二人がエーヴィンと共にその姿を見送る。やがて向き直ると、獰猛な喚き声に言葉を載せて伝令と思しき男は言った。
「へっへっへ、あいつにゃ悪いが手前は今日、これ限り。」
そして叫んだ。
「ここで死ね。」
隣にいた騎士ともども左右に分かれてエーヴィンに挑む。対するエーヴィンは右利きであった騎士の向かって右手に踏み込んだ。懐に飛び込み、右手に持ち替えていた銃を兜の守りが及ばない首筋にあてた。
頭を吹き飛ばされて崩れ落ちた味方の末路にも怯まず、その男は剣を振り上げた。だが、そこまでであった。
左手をかざし、男の魔素を奪い取りながらエーヴィンは歩み寄った。力を奪われた男は剣を地面に突き立て息を荒げながらもしかし、男の顔だけは真っすぐにエーヴィンを見上げていた。
【なかなかどうして、やるものではないか。】
「それはあの隊長とやらに言え。」
【だが、我が背を離れてくれるな。お主のようなひ弱なものは簡単に死ぬものだ。】
「死んでたまるか。まだ、始まってもいない。」
ふと背後に振り返ったエーヴィンに竜も続いて首を向けた。
遠い彼方に戦場から敗走する兵達が見えている。押し寄せるまで、時間は残されていない。
「行くぞ。」
【戦うのか。】
「いや、やつらは将軍に任せればいい。相手にすることはない。空へと逃げるだけで十分だ。」
竜がエーヴィンを背に空へと昇った。
大気を掴むその翼から黒い血が流れている。それはエーヴィンの手のひらにもこびり付いていた。粘り気の強い光沢をもつ様子を、宙にかざしてしげしげと見つめる。風に飛ばされ、その血が頬についた。
苦しむ様子はない。だが、服の裾で拭おうとして、途中でやめた。
「だい……大丈夫?」
【大事ない。この程度、動じることはない。休めば治る。】
強がる言葉で問うことはできなかった。一瞬だけ少年に戻ったエーヴィンに竜はそれ以上は言わなかった。それ以上は続ける気にならず、エーヴィンもまた口を閉ざし、目を閉ざした。
あの騎士は強かった。
その言葉は直感だったのかもしれない。竜が告げたように正しく危険だった。否、打つ手もなく徐々に手を読まれて攻撃をいなされ始めていた。あのままでは倒されていたのは自身であったに違いない。浄化の力は、あの騎士や竜のように魔素を多く持つ者には効き目が薄い。
エーヴィンは自らの無力さを思い出していた。万能ではない。万能であったなら浄化の力で人間を、大切な人間を守り抜けたのだ。浄化の力には限界がある。
そうであればこそ、魔法の習得は必要不可欠だった。
多少の雑兵であれば退ける自信がある。だが、あの手の強敵を相手にエーヴィンは無力で竜に頼らざるを得ない。今は弱くとも、いずれ魔法を己がものとして戦わねばならない。
「今日はゆっくり休もう。」
【それがよかろう。】
地上ではアスタールの騎兵が追撃戦を繰り広げていた。騎兵の前では武器を捨てようと、降伏すると叫ぼうがすべてが無駄な努力に終わる。わざわざ馬の足を止める兵はいない。
次々と兵士があげる悲鳴を聞きながらエーヴィンは思いを馳せた。玉座に腰掛け、臣下のすべてに膝を付かせ、あまねく民草をひれ伏せさせる。抗うもよし。殺してくれよう。恨むもよし。同胞を殺された恨みに比べれば霞のようなものだ。
恐怖と絶望で侵し、首を垂れたその様を嘲笑う。
そのために生きている。
「その前に、明日のことだ。」
【ケルヴァーを襲う日か。】
「説き伏せる日だ。」
エーヴィンが訂正した。
「今日の戦いも大戦果だ。明日から兵は死体を燃やす仕事にかかるだろう。あれだけの数が悪霊に憑りつかれようものなら辺り一帯の村々は全滅する。間違いない。その頃、ケルヴァーや他の貴族はそれぞれの天幕で休息を取っている。この時をおいてほかにない。」
【異論はない。だが、そう上手くゆくものか。】
「問題ない。あの老人はアスタール王国に長く仕えているが、肝心のアスタール王には心服していない。お前がいれば大丈夫だ。もう日が暮れる。明日は長い。陣地に戻って休もう。」