第六話
エーヴィンは竜の背に揺られて呆然と空を仰いだ。
兵士の隊列の他は何もないただの平原が続いている。ケルヴァー将軍が用意させた間に合わせの鞍に跨り、アスタール王国の援軍との合流地点へと向かっているところであった。
意外なことに竜は鞍を付けることにさしたる抵抗を見せなかった。魔族に自らの体に触れさせることを拒み、エーヴィンに鞍を取り付けさせただけである。不思議に思って尋ねたエーヴィンに、竜は必要なのであろうから仕方あるまい、と答えた。
「暇だなあ。」
【魔族の歩みなど、所詮はこの程度の速さだ。】
「君ならひとっ飛びなのに。」
【嘆いたところで仕方あるまいて。】
次なる目標を告げられたエーヴィンに拒否権はなかった。
ケルヴァー将軍曰く、酔いつぶれた間に背中に魔法陣を描き加えたことで従わない場合は死に至らしめることが出来る、と。地下の回廊で見せたあの鋭い眼光がエーヴィンを射貫いていた。
酷い。あんまりだ。ありきたりな非難の言葉を出しながら一人天幕の下でエーヴィンは心の中で舌を出していた。願ってもないことだったのだ。自らの志願ではなく強制されてここにいることは、不要な不信感を抱かれないためにも最善の状況だった。
エーヴィンの持つ浄化の力はあらゆる魔法を無効化できる。先の戦いで使ったことは知られていなかったのだ。銃と並んで自らの強力な切り札であるこの力を隠すことにして、次の戦いでは竜に頼ることになる。
「ねえ、空を飛んでよ。」
【よいのか。】
「ちょっと散歩に行って来るだけだよ。ついでに敵がいないか偵察できるんだし、問題ないでしょ。」
前足をついて地面を歩く竜の前には、ケルヴァー将軍と側近と思しき護衛の騎士が数騎同伴していた。大声でケルヴァー将軍に呼び掛けたエーヴィンは散歩に行くと告げ、返事を待たずして鞍を挟んでいる両足で竜の首を蹴った。何事かを叫んだケルヴァー将軍の言葉は脳裏に届かなかった。
道を外れて駆け出した竜が翼を羽ばたかせた。草花が風に倒され道を開け、走り抜けた竜は青空へと昇る。竜には手綱がない。振り落とされまいとエーヴィンは力の限りに鞍に掴まった。
「今日は天気がいいね。」
【雨が降ろうと雪が降ろうと、我を遮るものなどない。例え太陽がなくとも空を飛べるぞ。】
「やっぱり、竜って凄いね。」
【何を今更。我が偉大さを今一度その身に刻むがいい。】
陽光は燦燦と輝いて風は心地よく吹いていた。眼下にはアスタールの軍列が皆一様に竜を指さしている。生き物に乗って空を飛んだ人間は歴史上一人もいないだろう。これから待ち受ける運命を忘れさせてくれる清々しく爽快な飛行だった。
大きく旋回するよう竜に指示を出しながらエーヴィンは変わり果てた大地を見ていた。昔、人間がいた頃には街があったはずだった。しかし、風雨が破壊したのか魔族が破壊したのか、建物は見る影もなく、ただ舗装された道路のみが緑の草原に挟まれて、途切れ途切れに残っているだけだった。
「やっぱり、プラスチック化されてないものはほとんど残ってないなあ。」
【何だ、そのプラなんとやらは。】
「君がいつからあの山にいたかは知らないけど、不思議に思ったことはない? 何百年も経ってるのにちっとも壊れなかったんだよ。普通の家と同じなら壊れて地面の下に埋まってるよね。」
【はて? もとより、そういうものではないのか。我が到りし時には既にあって、中は魔獣の巣窟と化していた。一匹残らず燃やし尽くしてくれたがな。】
「あの施設、君の炎でもなんとか持ちこたえてくれたんだね……。あそこは昔、道具や家や道路が古くなって壊れないように恒久化措置、いわゆるプラスチック化措置が人間によって施されたんだ。そのおかげで僕達は生き埋めにされなかったんだ。」
【知らんな。】
「僕にも詳しい理屈は分からないよ。今アスタールの軍隊が歩いている道路だって、人間が造ったものなんだ。プラスチック化のおかげで完全には崩れてないけど、あちこちひび割れたり草が生えたりしちゃってるんだ。本当なら自動車が滑らかに走ることが出来たんだ。」
【ますます分からん。】
「魔族は古代の遺跡なんて言ってたけど、君が住んでいた地下施設は元々人間が住んでいたんだ。」
竜は頭の横にある赤い眼で顧みた。四つある内の三つは周囲を見渡している。目が四つあるのは空を飛ぶための進化なのかもしれないとエーヴィンは常々思っていた。魔族の十人十色の容姿も然ることながら、本物の人間としての常識を持つ身としては、何もかもが不可思議に見えていた。
「我がねぐら」と竜が呼ぶ場所となっている地下施設について、エーヴィンは勝手に居ついたことを何も咎めるつもりはなかった。むしろ巣くっていた魔獣を追い払ってくれていなければ、竜と出会う前に食い殺されていたかもしれないのだ。
人間の言うところの魔物、魔族が言うところの魔獣は魔法が使える獣のことを指す。魔族でない以上は竜も魔獣に分類される。
折角の魔族の耳が届かない場所である。エーヴィンは矢継ぎ早に質問を飛ばした。
「じゃあ、今度は僕が教えてもらう番だよ。」
【我の知るところならば答えよう。】
「ええっと、じゃあ先ずは魔法のことを教えて。」
【そうだな。……魔法は魔素を用いて起こり得ぬはずの現象を具現化する力だ。そして、魔法を使えるのは魔族と魔獣に限られ、非獣は使えぬ。
魔族と魔獣には魔素があり、それを用いて魔法を行使している。腕の立つ者ならば、大気と大地に存在する魔素を用いることで無限に魔法を行使し続けることが出来る。】
語られる言葉にエーヴィンは相槌を打った。将来的に対峙する可能性のある相手ではある。あらゆる情報を知っておかねばならない。
【半人前の魔法使いは呪文を唱え、賢人の域に達した者は身じろぎ一つなく魔法を放つ。】
「杖を持ったり、魔導書を持っていたりするの?」
【そのような者もいたような、いなかったような……まあ、どちらでもよかろう。魔族は強力な魔法を使うが、そのすべてが魔法を使えるわけではない。強さもまた、才覚に依るところもあるらしい。】
「使えない魔族もいるんだね。」
【そうだ。それに対し、魔獣と呼ばれる者は生まれついて魔法を使う術に長けている者が大半だ。だが、扱える魔法には限りがあり、力にも上下がある。魔族ほど厄介ではあるまい。まして、お主には浄化とやらがあるのだ、問題なかろう。】
「君は魔獣じゃないの?」
【違う。下等な者共と同列に並べてくれるな、エーヴィン。】
ぴしゃりと竜は否定した。
竜は魔獣を蔑視しているようだった。ただの獲物か目障りな羽虫程度にしか考えていないのだろうと思いながらエーヴィンは謝る。
「ごめん、ごめん。……ところで、君は何か魔法を使えるの?」
【飛翔と火炎の魔法を使える。お主もすでに目に̪していよう。】
空を飛ぶこと自体が魔法だと竜は告げた。
なるほど、竜の巨体が空中に持ち上がるのは奇跡のようだなとエーヴィンは思った。考えてみれば、口から完全燃焼の青い炎がであること自体も魔法のようである。ある種の器官が具わっているのかもしれないが、それだけでは説明しきれそうには思えない。
浄化の力で魔法を無効化できるとはいえ、一人の力量には限りがある。是非とも学ばねばならない。エーヴィンは確信した。
「魔法ってどうやって使うの?」
【さて。お主は竜ではない故、教えようがない。】
「そんなあ、教えてよ。お願い。」
【煩いぞ。黙っておれ。……我が魔法は強力な力を要する故、お主には出来ぬやも知れぬ。それでも、学ばんとするのか。】
勿論だよ、とエーヴィン。
ある魔法使いに聞いた、という重々しい前置きと共に竜の知る魔法の知識が語られる。魔法とは、魔素を操る術。魔素は非獣と呼ばれる類を除いてすべてに存在し、非獣は魔法が通用しない不思議な性質を秘めているとのことであった。
竜は非獣について多くを知らなかったが、エーヴィンはよく知っていた。かつては動物と呼ばれていた類の生き物だった。鹿、猪、熊……竜や魔族よりもあるいは詳しいのである。それらは皆エーヴィンと同じく浄化の力を持っているのだ。
【魔法を学ばんとする者は、師範の操る魔法を真似ることから始めると聞く。適当な師を得ることから始めるのがよかろう。】
「そうだね。」
しかし、エーヴィンは魔族の魔法使いから魔法を学ぶわけにはいかなかった。ただ竜と言葉を交わせるだけの非力な少年を演じなければ、注目する魔族の視線の中に不信感や疑念が混じることになりかねない。だが、エーヴィンには悩むことなどなかった。
「じゃあ、君の魔法を真似するよ。」
【竜の魔法を、お主が? そもそも、お主は魔法は使えるのか。才能がなければ何も出来ぬぞ。】
「確かに僕は浄化者だから、君が言うところの非獣だから、本当は魔法が使えないはずなんだ。でも、今ここで君と話せていることも魔法だと思うんだ。
人間はもともと音で言葉を伝えて会話する生き物なのに、今の僕に君の言葉が分かってるってことは、僕が無意識に魔法を使っているのかもしれないんだ。」
【ほう。音で言葉を発するとは知らなんだ。よく分からぬが、お主の言う通りだろう。言葉には力があり、魔法を生み出すこともある。言葉とは魔法也。在りし日にそう聞いた。】
目の回りそうな出来事の連続にあっても、竜と魔族の言葉を理解できることはエーヴィンにとって見過ごせない事実だった。そして様々な想像を膨らませて得た自らの仮説に確信を持っていた。おおよそは違いない事実となったことから一つの結論が導き出される。
人間でありながら、エーヴィンは魔法が使える。それも浄化の力を残したまま。
あらゆる魔法を無効化できるだけでも強力だが、それに加えて魔法を使えるようになれば、強力な魔法使いをも殺すことが出来る。
エーヴィンは、忌み嫌う魔族の力を使うことに躊躇いはなかった。それが自らの復讐の一助となるのならば。
【竜と言葉を交わせるのは強力な魔法使い、とりわけ賢者と呼ばれる者でなければ出来ぬ。……お主は魔法が使えるのやもしれん。】
早速、竜の背中でエーヴィンは顔をしかめたり、手を動かしたり、適当に思いついた呪文を唱え始めた。しかし、喜び勇んで始めたのも束の間、何の手ごたえも得られなかったエーヴィンはやがて手を止めた。
【やはり、無理であったか。】
エーヴィンは考えていた。
魔法とは魔素を操るもの。では、魔素とは一体何か。竜曰く、普くこの世の大気に溶け込む物質。魔族と魔獣にあって動物と人間にはない物。エーヴィンには心当たりがあった。
……それは、世界が終末を迎えた時、大気へとまき散らされた放射線。
21世紀後半になって発見された第三次元元素と呼ばれるそれらにより、放射性物質は長く大気中に留まることになり、結果多くの生物を殺し尽くすこととなった。浄化とはそれらを自らの体内に取り込んで大気や大地から取り払う力である。
魔素は本来命を奪うもの、それらと何かの間違いで共存している魔族や魔獣が如何にして魔法を行使しているのか分からない。だが、エーヴィンは魔法を習得するための糸口を見つけることが出来た。
【その力……浄化とやらか。】
竜の翼の羽ばたきが鈍る。竜の全身から魔素が噴き出しエーヴィンの体へと黒い煙状の渦を形作っていた。
【止めよ。魔法が消されて落ちてしまうぞ。】
「あ、ごめん。それにしても、君凄いよね。」
【当然だ。】
何が凄いとまだ言ってもいないエーヴィンだったが、竜は即答した。
「浄化の力を受けてもちっとも死なないし、苦しんでもない。普通の魔獣や魔族だったら、ただじゃ済まないはずなんだけど、君はすごい量の魔素を体の中に蓄えてるのかもね。」
【お主如きが我を殺せるとでも思ったか。】
竜の言葉には怒りが混じっていたが、エーヴィンは魔法の感覚を掴んだような気がしてそれどころではなかった。魔素を浄化しながら手探りで感覚を研ぎ澄ました刹那、何か名状し難い手応えを感じ取っていた。竜のように浄化の通じぬ相手が現れた時の為にこの感覚を覚えておこう、とエーヴィンは決意していたのだ。
あまり竜を怒らせないように今日のところはこれくらいにしよう。そう思ったエーヴィンは、不機嫌になった竜をなんとか宥める言葉を考えることにした。
「まあまあ、君の偉大さが違う形でも分かったんだからいいじゃん。」