第三話
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「敵の軍隊はたくさんいると思うけど戦える?」
【愚問だな。】
「こうして身近に見ても、竜と語らう者がいるとは信じがたいものじゃな。」
ケルヴァー将軍がエーヴィンに語り掛けていた。竜が不穏な動きを取れば、すぐにエーヴィンを手にした短槍で一突きする心構えでいることだろう。しかし、そのような気配はおくびにも出さず、むしろ気のいい好々爺然とした雰囲気を伴っていた。
いかにすれば竜と言葉を交わせるか、と尋ねたケルヴァー将軍にエーヴィンが分からないと返事を返せば、勿体ぶることはないだろうと口惜しそうにしている。
朗らかに言葉を交わしているが、その狙いは根掘り葉掘りと事情を探ることにあるのはすぐに理解できたエーヴィンである。ならば、と逆にエーヴィンは質問を始めた。
「ところで、僕は世間知らずでよく分からないんですが、将軍ってどれくらい偉いんですか。」
「儂か。将軍は国王陛下より直々に任じられるものだ。軍勢の最高指揮官であり、最も栄誉ある位とされる。」
「なるほど。だったら味方と敵の数は分かりますよね。」
「なぜそのようなことを?」
竜の攻撃は大雑把で味方を巻き込みやすい。戦い方を見ずともその巨体を見ればエーヴィンならずとも同じ結論に至る。
そうなると、敵陣深くに突撃し指揮系統を攪乱するのが最も理に適う。戦況を把握するついでにアスタール王国の戦力を調べるため、という言葉を飲み込みエーヴィンは本意とは異なる答えを伝えた。
あざとく、可愛らしく。警戒心を抱かせぬように。
エーヴィンの記憶は戻りつつある。壊れた機械のことも、今一つ使い方の分かっていなかった辺りに散らばる銃も少しずつ分かるように、思い出せるようになっていたのだ。魔族を目にしていると胸に湧き上がる理解できない感情があったが、場違いなそれを今一つ理解できぬまま、飲み込めぬまま、しかし直感的になすべき行動をとり始めていた。
「竜は人間のことはあまり気にしてませんから、味方を巻き込んじゃうかもしれないんです。……敵と味方の区別って出来る?」
【人間など、どれも同じだろう。見分けられるものか。】
「僕にも分からないや。」
「我が王国は交差する二本の剣にイテインの赤い花が目印だ。数は約四千。敵バルシア王国は横向きの槍に半円の太陽を紋章としている。数はおよそ七千といったところか。貴族には各々の軍旗がある。一先ずは空を飛びながら炎で敵の軍旗のある辺りを焼き払ってくれ。それで十分じゃろう。」
イテインという名の花をエーヴィンは知らなかったが、何はともあれ敵味方の区別はつけられる。敵が味方の倍を超えることもある。竜の巻き添えになる味方は少ないだろう。
「敵と味方の配置はどうなっているんですか。」
「子供にしては、随分と鋭い問いかけじゃな。」
「出口にいるのが味方だとして、敵はどこにいるんですか。竜は人間のことなんか、ちっとも気にしてませんよ。」
「外へ出て右手に谷が見えるはずだ。手前が敵、谷の奥が味方。谷に誘い込んだ敵を少数で足止めしている間に本隊がこの遺跡を通り抜け前後から挟撃するという手筈になっておる。
ここにいる以上は戦場の様子は分からんが、ナタル卿は父君譲りの戦上手、恐らくは持ちこたえているはずだ。ここを先に抜けた部隊はすでに敵右翼へ攻撃を始めているだろう。そうなると、敵は恐らく中央の本隊と左翼から兵を割いて逆包囲を始める頃合いだろう。」
へえ、とエーヴィンは頷いた。
さも理解していないよう、ぽかんとした表情を浮かべながらも明晰になりつつある記憶を頼りにエーヴィンは脳裏に地図を描いた。
大混戦になるだろう。
竜が戦う姿を見たことのないエーヴィンであるが、その巨体が無遠慮に暴れまわれば、かえって味方の統制を乱しかねない。大火力の「兵器」による味方への誤射は大きな脅威であるのだ。それが、敵味方の区別をつける気がないとなれば猶更である。
「僕達がいなくても勝てそうですね。」
「そうでもない。数そのものは敵が勝っておる。ナタル卿が谷を突破できなければ、数に劣る我らが逆に包囲を受けて全滅する。」
「ええと、つまり、竜が頑張らないといけないってこと?」
倍する敵に対して迂回しての別働本隊による側面攻撃。倍以上の敵に対してある程度は有効であると言えたが、そこには一つだけ問題があった。
エーヴィンがケルヴァー将軍から聞いた内容を伝えている竜、それ自体の存在である。遺跡を通過中に襲われてしまうと作戦に支障が出ることになる。まさか、始めから竜を味方につける算段であったとは考えられない。
そうか、とエーヴィンは内心で思った。竜を少数の兵で足止めし、その隙に本隊は別の回廊を通り抜けたに違いない。前後から迫りながら一向に仕掛けて来なかったのは、竜と戦うのが本意ではなかったからなのだ。
【敵に魔法使いがいるかを聞き出せ。あの手の輩は始末に負えん。】
「当然いる。魔法使いはとりわけ本陣に多くいるだろう。不用意に攻撃を受けぬように気を配るよう、竜に伝えておけ。魔法使いは竜とて侮るべきものではないはずだ。」
しかし、ただでさえ少ない兵を分割するのは常識からいえば下策である。竜をも相手取る危険を冒している。ケルヴァー将軍の率いる軍隊、ひいてはアスタール王国そのものが奇策に打って出るほど危機的状況にあるのではないかとエーヴィンには思えた。
無謀もいいところである。
しかし、作戦に従うところを見るとケルヴァー将軍は将兵の信頼が厚いことが窺える。エーヴィンの感覚は確かに「将軍の仰せとあらば」という言葉を聞き取った。それは背中を預け合うような響きを持っていた。
「明るいね。」
【見えて来たな。】
あれが出口だと、竜が顎をしゃくった先に眩い光があった。
ようやく、出られる。自身を取り巻く状況がどうであれ、エーヴィンにっとては胸のすく思いだった。歩き続けた足はくたくたである。
ここを出たら、ちょっと休もう。出口へと駆け出して、そう考えた時だった。
【行くぞ。】
急な明るさに眩んだ両目を右腕で覆っていたエーヴィンには何が起きたか分からなかった。
背後に振り返ったのも束の間、足が地面を離れたことだけが分かった。
目を開けば視点はケルヴァー将軍の頭を越えて高い位置にある。自身の体を竜が後ろ足で掴み上げていたのだ。居並ぶ兵士達が絶叫を耳にして唖然としてエーヴィンを見ている。竜は折りたたまれていた翼を広げて大風を起こした。
待って、と言おうとしたエーヴィンの言葉は届くことなく、竜は駆け出した。
微かに聞こえる「遅れるな、我らも行くぞ。竜に続け」という大音声があっという間に通り過ぎた。
「落ちる、落ちちゃうよお。」
【黙って掴まっておれ。】
宙を蹴る足の感覚にエーヴィンの心臓はこれでもかと脈打っていた。竜の後ろ足が胴を掴んでいるとはいえ、何かのはずみで落ちかねない。そして何より、息苦しい。必死の訴えでようやく緩んだ前足に掴まる腕に力を込めてエーヴィンは自身の足を竜の鉤爪に乗せ、顔を前足から覗かせた。
辺りの景色が糸を引くように流れている。緑色付く山々と、見渡す限りの草原。
その中に魔族の大軍勢はあった。あちらこちらで煙があがり、喚声が響き渡っている。剣の打ち合う音が響き渡り、槍の穂先が交差している。
【エーヴィン。我が恥を忍んで逃げることも出来るが、どうする?】
「殺せ。」
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【…………。】
糸を引いて流れる景色を以前にも見ていた。
迫りくる大軍、槍を手に、剣を佩いて、盾を構え、弓に矢をつがえる。
戦火が呼び起こした記憶。すべての答えがあった。
「怖いの?」
挑発的な言葉を投げかけたエーヴィンを顧みて、竜は口を噤み翼をよじって方向を変えた。その先には水平の槍から昇る太陽をあしらう旗が棚引く。
竜は無言で顎を開いた。陽光に煌めく白鱗が仄かに赤らむ。
炎を吐くつもりだ。
常人ならば頭を引っ込めたであろう。だが、エーヴィンはその力を見極めんとして引き下がらなかった。緩やかに下降する中、一斉に空の一点を指さす魔族が目に入った。あるいは驚愕を、あるいは恐怖を湛えた面持ちすらも見て取れる。
【灰と化せ。】
目も眩まんばかりの一筋の輝きが放たれた。
「青い。」
澄んだ青色の炎熱が大地を覆った。
炎に絡め捕られた兵士の衣服を焼いて肉を焦がした。黒く醜く、赤く酷く、焦げ付いた表情が絞り出す絶叫さえもが掠れて誰の耳にも届かない。のたうち回って火を消す間もなく次々と焦土に飲まれた兵士は死者へと姿を変じていた。
竜だと叫ぶ兵士たちが慌てふためく中、大きく羽ばたいた竜が次の獲物目掛けて牙を剥いた。どこからともなく、竜の体にぶつかる矢と魔法らしき攻撃にも竜は物ともしなかった。
「ここを押さえれば、将軍が切り崩すはず。そうなると……。」
【何を考えている?】
「この調子で攻撃して。しばらくしたら、こっちに迂回して向かってくる敵右翼、向こう側の方を攻撃して。敵の退路を断って逆にアスタールが敵をあっちの方の谷に追い詰める形にするんだ。」
【人間に味方するのは気が進まぬが、悪くない。いいだろう。】
両軍の激突している谷の入り口、その対面側にも同じく谷があった。
このまま形勢が動けば、敵軍に壊滅的な損害を与えることが出来る。エーヴィンはそう思っていた。
しかし、予測外の出来事は戦場にはつきものである。
「危ない。」
何かの拍子に竜は体勢を崩され、地面へと落ちた。竜の手を離れ、地面に落とされた衝撃でエーヴィンが土埃と肺を押しつぶした衝撃に咳き込みながら振り返ると、そこでは竜が得体の知れない灰色の煙に押しつぶされかけているところであった。
象すらも見上げるほどの巨体を押しつぶすことのできる力は、魔法を置いて他にない。地面に叩きつけられて頭が回った様子の竜に、バルシアの兵達は好機を逃がさず一斉に襲い掛かろうとしていた。
だが、たとえ地に膝をつこうとも、竜は眦の鋭さが鈍ることはない。一撃を覚悟しつつも、心臓を握り潰さんばかりの絶叫を上げて威嚇していた。
一方で、立ち上がり竜のもとへ駆けつけんとしていたエーヴィンにも血濡れた刃が迫っていた。子供一人、武器も持っていないのだから殺すのは容易い。竜に向かう片手間に殺そうとする喚声に向けてエーヴィンは右手を向けた。
「なん……だ?」
「魔法だ。」
「痛え、痛えよ、何なんだああ。」
「焼けるうう、ああ、痛い。」
エーヴィンを中心に取りまく兵士達から黒い霧が発散していた。竜を押しつぶさんとしているそれによく似ていたが、示した性質は全く異なるものだった。兵士達の体から噴き出すや、一直線にエーヴィン目掛けて吸い寄せられ、掲げた右手の中へと溶け込んでゆく。右手だけでなく全身に吸い込まれてゆく黒い霧を失った兵士達は、苦悶に宙を手で掻き次から次へと倒れていった。
もがき苦しみ、あるいは倒れ始めた兵士達を無視したエーヴィンが竜を覆う白い煙を同じようにして払う。重圧がなくなった竜はすぐさま立ち上がって、怒りと屈辱を炎によって晴らす。白い煙を作り出した魔法使いは竜の碧い炎によって悲鳴を上げる間もなく燃え尽きることとなった。
【お主、魔法が使えたのか。】
「話は後で。今はここを出ることが先だよ。」
エーヴィンは地面についていた翼の先に飛び乗るや、勢いのままに駆けあがって竜のうなじまで一息に進んだ。呆気にとられたように頭側の目が瞬く。首の根元に両足で跨ったエーヴィンの姿を見止めた竜が翼を広げて羽ばたき、強烈な風を受けて兵士達の足が止まる。
これで抜け出せるはずだった。
しかし、二人に追いすがる者がいた。
「逃がすな、今を置いて竜を倒す機会はないぞ、かかれ。」
杖を携えた魔法使いの一団が発した魔法が、地面を押し上げ土砂が竜の体を覆って引きずり落とそうとしていた。翼を渾身の力で振るう竜を取り巻いた兵士達が剣を手によじ登り、あるいは今か今かと二人が落ちるのを槍を構えて待ち受けている。
エーヴィンは素早く辺りを見回して状況を知った。まだ、窮地を脱してはいないのだ。
竜の右翼の付け根に右手を掛けたエーヴィンは竜の背中を滑り、続いて左の腕で掴まった。懸垂の姿勢から竜の翼の付け根を左腕で抱え込んでぶら下がるや、空いた右手を迫りくる土砂に向けた。黒い煙が土砂からエーヴィンの体に吸い込まれ、土砂の動きが止まる。
【掴まれ。】
竜が渾身の力で羽ばたいた。