第二話
【く……このような時に。よりにもよって人間共が来たのか。】
歯噛みするように竜が呟く。
それは軍隊だった。くたびれた革の鎧や金属の鎧を身に纏い、鋼の剣を佩いて長槍を手にした兵士の一団である。待ち望んだ助けである。人間の軍隊ならば、諸手を上げて助けを求めることが出来るはずだった。
しかし、少年は立ち尽くしていた。
大盾を並べたその隙間から槍を伸ばし、兜を被った顔を覗かせていた。後方から怒声にも似た大音声が兵士達に命令を下している。曰く、怯むな、一人でも引けば死ぬことになるぞ、と。
脳裏に言葉が浮かび上がっていた。竜と同じく、人間ならざる証である。
少年は思わず竜の足にしがみついていた。
「魔族。」
無意識に口を突いた言葉が、彼らの正体を教えた。鎧に体のほとんどを隠したその正体は、依然として知れぬまま。だが、断じて、人間ではない。鎧兜の隙間から見える彼らの容姿は人間離れしていたのだ。
竜は確かに、彼らを「人間」と呼んでいる。だが、そんなことはあり得なかった。彼らが発しているのはただの喚き声でしかない。意味は分かるが、いかなる言語的な規則性の感じられる音ではない。
ふと、背後へと視線を走らせた少年が竜に伝える。
「後ろ、後ろにもいるよ。」
【分かっておる。】
いつの間にか、通路の前後から軍隊が竜を包囲していた。
「どうするの? 逃げるの?」
【いいや、相手の出方を見るとしよう。如何なる備えをしているとも知れぬ。それに……。】
「それに?」
【耳障りだ。黙っていろ。】
大勢の魔族に囲まれてなお、竜には微塵も怯む様子はなかった。
戦いと竜が呼ぶ殺し合いが今にも始まるかに思えた。万一竜が負けることになれば、如何なる運命が待ち受けているかと少年は慄いた。両者が睨み合う中で少年は様々な考えを巡らしたが、良案に至るはずもなく固唾を飲んで見守る他にない。
がたがたと震える少年の予想とは裏腹に、しかし、魔族の軍隊はまるで攻撃を仕掛けようとしなかった。竜と一定の距離を置いたまま、進みもせず、引きもせず、ただ盾を油断なく構え……。
息が詰まる。まるで時が止まったかのようであった。
「おい、見たか。人間がいるぞ。」
「子供、だよな?」
「何で竜と一緒にいるんだ? 人喰いの魔獣だって聞いてんだぞ。」
「知るか、将軍の御命令だぞ」
魔族の到来は少年と竜にとって予想外のことだったが、竜の傍らに少年がいることもまた、予想の範疇になかったことが聞き取れた。
膠着状態の中、持久戦に備える積もりか竜は腰を下ろしながら抜かりなく左右の目で魔族の軍隊を見張っていた。
張り詰めた糸の上に立つような緊張感が辺りを漂っている。
【何の小細工だ。魔法の気配はないが……。】
なんとなく、ではある。だが消えていた記憶が少しずつだが、確かに戻りつつある。
だが、いかなる常識にも少年が居合わせている状況を再現出来はしない。
「竜に、魔族に、魔法。」
ここは少年の知る世界ではなかった。
■■
突然、少年と竜を包囲している人垣の一方が二つに割れた。
何事かと目をやる二人の前に、一人の魔族が四人の護衛を連れて現れる。護衛の者は大振りの剣を手に全身を鋼鉄の鎧で覆った完全武装であった。あたかも騎士のようであり、その姿からして他の兵士とは一線を画すものを少年に感じさせた。
「そこな者よ、畏まって聞くがよい。」
護衛の一人が呼ばわった。
「こちらに御座すはデイン・ゴル・ド・ケルヴァー辺境伯である。エインデル三世陛下よりアスタールが将軍に任じられ、我らが父祖の地を侵すバルシアの賊徒を討たんとするものである。」
そこにいるのは分かっている、直ちに姿を現し名乗るがよい、と魔族は横柄に言った。
少年がどうすればよいかと尋ねると竜は首を向けた。すぐ頭上に頭を寄せた竜に少年が耳打ちする。
【我にあやつらの言葉は分からぬ。あやつらも然り。我に語りて聞かせ。】
「どこかの国の軍隊がどこか別の国の軍隊と戦うんだって。僕の名前を教えろって言われたんだけど、僕、思い出せないよ。どうしよう。」
ふん、と竜は鼻を鳴らした。
「いつもならどうしてるの?」
【皆殺しに決まっておろう。】
少年は竜の言葉が魔族に伝わらないことを感謝した。
「ああ、その…………結局なんて答えればいいかな。」
【お主の名、だったか。】
ううむ、と竜は思案を巡らし始めた。
名乗るということは話に応じるということである。果たして「人間」を称する得体の知れない者達と交渉できるものなのか。少年は竜に判断を委ねた。
一方で将軍と紹介された男、長い白髭を撫でる老人が返答がないことに腹を立てていた護衛の男をたしなめていた。
長く伸びたその耳は幾重にも枝分かれして、重力に逆らうように宙を揺れている。その姿は人間とは呼べるものではなかったが、鋭い眼光は理性を伴い慎重に竜と少年を見極めんとしていた。頭を半分覆う兜と軽装の鎧にマントを帯びて、短槍の穂先を斜め下に向けつつ悠然と佇む様は、竜の立ち姿に似て歴戦の余裕を感じさせるものだった。
【確か、エヴィン……いや、エーヴィンとでも名乗ればよかろう。】
「そういうことじゃないんだけど……まあ、いいや。ところで、嘘をついてもいいの?」
【気付かれる道理はない。】
おずおずと顔をのぞかせた少年は、自身をエーヴィンと名乗った。
【やつらの兵を下がらせよ。話しはそれからだ。】
エーヴィンを通して伝えられた竜の言葉にケルヴァー将軍は従うことを決め、あまりにも危険だと諫める護衛を退けてエーヴィンと竜の背後を囲む部隊を下がらせるように命じた。背後の部隊が別の命令を受けて移動を開始するのを尻目にケルヴァー将軍は両手で兜を取り小脇に抱えた。
毛髪のない頭は額から後頭にかけて幾つもの溝が褐色の皮膚を走っている。人間ならざる異形ながら穏やかに振舞いながらゆっくりとケルヴァー将軍は一人、エーヴィンのもとへと歩み寄る。短槍は護衛の一人に預けられ、腰につるした一振りの剣を履いているのみである。
「そこにいては話しにくいだろう。出てきて年寄りの話しでも聞いてもらえないかな。」
ケルヴァー将軍本人から聞く最初の言葉だった。
恐る恐る竜の足元からエーヴィンは進み出た。竜は一言、人間同士で話をつけるが良かろう、とエーヴィンに囁くだけだった。
「エーヴィン、と言ったか。この辺りでは聞かない名じゃな。それに見たことのない種族でもある。」
「は、はい。」
「竜と言葉を交わせると見えるが、間違いないな?」
「はい。」
ふうむ、とケルヴァー将軍は白く長い髭を右手でなぞった。その視線は素早くエーヴィンと竜を行き来している。少年はケルヴァー将軍の顔をまじまじと見つめていたが、鋭い眼光に顔を背けていた。
ケルヴァー将軍は何事かを考えているようであった。エーヴィンは声を掛けようか、何を話せばよいだろうかと考え始めたところでケルヴァー将軍が口を開いた。
「古く御伽噺に語られる気高き竜、か。」
「あの……。」
「さしずめ、我々とは関わり合いたくないと言いたいのじゃろう、若いの。」
エーヴィンはこくこくと首を縦に振った。
「僕は何もしてません。まだ、だれも傷ついてないから、このまま引いてくれれば――――。」
そうはいかん。
ケルヴァー将軍が凄み、眉間に皺を刻んだその顔が真正面からエーヴィンを見据えた。
背筋を冷たい刃がなぞった。剣に手をかけてすらいなかったが、ケルヴァー将軍の放つ威圧感はエーヴィンを竦み上がらせるには十分だった。蛇に睨まれた蛙のように身じろぎ一つできず、また目を逸らすことも出来ずその言葉を受け止める他になかった。
「確かにお前さんは何もしていないだろう。
だが、あの竜は違う。我がアスタール王国の騎士が何人も殺されている。大勢の兵士も、だ。何百年もここに居ついてから人間を襲うことも度々あったと聞く。まさか、ただで儂らが引き下がるとは思っていないじゃろうな?」
ただで引き下がらないというのならば、一体どうするつもりなのか。
返答に窮したエーヴィンは最悪の結末を脳裏に浮かべて竜を顧みたが、本当に殺したのかとケルヴァー将軍の前で聞く気にはなれず、かといって人間を殺すことに躊躇いのない竜が膝を折って詫びを入れるようにも見えなかった。
どうかしたかと尋ねた竜に、エーヴィンは開いた口から二の句を紡げなかった。今となって自らの決定的な過ちに気が付いたのだ。
もし仮に交渉が決裂すると、ケルヴァー将軍はどう動くだろうか。大人しく部隊のもとへ戻るだろうか。否、真っ先に剣を抜き放って自身に斬りかかって来ることは目に見えている。竜を前にしても怯むようには到底思えなかったのだ。
背後にいる竜のもとにいれば、人質にされることもなかっただろう。エーヴィンの言葉は魔族に伝わってしまう。助けを求めることはできない。
竜の目と鼻の先ならば大丈夫だろう、と不用心にケルヴァー将軍の前に立ったことをエーヴィンは後悔した。短槍を預けたところで剣を帯びたままなのだ。武器を持っていることに変わりない。
「…………どうして欲しいんですか。」
「えらく察しが良くて助かるの。アスタール王国歴々の騎士と兵士が失われたのは大きな損失だ。ならば、その分を戦うことが罪の贖いになるとは思わんかの?」
「僕に戦えって言うんですか。」
「お前さんには期待しとらんよ。だが、その竜の強さはよく知っておる。我らの側について竜が戦えばよい。そうすれば、竜の犯した罪を免じ、我が軍の進路を妨げた罪を不問としよう。お前さんから伝えてはくれんかな。」
再び振り返ったエーヴィンの背後でケルヴァー将軍が身動きする気配があった。エーヴィンが説明を始めようとすると、竜が閉ざしていた口を開き見せつけるように牙を剥いた。吹き付ける吐息は白煙を帯びて僅かながら火の粉を散らし、地響きに似た低い唸りを伴っていた。
ケルヴァー将軍は恐らく、剣の鞘か柄にでも手を掛けている。エーヴィンから伝えられる竜の返答如何によっては即座に殺すつもりに違いない。わざと、ケルヴァー将軍は竜に見せつけているのだ。
カマを掛けているのではない。エーヴィンの首筋を冷や汗が流れた。
「君がアスタールって国の人間をたくさん殺したから、黙って見過ごすことはできないって言っているよ。」
【そんなもの、知ったことか。】
唖然として言葉を失ったエーヴィンに、竜はややして、忌々しいと言わんばかりの低い溜息と共に答えた。
【我に、何をしろと?】
「やってくれるの?」
【致し方あるまい。】
安堵の溜息をついたエーヴィンを見たケルヴァー将軍が頷いた。
「話は決まりじゃな。竜よ、誇り高き己の存在にかけて我が王国への助力を誓え。」
【……よかろう。】
竜の返答を伝えられたケルヴァー将軍が背後を振り返った。
並みいる将兵の耳にエーヴィンとの会話は聞こえていない。ひそひそと声を潜めて会話していた兵士達が、剣を抜き放ったケルヴァー将軍に注目し、一斉に静まり返った。
一体何が起きているのか。戦うことになるか。
表情を見て取ることはできないが、緊張感が兵士達を流れるのは見て取れた。エーヴィンも竜も、居合わせたすべての者達がケルヴァー将軍の言葉を待っていた。
「聞けアスタールの勇敢なる騎士達、兵士達よ。」
その声は勇壮としていた。
「古く伝説に謳われる偉大なる存在と我らは相見えた。その翼は大空を切り裂き、その鉤爪は鋭く鎧すらも断ち切り、その炎は青く煌めいてあらゆるものを燃やし尽くす。」
その言葉は堂々たるものだった。
「我らは不幸にもその絶大な力を前に同胞を失うこともあった。それは悲しむべきことである。」
だが、今ここに我らと竜の間に和議が相成った。ここに、竜は我らの側に付き共にバルシア王国を討つ。刮目せよ、我らの戦いは子々孫々に渡って語られることになるぞ。」
ケルヴァー将軍が大声を上げた。
そこに、意味など一つもなかった。しかし、脳裏に伝わる言葉とは別に戸惑う兵士達の心に勇気を奮い立たせるには十分だった。
「勝利は我らにあり、行くぞ。」
演説に熱狂する兵士達を他所にエーヴィンは竜のもとへと戻っていた。
「なんか、その、巻き込んじゃってごめん。」
【あの老いぼれめ、小賢しい知恵の回るやつだ。よもや我を試すとは思わなんだ。
しかし、我が誇りに懸けて誓った以上は役目を果たす他にあるまい。我が外へ案内しよう。お主は前を歩け。】