第一話
――――神聖歴九五九年
「陛下、どうかお気を確かに。」
横たわる壮年の男が一人、病を吐き出す力もなく咳き込んだ。
天蓋の幕が上げられた寝台の周りには大勢の文官や武官の姿がある。部屋に充満する息も詰まるばかりに張り詰めた空気は、誰もがその身を案じてのことである。バルシア王シュタイスは先の戦役で負った負傷から病にかかり、今や傍らに揺れる卓上の蝋燭のように、その命はそよ風にも吹き消されんばかりであった。
「セヴァレス……セヴァレスはおるか。」
「はい。陛下の御許に。」
「ユランも、ここへ。」
よろよろと宙へと伸ばされた手を、バルシア近衛兵の隊長セヴァレスは両手で包み込むように握った。生まれついての固い手のひらは、鍛錬と歴戦の経験により鋼のようにさらに冷たく固くなっていたが、バルシア王シュタイスは安堵したように苦悶の表情を僅かに和らげた。
セヴァレスと共に呼ばれた一人の若者にバルシア王シュタイスが語り掛ける。居合わせた者たちの中で最も若いその男は涙を浮かべていたが、一言も聞き漏らすまいと身を乗り出していた。
「ユラン……我が息子よ、よく聞くのだ。」
「はい。」
「今ここにいる者は皆、余が最も信頼する者達だ。先祖も不確かな卑しい生まれの者と思うな。古き格式ある高貴な者と思うな。須らく等しく扱え。誰もが優れた人間だ。皆がお前への忠誠を誓った。必ずその意思に応え、そして……我が意志を継いでバルシアを守り栄えさせよ。」
近衛兵や、王家直属の騎士の多くは孤児であった。バルシア王シュタイスは領地から集めたそれらの子供に食事と家を与え、教養と訓練を施して子飼いの精兵に育て上げた。バルシア随一の武人セヴァレスはその一人である。
それは決して善意から行われたものではない。王家を蔑ろにする貴族を抑え、王権を強化するための手駒でしかなかった。
しかし、かつての孤児達はバルシア王の意に応えた。僅か十五歳で始まるその戦歴の多くを勝利で彩り、やがて貴族の反抗は収まるとセヴァレスを筆頭にバルシア王シュタイスの力は世に広く知られることとなった。
「ところで……あの魔王と竜はその後どうしている。」
「王位を簒奪した後、臣従を拒否した貴族の軍勢を次々に撃破しているとのことです。貴族はそのすべてが爵位を剥奪され、抵抗して捕らえられた貴族は一族もろとも処刑されているとの噂があります。」
「内乱もそう長くは……続かないだろう。」
「アスタールでは敵に利する自縄自縛の愚を犯しておりますれば、その滅亡も近いのでは。」
「確かにそうなるかもしれん。あるいはそうならぬのやもしれん。」
手を尽くして調べても魔王の正体は依然として知れなかった。竜を操り不可解な魔法を駆使するその王は、地に降り立ち農民上がりの歩兵が戦う最前列で自ら剣を取っている。
王に深手を負わせた竜とその乗り手を誰もが恨み憎んでいたが、その力はセヴァレスが身をもって知っている。そしてバルシア王国への忠誠厚い騎士から語られた言葉を疑う者はいない。
「魔王がアスタール全土を支配する時、バルシアとアスタールが雌雄を決する戦いがお前を待ち受けているだろう。」
「はい、父上。」
「あれを倒せるとすれば、セヴァレスをおいて他にはいない。頼むぞ。」
「我が身命に懸けて、必ずや。」
かすれてその言葉が途切れ途切れとなっていたバルシア王が咳き込んだ。慌てて駆け寄った侍医がこれ以上は体に障ると告げたが、バルシア王はその勧めを断り手を貸すように命じた。
上体を起こしたバルシア王は部屋を見回した。顔色は悪かったが。王の威厳は微塵も損なわれてはいない。
「余はもう長くはない。だが、命果てるその時まで魔王に屈してなるものか。ユラン、既に分かっていることと思うが、お前が余の後を継ぐことになる。」
「はい。父上の考えは分かります。」
「用意を急がせている。済み次第お前を玉座に据える。皆、後を頼むぞ。」
その場にいた全員が同じ答えを返した。
「余はもう疲れた。しばし休むとしよう」
バルシア王の言葉によって臣下は寝室を後にした。
セヴァレスもまたそれに続こうとしたが、背後から呼び止められて踵を返した。「いかがなされましたか」と訪ねたセヴァレスに、バルシア王は部屋の片隅に置かれた鎧に目をやった。そして、こともなげに言った言葉にセヴァレスは目を見開いた。
「それをお前にやろう。」
「陛下、それはなりません。ユラン殿下がお使いになるべきです。王家に代々伝えられたものと伺っております。騎士の一人でしかない私には過ぎたるものです。」
「それこそ無駄というものだ。ユランは病弱で武芸など凡そままならないというのに。
我が王国は千年近い歴史を誇る由緒正しき王国。バルシアの祖ハイゼンは他の六聖人と共に竜を討ちしおりにその鎧を身に纏っていたと伝えられている。
神々の祝福を受けた黄金の輝きはお前にこそ相応しい。バルシアの盾にして剣たるお前に。」
「恐れ多いことです。」
勧められてなおも辞退したものの、セヴァレスは王命を受けて承諾した。肩の荷が下りたように息を吐いたバルシア王が最後にもう一つの王命を下す。
「大関門の辺りの貴族が不審な動きを見せている。適当な口実を作る故これらの者を一人残らず殺して欲しい。一度裏切っておきながら再び戻ってきた者を信用できるはずもない。」
「仰せとあらば。無礼を承知で申し上げますが、魔王と同じことをなさるお積もりで?」
汚れ仕事であったが断るべき理由がセヴァレスにはなかった。
「余命が短いというのも使い物よ。ユランには出来ないことだ。間もなく神々の迎えが来る身であればこそ出来ることだ。しかし、お前には悪いことをさせてしまうな。」
「私のことはどうかお気遣いなく。それで、領地はいかがされますか。」
「一代限りでお前に与えよう。近衛騎士共々これを治めよ。」
「我らを領主にしてくださるのですか。」
「先の戦いではお前達に救われた。お前の右腕、テナンも馬を譲ってそのまま帰って来なかった。多くの者を失い、我らはこれを敵地に残し葬ることも叶わぬ。貴族がこれを好機と見て動き始め、我が王国は再び危難に晒されようとしている、この大事な時に余は……。」
侍医も部屋を後にさせられた寝室にはバルシア王の他にはセヴァレスしかいない。水瓶を手に取り杯に果実水を注ぎ、咳き込んでいたバルシア王は礼を言って飲み干した。
「無礼を承知で申し上げます。まさか、陛下のそのようなお姿を拝する日が来るとは思いもよりませんでした。我らが至らなかったがばかりに申し訳ありません。」
「止せ、その話はもう終わりだ。もう十分だ、十分なのだ。」
騎士を咎めるようでいてその実、不甲斐ない自身を責めているようで胸を締め付けられる思いである。そう告げたセヴァレスは再び謝罪した。
バルシア王シュタイスは竜の炎に巻かれて落馬した。先祖伝来の黄金の鎧は竜の炎熱にも耐えたがバルシア王はそうはいかなかった。
囮となり、あわよくば竜の乗り手を殺さんとしたが果たせず、挙句に山賊に襲われた王が負傷した身で剣を手に取る事態に陥り、危うく殺されるところであった。未だかつてない屈辱と不名誉であった。それは王にとっても近衛騎士にとっても、である。
「何もかもうまくいっていたものが、あの魔王が現れてからおかしくなってしまった。我が王国は今、悪い風向きに晒されている。セヴァレス、お前も十分に気を付けるのだ。……話はこれで終わりだ。ここでのことは余とお前との秘密だ。よいな?」
「畏まりました。」
天蓋の幕を下ろし、敬礼と共にセヴァレスはバルシア王の寝室を後にしたが、もう、呼び止められることはなかった。
■■
「遅かったじゃねえか、なんか言われてたのか、セヴァレス隊長。」
「新たなご命令が下った。」
「どんな、だ?」
「出発の準備を始める。」
「そんだけか?」
「そんだけ、だ。」
王家に仕える騎士たる者が、まして近衛ともあろう者が下民の薄汚い酒場にいることに貴族は眉を顰めるが、バルシア王シュタイスは寛大に目を瞑っている。酔い潰れたはずみに口を滑らせかねない騎士達にはほとんど情報が知らされないが、それはいつものことであった。
王家直属の騎士三百名のうち百名以上を失ったが、盃を交わす各々の目に涙はない。生きている者のために涙を流すことはあっても、死人のためには流さない。死者を悲しむよりも、その思い出に乾杯するのが彼らの流儀であった。
一軒には収まりきらない彼らは、事あるごとにバルシア王都の酒場をいくつも占領して騒いだ。下品な言葉を発し品性のない笑い方をする近衛兵達は、祝杯をそれぞれの財布で負担し庶民に気前よく振る舞い共に祝った。
王都の住人は誰もが近衛騎士らを知り合いとし、古くからの友人のように慕っていた。だからこそ、いつになく近衛兵の数が少ないことを酒場に集まった王都の庶民は気付いていた。
「よく来たねセヴィー、テナンの碌でなしはどうしたんだい? いつも一緒だろう?」
「…………。」
「……悪いこと聞いちゃったかい。」
「仕方がなかったんだ。護衛を途中でやられて一人で来たあいつの馬しかなかったんだ。」
何を意味しているか分かるはずはなかったが、ふくよかな体の女はしきりに頷いている。貧民街から拾い上げた酒場の女主人が教会に預けたことが転機となって以来、セヴァレスは居座る近衛の仲間を押しのけて必ずここで酒を呷ることが習慣としている。
そして酒代をしばしば踏み倒したテナンから金を取り立てたのは、他ならぬ女主人だった。精強を以って鳴らした近衛兵が最も恐れる存在である。王都一帯の酒場の元締めでもある女主人に逆らう者は一人もいなかった。
しかし、幾度となくセヴァレスがテナンの飲み代に貸した金は結局帰ってこなかった。
「西通りのウィンは知ってるかい。春をひさいでいる女なんだけどテナンのやつはね、ウィンのために金をためて医者だったり流れ者の魔法使いを呼んでやってたんだよ。本当、いい男だったよ。」
ぼんやりと手にした杯の水面を見ていたセヴァレスは顔を上げた。
「そんなことがあったのか。それを知ってたなら酒代くらい漬けてやってもよかったじゃないか。」
「やだよ、テナンが踏み倒したらあたしゃご破算だ。あいつがどれだけ大酒呷ってたか、あんたが一番よく知ってるでしょう。」
樽一杯を飲み干せるのは王都広しと言えど、テナン副隊長だけであった。その挙句、財布を忘れたと言ってそのすべてをセヴァレスに払わせた過去がある。
「ああ、あたしゃなんてウィンに伝えりゃいいのやら……。テナンはどんな最期だったんだい。」
「地上に降りて戦っていた私に陛下の危機を伝えて馬を譲ってくれた。お前の方が役に立つから、と。」
「あんた、ヘマして馬から落とされたのかい。」
「いや、馬から降りねばならなかったんだ。相手はあの魔王と竜だ。」
年増の女主人も息を飲んだ。
アスタール王都スタールでの壮絶な殺戮を、見世物のように商人が金をとって見せている。魔方陣が描き出した光景はこの世のものとは思えないほど血に塗れていた。
女主人は口が裂けても秘密を洩らしはしない。セヴァレスは戦いの様子を細かく教えた。
「噂じゃあ魔王は兵隊の真ん前で戦ってるっていうけど、あながち嘘じゃないのかもしれないね。ただの農民ならまだしも、騎士や魔法使いをあっさり倒してしまうなんて、竜ってのは恐ろしいねえ。」
「備えが不十分だった。万全の状態で待ち受けていればあるいは違っていたかもしれない。今更手遅れだが。
その竜から降りていた魔王と戦っていた私の許へテナンが馬で駆けつけて陛下がまだ危険だと教えてくれた。私に馬を譲ってテナンはその場に残ったんだ。……そういえば、あいつは『大樽で酒を用意しておけ』なんて言ってたな。」
「まったく、テナンらしいよ。それが最期の言葉なんだね。」
「ああ、そうだ。…………支払いは私が持つ、一本開けてやってくれ。」
「踏み倒すんじゃないよ。」
ぎこちなく笑うだけで返事はなかったが、女主人はカウンターから離れ、酒場の端に一人、肘をついて項垂れているセヴァレスが残される。誰も、酔いつぶれ、顔を赤くした者達でさえも絡もうとはしなかった。