第一話
ーーーー神聖歴九五八年
灰を被った廃墟は、その息遣いを除いて静まり返っていた。
視界を塗りつぶす黒い闇に浮かび上がる瞳、血を思わせるその色は僅かに光を帯びて、すくみあがる小さな体を射貫いていた。低い唸りが淀んだ空気を揺さぶり、腐臭を帯びた吐息が鋭い牙を伝い髪を撫でる。
窮地だった。
しかし、立ち上がれない。炎へ飛び込む羽虫の如く視線を引き寄せられた少年は地面を蹴って後退るも、背中を固く遮る冷たい感触に己の命運が尽きたことを知った。眼前に迫る恐怖に小さな盾を掲げ、足を折って縮こまる。
身を守るにはあまりにも頼りない盾の裏で少年は目を閉ざし、何に願うでもなくただ祈っていた。こんなのは夢だと、悪い夢なのだと、そう思いたかった。だが、鋼鉄をきしませた地響きは間違いなくあった。音に、臭いに、感触に……それが一歩踏み出した事実に背を向けることはできなかった。
死ぬ。
それは、とても恐ろしかった。
【人間。】
堪えるように力を込めていた目蓋を少年は恐る恐る、片方だけ開いた。やれ、立て、やれ、起きろと呼びかける声の主は分からない。それでも助けて欲しい一心で盾から顔をのぞかせたその刹那、少年は間近に「それ」と視線を交えてしまった。
ああ、食われる。両目を見開き彫像のように固まる少年。
苛立つように、どこからともなく聞こえる声の主は口調を荒げた。
【やれ、人間。我が忍耐にも限度があるぞ。立たぬというのならば、このまま踏み潰してくれる。】
それは、瞳の主が発しているようだった。
力の入らぬ体に鞭打ち盾に掴まり少年は立ち上がった。背中は曲がり、膝は震えて老人のようであったが、確かに立ち上がっている。すべての感覚も思考さえもが消え失せ、時すらも止まったかに思えた。
【ここは人間の来るべきところではない。何をしていた。】
声の主を見上げた少年は、錆び付いた歯車のように働かない頭で思い浮かんだ言葉を口にしていた。口を突いた言葉を発し終えた時、少年は声の主の機嫌を損ねたかもしれないと激しく後悔した。
「君が……喋ってるの?」
あたかも自身の思考に割り込んできているかのようだった。脳裏に木霊する言葉、それは音を伴っていなかったのだ。
ふん、と鼻を鳴らした気配は鼻孔からの息に薄く煙をまとい、ぴくりと身をよじった少年を見下ろす。当然だと短く答え、声の主は瞳を遠ざけた。頭上から少年の挙動を見つめる声の主が一歩、二歩と下がった。
圧迫感が和らいだ背筋を不器用に伸ばし、盾を手にした腕をだらりと垂らして少年は呆然とした。一体どうしたらよいものか、分からなかった。
ただ、少年と声の主が二人、そこにいた。
【我がねぐらで何をしていた。】
「えっと、その……。」
しどろもどろに言葉を濁した少年に威圧感が大きくのしかかる。
その時、鋭い打撃が鋼鉄の床を揺らした。衝撃を受けてたたらを踏んだ少年は、それが声の主の仕業と直感して慌てて口を開く。
「分かんないんだ。分からないんだよ。」
【嘘をつくな。】
「嘘じゃないよ。本当だよ。」
堰を切るように少年はまくし立てる。
「目が覚めたら狭い箱に閉じ込められてて、訳が分からなくて、やっと出てきたら誰もいないし暗いし…………部屋を出たら、みんなみんな死んで骨になってて、僕、怖くて、どうしたらいいか分からなくて……。」
まくし立てた言葉は段々と嗚咽を混ぜて、尻すぼみに消えた。
辺りには壊れた機械が無造作に積み上げられ、それに混じって数えきれないほどたくさんの死体が佇んでいる。あるいは乾ききった皮に辛うじて人間の姿を残し、あるいは骨となり果て二つの穴が虚空を見つめ、どれもが葬られることもなく辺りに横たわっていた。
目に涙が浮かび、うつむいた途端に零れ落ちる。乾いた口へと染み出るはずの唾が喉で詰まる。盾を落とし両手を顔に押し当てる。
しばしの無言。声の主が何を思ったかを知る術はなかったが、「まあ、よい」と答えた言葉は確かに聞こえていた。
「ねえ、僕、どうしよう?」
知ったことか。そう斬り捨てた声の主だったが、ややして、ここから立ち去るように告げた。抑揚に乏しい調子は興味の失せた、退屈を持て余している印象である。
「どこに行けば、ここを出られるか知らない?」
荒涼とした無人の地に置かれて頭をかすめる漠然とした不安、それにも勝るものは声の主の無関心だった。
一人は怖い。置いていかれたら、今度こそ立ち上がれないかもしれない。なんとか思いついた問いを少年は投げかけた。
【上を目指せ。】
「上に行くには、どこに行けばいいの?」
【坂を上がればよい。】
さらに坂への道のりを尋ねた少年に声の主は唸りを上げた。首をすくめておどおど伺う少年に声の主は忌々し気に告げた。
【面倒だ。付いて来い。】
地響きを鳴らして歩き始めた声の主を少年は追いかけた。
だが、明かりに乏しく足元のおぼつかない中で走った少年が何かにつまづいて転ぶのは当然の結末だ。短く叫んで倒れ込んだ同行者を声の主が顧みる。速くしろ、とは声の主。少年は文句を言った。
「僕は君みたいに足が速くないんだから、ゆっくり歩いてよ。」
【軟弱な。】
「あと、時々止まって待ってくれるかな。」
声の主はひどく尊大であったが、墓場の真ん中に放り込まれた少年にはかえって頼もしく、小馬鹿にされても気になることはなかった。
「ねえ。」
並んで二人は歩く。
回廊は壁に真っ赤な明かりが点々と規則的に続く。非常灯は両目に突き刺さる強烈な光だったが、暗闇に吸い込まれるために灯りとしての役目を十分に果たせていない。迷路のような複雑な路地にあって、しかし、声の主は迷う素振りもなく淡々と歩みを進める。
時々足を止めて振り返っては何も語らず少年を見つめていた声の主が、呼びかけられて「どうした」と返した。押し黙ったままでは気まずい。義務感にも似た感覚を覚えた少年は、なんとか冷えた空気を温めようと声の主にその名を尋ねた。
【人間に名乗る名はない。】
「そんなあ。僕は君が誰か知らないよ。」
【我を知らずしてここへ来たというのか。愚かな。】
じゃあ、君は何なのさ。声の主は頬を膨らませた少年に厳かに名乗る。
【我は竜。天翔け地を征き焼き払う者。】
竜。
その姿、遥か高みから見下ろす長い首、折り畳まれた一対の翼、四本の強靭な足、鋭く伸びる頭頂の角、全身を一部の隙間なく覆う鱗は非常灯の明かりを受けて真紅に輝き、緩やかな曲線を描く尾は優美に映える。
見上げる少年は誇示するように両翼を広げた竜に感嘆し、すごいねと素直な言葉を発した。きっと、口から火を吐いて翼を広げれば空へと飛びたてるに違いない。すかさず尋ねた少年に竜は「いかにも」と頷いた。
「いいなあ、僕も空を飛べたらいいのに。そしたら、あっという間に出口まで行けるよ。」
【……人間如きが。】
棘のある呟きが脳裏をかすめる。目を細めて先を睨んだ竜は少年に向き直らなかった。
端的に言って、竜は人間嫌いのようだった。
気に障ることを言っただろうか、何を話したものかと押し黙った少年に竜が問いかけた。
【ここを出てどうするつもりだ。】
「ううん……。」
まったくこれといって、考えていなかった。
【この辺りは我が縄張りとするところ、人間の往来のない森と平野が続く。ここを出たところでお主は生きては帰れまい。獣に食われるか、道を見失うか、行き倒れるか。いずれであれ、お主の軟弱さでは長くは生きられまいて。】
「それ、本当?」
付け加えるなら、少年には武器がなかった。竜に少なくとも今は殺されないと分かり、歩みの早い竜について行くのに精いっぱいだった少年は、何も手にしていなかった。
人間の亡骸や破壊された機械に混ざって剣や槍、盾に銃が転がっている。いそいそと少年が拾い上げた剣を一瞥して竜は嘲笑った。錆びついた剣はただの一振りで粉々に砕けてしまうことだろう。銃の引き金に手ごたえはなく、盾と剣を手に廃墟を彷徨って竜と出会った。
もしも出会ったのが竜でなかったのなら。少年はそれ以上考えることをやめた。
【死ぬぞ。】
「そうかもしれないけど、いつまでもここには居られないでしょ。お腹空いてるし、喉も乾いたよ。」
竜は白い煙混じりの溜息を吐いた。
どうしようもない、と暗にそう告げているような気がして少年は俯いた。視線の先には死人が横たわる。戦いの中で死んだ者達。時折、竜に踏み潰されてぱりぱりと粉々になる、乾いた骨と肉の音が反響していた。
少年にはひどく、悲しく思えた。
■■
少年は疲れていた。
【どうした。】
「まだ歩かないと駄目なの?」
壊れた機械に腰掛けた少年は休憩がしたいと言った。もう歩けないと訴えられた竜は足を止め、その長い首に緩やかな弧を形作って振り返りごめん、と謝る人間を考え込むように見つめる。
【……。】
「ずっと気になってたんだけど、君はずっとここに住んでるの?」
【然り。】
「ここ、すごく暗くて気味が悪いし、出口まで遠いじゃん。どうしてこんなところにいるの? 強いんでしょ? もっと、他の場所に住むことも出来たんじゃないかな。」
あるいは暗闇を見通せているのかもしれない。しかし、わざわざ地下深いこの場所を「ねぐら」にしたのだろうか。夜行性、実は臆病、本当は空を飛べない……竜がどんなものであれ、知りたいと、そう少年は思った。
竜は人の目にも分かる不快感を顔に表したが、黙したまま、忌々しいとばかりに顔を背けた。
お主の知ったことではない。そう告げた竜の表情の意味するところは人間の、まして出会って間もない少年には分からなかった。
【お主こそ、大地の底は似つかわしくあるまい。ここまで踏み込んだ人間はお主が初めてだ。こそこそ隠れていたにせよ、我が気が付かなんだとは。】
「そうなんだ、どうしても思い出せないんだ。」
それは出会った時の問い。
記憶が消しゴムで消されたような、そんな感覚だった。跡は残っている。書かれた記憶は確かにあったが、僅かに書かれていたことが分かるのみ。廃墟を見渡せば、どことなく見覚えがあるところもある。鉛筆を寝かせてこすれば消えている文字が浮かび上がるかもしれない。
自分の名前も記憶にないんだ。何かを誤魔化すかのように少年は笑った。不安か恐れか消失か。分からないということはただそれだけで、喉に小骨の引っかかるような、痒いところに手が届かないような、少年をちくちくと針で刺すような痛みで苛んでいた。
【知らぬと言うなら詮無き事、これ以上は問うまい。お主は……ここを立ち去るのだ、知る必要もなかろう。】
「うん。」
二人が押し黙る。
ここを出たら――少年は思った――竜と別れねばならない。頼る当てもなく僅かな土地勘だけで人間のいるところまで行くのは難しい。
ならば、と顔を上げ視線を竜に向ける。四つある内の左端の目で、顔を背けたままさり気ないことを装うかのように瞳が時折少年を正視していた。金色に縁どられた黒く縦に長く伸びた瞳孔、そして赤くかすかに光る虹彩……敵には恐怖を与えるそれは、人が黄金に引き寄せられるように、少年の目を釘付けにして止まない。
何か言い足りぬことはあるかと尋ねる竜。少年の返答に二対の瞳が瞬いた。しばし、言葉を発さなかった竜が少年に正対した時、突然少年が立ち上がった。
【行くか。】
「待って。」
少年が目を凝らす暗闇、非常灯が居並ぶその中に異質な物音があった。
「何か来るよ。」
【何だ。】
「分からないけど、聞こえない?」
竜が睨みつける暗闇、どこまでも続く回廊のその先に異質な気配があった。
【騒ぐな。我が元へ来い。】
険の深く低い唸りが鋭い牙を吹き抜けた。床に落としていた腰を持ち上げ、自らの許に駆け寄った少年を匿いながら竜は備える。この時思いがけず少年は初めて竜に触れることになった。羽毛の代わりに鱗が隙間なく並ぶ翼の影に体を隠し、顔を半分ばかり覗かせて様子を窺う。
一体何なのかは見当もつかない。だが、竜が隠しもせず放つ警戒心は少年にも良く伝わっている。
少年は固唾を飲んで見守る。
やがて見えた影に、驚愕に、その目は見開かれたのだった。