9.アレックス・ベイレフェルトは如何にしてその右手を失ったか
アレックス・ベイレフェルトは、その人生の中で、二度死にかけたことがある。
一度目は、”軍人としての資質を問う”ベイレフェルト家に代々続く儀式として、父ウォルフガングと剣を交えた時、アレックスが若干十歳の時だった。
二度目は、西方湾の海戦と呼ばれる、アレックスが右手を失うこととなった、混血魔族の反乱に於いてだ。
西方湾は、城下からずっと西にある海に面した町だった。そこは元々、先の大戦より落ち延びた混血魔族の末裔達が暮らす場所だった。
その場所に、先代の皇帝であるリチャード・ヴァン・キャロラインが港湾都市建設を決めたのは、今から三十年前。隣国との交易の玄関口として、一年を通して波の穏やかなこの湾は船着き場にはうってつけの場所であった為だ。
港湾都市の建設は、軍が主導することになった。城から遠く離れた場所ではそれが最も効率的だと思われた。あらゆる決定権を軍に与えることで、現場での迅速な対応が可能になると、皇帝であるリチャードはそう考えた。
つまり、リチャードは”功を急いて”いた。
そして、建設の為に、多くの人足が動員された。
城下のスラムで暮らす、浮浪者同然の人間族が主ではあったが、中には人身売買によって連れてこられた、騙されて連れてこられた者までいたという噂だ。
最初の十年で、建設計画は遅れに遅れた。
とある参謀が、帝国から貰える人件費のうち、その三分の二にもあたる額を”ピンハネ”し、懐を潤していたため、安い賃金で雇える人足の”質”は散々たるものだったためだ。
そこで参謀が目を付けたのは、この地に土着的に住まう、混血魔族だった。
”悪魔の加護”を受け、その体躯に恵まれた混血魔族は労働力として申し分ないはずだった。しかし、文明とは程遠い、慎ましい暮らしをしてきた混血魔族には労働によって賃金を得るという意欲が欠けていた。
何としてでも彼らを労働力として駆り出したい参謀は、”新たな価値”を作り出すことを思いつく。混血魔族に賃金を得る欲求を湧かせるモノ。金銭と引き替えに得られる、欲求を満たすことができるモノ。
それは交易が始まったばかりの隣国からもたらされた”負の恩恵”。
麻薬だった……。
それは瞬く間に港町に広がった。
その頃、この港町は参謀を含む駐屯兵、建設技師、そしてこれから開かれる港湾都市に活路を見いだした商人、職を求める人間達で、その人口は城下と変わらぬ程に膨れ上がっていた。
人がいれば”商品”が売れる。麻薬の輸入と、その売買は駐屯軍主導で行われていたが、強かな者達が”その金のなる木”を”黙って指をくわえて見ている”わけがなかった。
闇から闇に金が流れ、昼夜問わず路地裏に死体が転がる。利権に群がる者達の奪い合い、殺し合い。港湾都市の治安はその”ハイエナ”どもによって喰い散らかされた。
そんなある日、メインストリートに一人の少女の死体が転がった。彼女は混血魔族だった。
その事件は、抑うつされてきた混血魔族の感情に、反乱の火を灯すきっかけとなった。
それからというもの、駐屯軍はその鎮圧に手を拱いているうちに、港湾建設計画はさらに遅れていく。そればかりか危険を察した労働者達はどんどん港湾都市を去ってゆく。
見かねた皇帝は、ウォルフガング・ベイレフェルト率いる増援を西方湾に送る。
到着した増援部隊が見たもの、それは、日々勃発する反乱に疲弊した兵士達と、麻薬取引の証拠隠滅に躍起になっている上官達の姿だった。
件の参謀はというと、建設中の桟橋からこそこそと隣国に脱出しようとしているところを捕らえられた。彼が用意していた小舟には、今までため込んできたであろう金貨銀貨が山のように積まれ、今にも沈没するのではないかという有様だった。
参謀はその日のうちに城下に送還され、翌日には断頭台に上った。
紛争は長きにわたって続いた。
それでも港湾都市の建設を止めるわけにはいかなかった。交易を大々的に開こうと約束した隣国との関係に、建設計画の遅れのせいで、若干”気まずい”空気が流れはじめていたからだ。
若きアレックスは、闇夜に紛れ、翼竜部隊を率いて西に向かっていた。
アレックスはこの任に自ら志願した。
昨晩、部下である伝令兵が戻らなかったからだ……。
西方湾とは一日に二往復、翼竜部隊から輪番制で伝令兵を飛ばせていた。隊長として、部下の安否を確かめる責任もあったし、すでに退役した父、ウォルフガングが”我が軍歴の中で、最も壮絶な戦場”と評したその場所に赴いてみたいという気持ちも強かった。
湾の手前に広がる森を大きく迂回して海岸線を飛ぶ。
森はゲリラ化した混血魔族の根城だ。いくら月のない闇夜でも、その頭上を超えてゆくのは危険すぎる。
湾に浮かぶ小さな小島には灯台が立っていた。その灯りを目指し隊は一列に並び空を駆けた。こうすることで、空気抵抗を減らし、翼竜の疲れを最小限にできる。
隊が街に差し掛かった時だ。
「隊長。何か来ます」横に並んだ山育ちの若者が言った。
「何か見えるのか?」アレックスは闇に目を凝らしてみた。
「いいえ。音です。風を切る音。我々の後方。数は、二十……、いえ、三十です」
山育ちの若者はその優れた感覚を持って敵を察することができる。
「まずいな。こちらより十多い……。相手は、翼竜か?」
「そうですね……、しかもこちらより大型の……」
「益々まずいな。混血魔族にも翼竜使いがいるのか……。逃げきれるか?」
「いいえ。もう追いつかれます!」
「やるしか……ないか」
アレックスは首に下げた金と竹の笛のうち、金の笛を取り口にくわえた。
敵襲の合図! 耳鳴りのように高いその音を兵士達は聞いた。
左右に散る。高度を上げる。訓練どおりの動き。
追ってくる無数の黒い陰。
「速いな!」アレックスはクロスボウを手にする。
その時、太陽を見た。アレックスは身を屈める、それは火球だった。アレックスをかすめたそれは一人の兵士に直撃した。
「うわー!!」
声はあの山育ちの若者だった。彼は炎に包まれ、火だるまになって海へ落ちてゆく。
アレックスは自分の髪が焦げた臭いを感じた。
「魔術師がいるぞー!」
誰かが叫んだ!
今度は上から火が降り注ぐ。先に危険を察知したのは相棒の”スヴェン”だった。ヒラリと左に身を立てる。
アレックスは右手のクロスボウを弾く。
矢は火球に吸い込まれる。火球を射抜いた矢は黒炭同然となったが、それはまっすぐに魔術師に向かいその喉仏に突き刺さった。
「ぎゃ!」という声が聞こえ、黒い影が落ちてゆく。
大きく旋回。高度をとる。周りを確認すると敵味方入り乱れての空中戦。
矢が飛び交い、火球が飛び、悲鳴が聞こえ、敵か味方がわからない影が次々と落ちてゆく。
海上には主を捜すように一匹の翼竜が旋回していた。きっと、あの山育ちの若者の相棒だろう。
アレックスを追いすがる影。
それに気づきほぼ垂直に落下する。水面ぎりぎりでターン、滑空に入る。
小型の翼竜だからこそできる素早く小さな弧を描く転回。アレックスは凄まじい遠心力に奥歯を噛みしめる。
相手を正面に見据える。
速い!
クロスボウを構える、より早く敵が大刀を振り降ろす。
クロスボウが弾き飛ばされ、海に落ちてゆく。
アレックスが目に捕らえたのは巨大な体躯の上に牛の首を乗せた混血魔族。”悪魔の加護”を特に強く与えられたモノであることは間違いない。
一撃の後、両者は離れてゆく。アレックスがもう一度転回に入る、首を持ち上げるように相手を見ると、敵もまた転回に入っていた。
アレックスは腰の剣を取ろうとしたが、取れなかった……、
アレックスはその時、はじめて気がついた。単に、クロスボウを叩き落とされたわけではなかったことに。
右手首から先が無くなっていたのだ……。
あわてて左手で剣を取ろうとするが、もたつく。
敵が迫る。すでに目の前。
どうすることもできない。
その時、咆哮と共にスヴェンが口を開けた。
そして、その鋭い牙で、牛の頭を食い干切った。
残された身体だけが翼竜の上でユラリと揺れ、そして落ちていった。
灯台の小島に逃げ延びたのはアレックスを含め、僅かに五人の兵士だった。
誰もが満身創痍だった。兵士達も、翼竜達も血を流し、力なく浜に佇んでいた。
アレックスはベルトで腕をしっかりと巻き止血をした。 痛みは感じなかった。それ以上にアレックスの心が傷んでいた。もしも、ここに誰もいなければ彼は耐え切れず泣き叫んでいたに違いない。多くの部下を死なせてしまった自責の念が、一千本の矢になって彼の胸に突き刺さっていた。
「ありがとな」そう言ってアレックスは、スヴェンの頭を撫でた。
傷だらけの相棒は、その目にまだ闘志を灯らせていた。
アレックスは命を救ってくれた相棒に、礼としてその”諦めの悪さ”にもう少しつきやってやることに決めた。
剣を拾い、右の腰に鞘を差し直す。
「隊長……」一人の兵が呟いた。
「おまえ達は隠れていろ。万が一の時は投降しろ。命を無駄にするなよ」
朝焼けに染まり始めた未完の港湾都市、その方角からいくつもの影がこちらに向かってくるのが見える。
あれは、敵の増援か、もしかしたら味方の救援か……。
アレックスは左手で剣を握り締め、相棒のスヴェンに跳び乗った。