5.アレックス・ベイレフェルトと、その友人の出会い
元軍人、アレックス・ベイレフェルトのあだ名は”ロブスター”だ。
これは、彼の右手に由来する。その右手は義手だった。
それはブロンズ製の簡素なもので、一見すると”カニのハサミ”のようであるからだ。
しかし、”ロブスター”の名を彼に面と向かって言う者はいない。
言えばどんな目にあうか、まことしやかに囁かれている巷の噂が教えてくれる。
その噂とはこうだ、
ある日、アレックスが場末のパブで飲んでいると、同じく軍人崩れだろう、ガタイのいい男がアレックスにこんなことを言った。
「おいおい、ロブスター。そりゃあ、共食いってやつじゃねーのか?」
一人カウンターで飲んでいたアレックスの手元には”ボイルエビ”があった。
その声が聞こえた何人かからも下品な笑い声が上がった。
それから、ほどなくして。城下南門にある軍の詰め所に、一人の男が駆け込んでくる。
「助けてくれ! ロブスターがキレちまった。店が壊されちまう!」そう叫んだのはパブの店主だった。
そして、知らせを受け、パブに駆けつけた憲兵達が見たもの、それは血の海と化した店内で、優雅に酒をかっくらい、ボイルエビを貪るアレックスだった。
この話が嘘か真か確かめようとする酔狂な人間はあらわれないが、一つ確かなのはアレックスの鬼神の如き強さだ。
それは彼が軍人だった頃、北方の戦線に於いて、いくつもの勲章を受けたことが証明している。
しかし、最も大きな勲章が、彼が右手を失ったことに対するモノであったことは皮肉な事実であった。
上空の風は皮膚を刺すように冷たく、アレックスは首に巻くストールで口元までを隠していた。
霞がかる谷間の飛びにくさを嫌い、アレックスとその相棒、翼竜の”スヴェン”は通常よりも高度を上げ、滑空していた。
アレックスは背中に、羊の皮をなめして作った”メッセンジャー・バッグ”を背負っている。その中には、今夜お城で開かれる晩餐会のために、王女さまもお口にするであろう、氷菓に使う氷が入っている。
『ビビー、ガー』
ヘッドバンドに取り付けた”ヨリシロ”から不快なノイズが聞こえた。
『……ちら……ンネ……、レック……』
アレックスは思わず”ヨリシロ”の位置を調節してみた。
『こちらジャンネ。アレックス、聞こえるか? どうぞ』
「なんだ? えらく感度が悪いなー。ジャンネ、また魔方陣にミルクでもこぼしたのか?」
『ちっ、ち、違うわい……』
何故か慌てている様子にアレックスは少し可笑しくなった。
「で、どうしたー?」
『予定通り、”ピック”できたか?』
「氷室を管理しているお喋り好きなドワーフの婆さんに捕まってたもんで、予定より四刻半ほど遅れてるよ」
『なら丁度よい。東門は荷馬車が”ジュウタイ”を起こしているそうじゃ。今、クレアから連絡があった。なので北の二番門を使え』
「北? ドッキングは誰とだ?」
『エドがすでに待機しておる』
「おいおい、王女さまのお口にするものを、カタツムリに運ばせるのかよ?」
『まあ、見た目は”あれ”じゃが仕方がない。それにデンデンムシに直接載せるわけではないので、構わんだろ』
「了解……、通信終わるぞ」
『うむ。気をつけてまいれ』
アレックスの眼下には平原が広がりはじめた。ここで手綱をぐっと押し、スヴェンに降下の指示を出す。
左手で水晶板のゴーグルをかける。
風が強くなる。
(やはりこの”らいだーすじゃけっと”は凄いな、まったく風を通さない)
アレックスが着ているライダース・ジャケットは、コウタから譲り受けた……、いや勝ち取ったものだった。
あの日のことを思い出す。
コウタと初めて会った日……。
「器用なもんだな」
アレックスに声を掛けたのは見慣れぬ男だった。異国の服を着ている。
アレックスの目には、当初、最北の農耕民のように見えた。黒い髪、細い体躯……、しかしそれにしては肌が白い。
「何がだ?」アレックスは聞き返した。
「それだよ。その手」
アレックスの義手には葡萄酒の入ったグラスが握られていた。
パブの中は一瞬、ザワっとした妙な空気になる。カウンター越しにいる店主の頬を冷や汗がツーっとつたう。
「あんただろ? ”ロブスター”って?」
更に店内の空気が凍りつく。仕事を終えた農夫や、退役軍人がひしめくこの時間、誰一人として声を発さない異様な光景だった。
「だったらなんだ?」
「隣いいか?」
「他にも席はあいてるぞ」
「じゃあ、言い方を変えよう。あんたと話がしたい」
「俺には話すことはないが、そこに座りたきゃ好きにしろ」
その声を合図に再び店内が喧騒を取り戻す。
「おっちゃーん、俺、火酒ね。水割りで。あと魚の燻製ある?」男は店主に注文をする。
「相変わらず妙なモンを頼むなー」呆れたように店主は言った。
「俺の世界じゃ普通だぜ。あっ、あとこれこれ」男はバッグから何やら包みを取り出していった。「これを切り分けて燻製と一緒に並べてくれ」
「はいよ」
店主はグラスに火酒を注ぎ、水のボトルを男の前に置いた。
「んじゃ、どうかね? ロブスター。乾杯でも」
アレックスはなんだか面倒になり、素直に男のグラスに自分の杯を当てた。
「はいよ。チーズと魚の燻製」何故か店主はアレックスと男の間にその皿を置いた。
「なんだこれは?」思わずアレックスが聞いてしまったのは、その妙な取り合わせからは、想像していなかった食欲をそそる香がしたからだ。
燻製の独特の臭みと、チーズから放たれる乳臭さが中和しあい、塩気を感じさせる芳香が、口の奥に唾を溢れさせる。
「うまいぞ。食ってみるか? 俺が世話になってる農場で作ってるチーズなんだ。俺がいた世界でもこんな上等なもんは中々ない」
アレックスは男を真似して、燻製とチーズを重ね、それを口に運んだ。
「ああ……、美味いな……」
そして二人は妙に意気投合した。
しばらく飲み続け、夜も更けた頃だ。
「にしても、お前が着ているそれ。カッコイイな」アレックスが言った。
「おお! わかる? ライダース・ジャケットっていうんだぜ。こっちの世界にもセンスある奴がいるんだなー」
「おい。どうだ、一丁勝負して俺が勝ったらそいつを俺に譲るっていうのは?」
「何で勝負する?」
「お前が決めろ」
「じゃあ、これはどうだ?」男は腕に力こぶを作るしぐさをした。
「腕っ節か? そんなの、お前は一瞬でボロ布になるぜ」
「違う違う、腕相撲だよ。腕相撲」
「……よしきた!」
テーブルを一つ借り、その間で二人は睨み合う。
その周りでは様子を察した他の客達が歓声をあげはじめた。どうやら賭けまではじまっているようだ。
男が先に肘をテーブルに乗せた。それを見た酔っ払い達はまたしても凍りついた。
静寂。
それは、男が差し出したのが、
右腕だったからだ。
しかし、アレックスは「ふっ」と、笑った。
実は、アレックスは嬉しかったのだ。心の底から嬉しかった。
今日会ったばかりのこの男は、いい友人になる。そう感じた、
アレックスは義手を差し出す。男がその義手をしっかりと握った。
観客が沸く。
アレックスの目がギラリと光る。
「”ロブスター”の爪をなめるなよ!」
誰もがアレックスの信じられないセリフを聞いた。彼は初めて、自分を”ロブスター”と名乗ったのだ。
「レディー!」店主がグラスを高く掲げる。
勝負の合図、グラスが砕け散る音を聞きながら、”ヒトの縁”とは不思議なものだなぁと、店主は思った。