4.ジャンネ・クローウェルのまどろみ
ジャンネ・クローウェルの朝は早い。
彼女の職場、<ユニコ・メッセンジャー・ワークス>。その同僚達の誰よりも早く出社する。
まず、彼女がすることは、自分専用の机に麻で作った布と馬の油で磨きをかけることだ。そして、オーク材に充分に油が馴染んだところで、両手をかざす。
「……」誰の耳にも聞こえない小さな呟きは彼女が最も得意とする呪文。”シキガミ”の召喚魔法だ。
すると、黒々と磨き上げられたオーク材の机の表面に光輝く魔方陣があらわれる。
そして、そこに”スザク”の羽を一本一本丁寧に並べていく。
「三十九……。またお得意様が増えたか……。こりゃあ、ワラワ一人ではおっ着かなくなるのは、時間の問題じゃな」ジャンネは一人愚痴った。
次に、クローウェルが取り掛かったのは、”ライダー”達にそれぞれ持たせる、”ヨリシロ”である”スザク”の羽の点検だ。
「……やっぱりコウタのが消耗が早いな……」
牛の皮で作られたコウタのヘッドバンドから古い”ヨリシロ”を外す。
そして、クローウェルは自分のバッグから新しい”スザク”の羽を取り出す。
「……」
片手を羽にかざしながら、またも小さな声で呪文をかける。
そうして完成した”ヨリシロ”を、コウタのヘッドバンドに丁寧に、そしてしっかりと縫いつけ、結ぶ。
ただでさえ華奢な”ヨリシロ”、風を受け疾走する同僚たちが身につけるもの、特にコウタの速さといったら、受ける風は尋常ではない。
こうした朝の日課はジャンネのルーティーン・ワークだった。
この神経質ともいえる丁寧な仕事ぶりは、もちろんジャンネ元来の性格によるとこも大きい。
しかし、経験からジャンネは知っている。この作業の一つでも欠かせば、今日一日の仕事の”精度”に、大きな差が出るのだ。
ジャンネの仕事は”ディスパッチャー”という、らしい……。この<ユニコ・メッセンジャー・ワークス>を立ち上げたコウタがそう言っていたことだ。
”ディスパッチャー”は、お得意様に配られている”ヨリシロ”から受注を受ける。そして、誰が荷受して、誰が届け(デリバリー)ればいいかを、その最速を考える仕事だ。
街中から街中へならピックとデリバリーは同一のライダーで済ませられるのだが、城下町は一般人の翼竜の飛行は禁止されている故、最速となると陸上獣から翼竜への”パス”が必要となる。そのドッキングのタイミングを計るとなると、恐ろしいほどの頭脳労働になる。
一息つくとジャンネは、テーブルの上の日時計を見た。
(きゃつらが来るにはまだ時間があるのう)
そう思い、ジャンネが向かったのはキッチンだった。
温かい羊の乳でも飲もうか。そのつもりで保冷庫を開けた。
紙が目に入った。
『ジャンネへ。ご苦労様です。朝ごはん作っておいたので食べて下さい。もし、もうすでに食べていたのなら昼ごはんにでもして下さい。byコウタ』
「あいかわらず、細かい奴じゃの」
取り出してみると、それは木の皿に盛り付けられた”サンドイッチ”(コウタはそう呼んでいる)というものだった。
一つは昨晩のナポリタンが挟まっている。
もう一つは、厚めの干し肉が挟まっている。
黒パンを輪切りにし、外側の硬い所は取り除いてあるようだ。
見れば、”コンロ”にはいつでも火を起せるように薪がくべられている。
すぐに羊の乳が暖められるようにの配慮だろう。
ジャンネは火を起こし、クレアが副業として育てている羊の乳を温めた。
湯気が立つカップと、コウタ特製のサンドイッチを手に、自分の机に戻る頃、窓から見える東の山並みは朝焼けに燃え始めていた。
その光は机の上に煌々と輝く魔方陣よりも美しいと、ジャンネは思った。
椅子に座り、温々の羊の乳を、唇を火傷しないように慎重にすすった。
「っあああー! たまらん!」
思わず声が出た。
今の彼女にとって、もっとも至福の時間であった。
「なんて、楽しい日々であろうか……」
もう一度居眠りでもしてしまおうか、いや。居眠りをするには惜しい! こんなに幸せな気分なのに。そんな暢気な葛藤をする度に思い出される、この三年間の日々。
そう。すべてはここから始まった。
この小屋の中だった。
コウタと、クレアに初めて出会ったのは……。
そう考えながら、不覚にもジャンネはまどろみに身を任せてしまった。
コウタの前にいるのは。目つきの悪い女の子。
ジャンネ・クローウェルだった。
「我が名を知らぬと申すか? 我こそはジャンネ・クローウェルであるぞ!」
「ああ、はいはい。知ってるよ。クローウェル家といえば。軍需景気でぼろ儲けして、未だにその遺産を食い潰しながら貴族ヅラしている、似非貴族様だろ?」コウタはやる気なく言った。
「ちょっと! コウタ……」クレアがあわてる。
ジャンネは真っ赤な顔をし、怒りに震えている。
「だって本当のことだろ? 皆言ってるぜ、正直、貴族様だから気を使っているけど、そろそろ何でこんなにヘコヘコしなきゃわからなくなってきた。って」
この頃、コウタは”この世界”のことを充分に理解した時期だった。
しかし、自分の元いた世界との常識と、この世界の良識とは合致しない。歯に衣着せぬ言動で、人々からは天と地ほどの賛否両論を巻き起こす。話題の人物でもあった。
特に、城下で最も大きな商家の跡継ぎ息子が、しつこく、ウィットに富んだ口説き文句でクレアに迫っていたのを、更にウィットに富んだ言葉でもってコウタが追い返したことは、”カワラバン”の隅にちょっとしたゴシップとして載ったほどだ。
「噂どおりじゃの。お主……、まあ、いい。悔しいが認める……。そのクローウェル家の次女である私がこうして、平民のようなお主らに職をくれと、こうして請うておるのじゃからな」
「不採用!」コウタがあっけなく言い放つ。
ドン! 「なぜじゃ?」ジャンネが長机を叩きながら言った。
「偉そうだから」
「念通力のある魔術師、求む。そう言ったのはお主達であろう?!」
そう。ここは<ユニコ・メッセンジャー・ワークス>の”ジムショ”、そして、今行われているのは”メンセツ”だった。
「そうだが。それはさほど重要視しない。重視するのは人柄だ。ここで働く人間達と上手くやっていけるかが重要だ」
「確かにそうだ! ワラワは人間ではない!! 貴様だってこの世界の人間ではないくせに!!」
ドン!!
コウタは机を殴りつけた。
その様子に、ジャンネもクレアも恐れおののいた。
「おい。ハーフブリード。自分の不幸をひけらかすのはやめろ」
ジャンネは凍りついた。
やはり平民であろうとも、皆知っているのだな。
自分がハーフブリードであることを。
父と、その妾である魔族の女との間に生まれた子。それが、ジャンネだった。
そのため、一族の中でも厄介者として扱われてきた。
もちろん友達などいなかった。
なので、ジャンネは書庫に眠る魔術書を読み解き、どこか遠くにいる、自分と似たような誰かを探す術として、一人魔術の修練を積んだ。
自分と似たような、孤独を分け合える友を探すためだった。
「甘ったれるな」コウタは言った。「俺のいた世界にはな、もっと厳しい民族闘争や、人種差別があったんだ。それでもそれぞれの人種が、人種の壁を越えて、その文化を尊重しあえる世の中にまでなりつつあるんだ! きっと、それまでに多くの血が流れたのだと思う。つまり戦い続けた奴らがいるんだ。お前だってこの世界で戦えよ!」
「だったらここで戦わせてくれよ!」ジャンネは、自分が叫んだ言葉とは思えない言葉を叫んだ。
気づけば自分が座っていた椅子は後方で倒れている。きっと、思わず立ち上がったとき弾き飛ばしたのだろう。
ふう。というコウタの息を聞いた。
「わかった。お前の能力を見せてくれ。ジャンネ……」やさしい声だった。
「ジャンネ」
「ジャンネ、そろそろ起きなきゃ」やさしい声。ああ、コウタが呼んでいる。
はっ、とジャンネは目を開けた。
朝日は随分高い位置にあった。
肩には暖かな手。コウタの手が乗っている。
「おはよう……ございます。コウタ……」
おはようございます。一緒に働く者には朝はまずその言葉を言う、初めて会った日、コウタにそう教えられた。
「ああ、おはよう……。ミルク、暖め直してきてやるよ」
「かたじけない……、は!」
寝ぼけた眼で見ると、机に突っ伏してうたた寝したせいで、魔方陣にはジャンネのよだれが滴っていた。
あわてて、ジャンネは袖でそれを拭いた。
少し、羊の乳の匂いがした。