32.forget-me-(not) blue
月日は無情な速度を持って過ぎてゆく。
それは、いとも簡単にヒトの記憶を風化させてゆく。その頼りなさに悲しくなるのは、空を見上げる頻度が増えたジャンネだけではないようだ。
空に還った少女の顔や姿、声が、記憶の中で日々段々と曖昧になってゆく。
もしかしたら、これも”虚無”の仕業なのかと勘ぐりたくはなるが、きっとそうではない。
記憶とは、本来これほどまでに儚いものなのだ。
僅かな記憶を残して過ぎてゆく日々の中。
ジャンネは大切な友人と出会い、そして失った。
これほどまでに自分の非力さを思い知ったことがあっただろうか?
ジャンネは、悔しさ、悲しさ、そして怒り。その負の感情を込めて、時々空を見上げる。
しかし、この空は、そんなこともお構いなしに、気まぐれな表情を見せるだけだ。
ある時は、清々しく晴れ渡り。ある時は、不機嫌そうに重い雲を纏い。ある時は、罪を責めるような激しく打ちつける雨を降らす。
それでも空は、すべての罪を許すように、また晴れ渡る。
幾億年と繰り返されてきた、自然の摂理はありとあらゆる罪や業を洗い流すためにある崇高なシステムなのかもしれない。
ある夜、ジャンネは星空を見上げていた。
”ヨリシロ”を取り出す。
そして、届くとも思えない通念を、空に繋ぐ。
「クラウディア。ワラワは元気だぞ。みんな変わらずやっておる。ただ、お主のことだけが気がかりじゃ。寂しくはないか? 辛くはないか? そこはどんな場所なのじゃ? お主は、本当に大丈夫か?」
そう問いかけながら、ジャンネは涙を流した。
ジャンネは気づいていない。
小屋の中から、コウタが葡萄酒の瓶を抱えながら、黙ってその様子を伺っていることに。
「……ワラワは、どうしたって悲しいぞ。突然友人がいなくなったのじゃ。無理はなかろう……」
自分で言った言葉に、ジャンネはハッとなった。
そう。コウタのことだ。
コウタだってある日、突然にこの世界に転移したのだ。
コウタの家族や友人はこんな気持ちでいるのではないか? もしかしたら恋人もいたかもしれない。コウタからそのような話は聞いたことはないが……。
ジャンネは、その気持ちを抑えきれず。通念をもっと増大させた、自分の魔力では限界があるのはわかりきっている。しかし、どうしてもそうしたかった。
コウタのいた、”神なき世界”に届け! と、そう願いながら。
「コウタ殿のご家族よ。コウタは元気でやっておるぞ。よい縁、よい仲間に恵まれておる。……すまないが、コウタ殿をもう少しお借りしたい。……ワラワ達には、コウタ殿が必要なのじゃ」
小屋の中、息を潜めるコウタにも、その声は聞こえてしまった。
コウタは考えた。
なぜ、自分はここにいるのだろう? と。
考えないようにしていた……。そう、それがコウタの正直な気持ちだった。
しかし、コウタはこの世界に来てから幸せだった。
信じられないくらいに、充実した日々だった。
だから、元の世界に残された、家族や友人のことを考えないようにしていた。
(なんてひどい奴だろう)と、はじめて思った。
ジャンネは、そんなことも知らずに、願っていた。
去ってゆく者、残される者。この世には大いなる摂理を前に、その二種類しか存在しない。
人々は出会い別れを繰り返し、自らの生の終焉の先にある無へと向かうのだ。それでは、まるで、すべてに意味はないようではないか……。
だとしても、そのすべての者に幸あれと……。
止まない雨がないように。終わらない悲しみなどない。
永遠のただなかで、有限の生を与えられた我々は些末な感情に振り回され、それでも歩み続けるしか、正しさを知らない悲しい宿命なのだ。
”あなたをわすれない”
”わたしをわすれないで”
その、あまりに無意味な祈りと約束は、またあまりに頼りない記憶の中。
人間も、魔族も、エルフも、モンスターも、そして神も……。すべての生命がこの地上から滅んだとしたら、その後に何が残るというのか。
そう、きっと何も残らないのだろう。
何もない世界、虚無な世界に”虚無”が吹き荒れ、それでも何もないのだろう。
気の遠くなるような世界の果てを想像しながら、ジャンネは涙を拭った。
コウタは意を決して声をかけることにした。
こんな何もない夜は、飲むに限るだろうと……。
◇
窓の外の若葉について
考えていいですか
そのむこうの青空について考えても?
永遠と虚無について考えていいですか
あなたが死にかけているときに
あなたが死にかけているときに
あなたについて考えないでいいですか
あなたから遠く遠くはなれて
生きている恋人のことを考えても?
それがあなたを考えることにつながる
とそう信じてもいいですか
それほど強くなっていいですか
あなたのおかげで
『これが私の優しさです』
詩:谷川俊太郎
◇
闇――。
どれくらいの時間をこうしているのだろう。
いや、時間という概念を忘れて久しい。
身体も、記憶も無くした。かつて、クラウディアと呼ばれていたその魂。
しかし、どこか懐かしい気配に満たされている。
生まれ出る前の、生命の根源的な記憶。
全ての魂が一つになり、この星をまんべんなく包み込む。
そう、雲のように――。
久々に、クラウディアと呼ばれていた魂は欲求を持つ。
窮屈で不自由な生命として、生まれ落ちたいと……。
その欲求に名前を付けるなら、
人間の概念で表すなら、とても陳腐で、それでいて瑣末なモノ。
それは、”愛”。
光を見た。
とても明るい光だ。
そこへ向かおう。それは、意志。
その意志が、また奇妙な縁を結ぶこととなる。
その事実に、誰も気づくことはない。
その天文学的確率に名前を付けるとしたら、
それは”奇跡”。
奇跡の名のもとに、また命は巡ろうとしていた……。