21.異世界での日常 Part Ⅲ~異世界の地図~
帝都から北側に少し外れた町に、版画師の青年アントンは住んでいた。
彼は貴族の出身でありながら、家督を弟に譲り、芸術の道を選んだ、傍目には変わり者であることは間違いない。
彼が得意とするのは宗教画だった。
”魔王の降臨”、”神々の盟約”、”調停の女神”。そういった聖戦時代の宗教的モチーフを扱う、言ってしまえば、”売れない作家”だった。
今日、コウタはその彼の元に向かっていた。
彼には、”ある仕事”を頼んでいたのだ。
彼とコウタが出会ったのは、遡ること一年前。
城下の行商通りに、自分の刷った版画絵を売りに来ていたアントンの、その作品の緻密さにコウタは驚き。あることを思いついたのだ。
質素な小屋、彼が寝泊まりをする工房のドアはいつも開け放たれている。
聞くところによると、微細な大鋸屑や防腐剤に使う脂の臭いは肺に悪いとのことで、寒い時期でもこうして風通しを良くしておく必要があるらしい。
「おじゃましますよ」コウタは戸口から声をかける。
アントンは作業の手を止め、コウタを見る。
「やあ。コウタ、景気はどうだい?」
「まあまあ、だな」
「羨ましいよ……、こっちは彫っても彫っても、溜まるのは金じゃなく大鋸屑だけだ」彼は彫刻刀を置きながら言った。
「芸術家ってのは、理解されるまでが大変らしいからな……」コウタは苦笑いしながら言った。
「豆茶をいれよう。コウタは、よく炒ったやつが好きだったよな?」
よく炒った豆の茶とは、コウタの世界でいうところの、コーヒーそのものだった。
帝国の一部の貴族だけが嗜むその飲み物を発見できたことは、カフェイン中毒を自覚するコウタにとって大いなる救いとなったことは言うまでもない。
「おかまいなく」
「いや、かまうさ。何てったって、コウタが今のところの一番のお客だからな」
「ありがとう」
「こっちの方はどうだ?」アントンは自作の木箱から紙巻き煙草を取り出して言った。
「おう。また作ってくれたのか? ありがたい」
こちらの世界でも煙草はあるにはあった。しかし、それは煙草葉をパイプに詰めて吸うもので、紙巻きのものは存在しなかった。
そこでコウタの数少ない”ヤニ友”であるアントンは、自分でも異世界の煙草が再現できないか? と試してみてくれていたのだ。
「これまた良くできてるなあ」コウタは、ふーっと煙を吐きながら言った。
「それはよかった。難しいのは、”フィルター”ってやつだ。最初は羊の毛を使ったんだが、目は粗いし、何よりも香りがよくない。そこでエルフの産毛を使った。ちょっと割高にはなるが、これで満足のいくものができた」
「いやー。充分だよ。俺のいた世界でも、煙草はわりかし高級品だったぜ」
「そうか。俺も最近はもっぱらコレだ。長く落ち着いて楽しむことができるし、持ち運びも楽だ」
「俺の馴染みのパブの店主が卸して欲しいそうだぞ。店で売るんだそうだ。アントンも、行商では絵と一緒にコレも売ったらどうだ?」
「まったく。俺を何屋だと思ってるんだ?」アントンはちょっと不機嫌そうに言った。
「へへ……、では、その本業の方の話をしますか?」
「そうだな」
アントンは立ち上がり、壁の棚にずらりと立て並べられた版画の原版を一枚取り出す。
「これが依頼の品だ」
「……こりゃ、また……、すげー!」
「だろ?」アントンは得意げに言った。
それは、帝都の地図だった。
城を中心に放射状に延びる幹線道。商家や軍施設の隙間を埋める路地。まさにそれは走り慣れた帝都の地図。
そう、コウタは”地図の版画化”を依頼していた。
この帝都には正確な地図が存在しない。
あるのは行商人達それぞれが独自に持っているものと、それらを買い集め足りない部分を自分で走り描いた、コウタの地図だ。
問題なのは印刷する技術がこの世界にはないこと。そこで、コウタはアントンの繊細な彫り師としての技術に目を付けた。
しかし、紙の平面のそれと違い、こうして凹凸を彫った原盤で見てみると、街がより立体的な造形に感じる。
左右反転こそしているが、じっと見ていると、そこに行き交う人々まで見えてきそうな、街そのものに躍動感があった。
「本当にすげー。なんていうか……、俺は芸術とかよくわからないが……、そうだな。あえて言うと。今にも動き出しそうだ」
言ってみてよくわからない感想だな、とコウタは恥ずかしくなったが、アントンは違った。
「ふっ、最高の誉め言葉だ! ありがとう」
「そうなのか?」
「ああ。俺が目指したのはまさにそれだよ。コウタから渡された地図では、俺は何も見えてこなかった」
「悪ぃな! 絵が下手で!」
「いや、充分役にはたった。それを元に俺は実際にこの街を歩いてみたんだ」
「この道、全部をか?!」
「そう。だから一年も待たせてしまった。毎日毎日歩き回ったおかげで、七日で靴がダメになった。手付け金は充分に貰っていたから、それはいいんだが。足の裏には血豆がいくつもできた。皮が剥けて、血が滲んだこともある。しかし、おかげで見えてきたこともある」
「見えてきた?」
「そうだ。それは、街は動いているということだ。もちろん、街そのものが動いているわけではない。その道を行き交う人々がいる、その街に暮らす人々がいる、朝と夕で人通りが変わる道もある。石畳もあれば、砂の道もある。荷車を引く行商人は砂地を嫌う、馬に乗る者は石畳を嫌う。つまり、俺が見えてきたものは、この街に暮らす人々の生活だ」
「なるほど。地図ごときでも、天才が書くと、こうも違うんだなあ」
「ふっ、俺は天才じゃない……」否定をしておいて、アントンはまんざらでもなさそうだ。「だが、俺の作品作りに対する視点を変える、いいきっかけになった。宗教的なモチーフも悪くないが、俺はしっかりと俺自身の目で見たことの方が、より力強く見るものに迫る作品になることに気がついた。ずいぶん遠回りをしてしまった。だから、礼を言いたい」
アントンは握手を求めた。
「なーに。お前だったらすぐに売れっ子作家になれるって」
コウタはしっかりとその手を握った。
灰皿に忘れられた二本の紙巻き煙草は、フィルターまで焼けはじめていた。
”ジリリリリリンっ”
”ジリリリリリンっ”
”ヨリシロ”が鳴る。
「はい。こちら<ユニコ・メッセンジャー・ワークス>じゃ!」それに答えたのは、もちろん”ディスパッチャー”のジャンネ・クローウェルだ。
『おはよう、魔術師。俺だ、売れない版画作家だよ』
「ああ、アントン殿か? 世話になっておるの」
『いや、こちらこそ』
「はて? お主のところに”ヨリシロ”を配った覚えはないが? ……ああ、そうか! ディーン商会の”ヨリシロ”か」
それは城下にある、青物問屋からだった。そこは<ユニコ・メッセンジャー・ワークス>に”個人”のお客を斡旋している、つまり”ギョウムテイケイ”を結ぶ間柄だ。
『そういうこと! ……実は仕事を頼みたい。割と急ぎなんだ』
「なるほど、ではコウタを向かわせよう。運よくその近くにおるわ。では、自分の指を数えておれ、足の指に移るまでにコウタが到着する」
会話が終わり、まさか? と思いながら、試しに自分の指を数えだした。
ちょうど左手の薬指を折ったと同時に、コウタと赤毛のユニコーンがあらわれた。
「おいおい。どういう仕組みだ?」アントンは驚いた。
「何がだ?」コウタが聞く。
「本当に十数えるうちに来た……」
「ああ。それはな、経験だよ。ジャンネは走りこそしないが、地図はすべて頭の中に入っている。誰がどれくらいで目的地に着けるかはだいたいわかるんだよ」
「すげーな!」アントンは魔術師の少女を思い浮かべた。
「それはそうと、依頼なんだろ?」
「ああ、そうだった! 実はこれを西方湾に届けて欲しい。急ぎだ。午後一番の船便に載せて欲しいんだ」
「何! 午後一だと?! そりゃ超特急便だぞ!」
見上げれば日はすでに随分と高い位置にある。
「お願いだ。隣国の品評会に出展する作品なんだ! それに載せなきゃ受付に間に合わない……」
「なんでこんなギリギリに……」
「ついさっきまで手直ししてたんだよ! この三日徹夜してなっ!」
「わかったよ。それじゃ、銀貨で八枚だ」
「え? そんなにするのか……」
「超特急便だし、船便の代金もかかるだろ?」
「あ! そうだ……、くそ! 俺ってなんてバカなんだ! 船代を忘れるなんて!」
諦めてしまったのだろうか、アントンは意気消沈した。
その様子を見てさすがにコウタもいたたまれなくなった。
「わーかったよ! 貸してやるよ。”ヤニ友”のよしみだ」
「すまん! コウタ! 本当に、本当に恩に着る!」
コウタは早速、その竹筒に丁寧に収められた作品を奪うように受け取ると、赤毛のユニコーン”じゅんぺい”に跨り駆け出す。
「間に合うよな?!」
その背中に、アントンは問う。
「ったりめーだー!」
コウタは右手の親指を立てた。
「ジャンネ! 超特急便だ! 料金は出世払いのな!」
『あ奴は出世するかのぅ……』
「ふっ、してもらわないとな。無駄走りになっちまう」
コウタは信じていた。いや、願っていた。彼の作品の、最初のファンとして、彼には大成して欲しかった。
もし、すぐにそれは適わなくても、彼にはあの地図の原版があるのだ。あれほど手の込んだ原版は、きっと帝都では他に作れるものはいない。
出版物に対する版権というものが、この帝都ではどうなっているのか、コウタにはわからないが。もし法整備が進んでいないのなら、皇室に進言しよう、とそう決めていた。
その後、隣国で開催された品評会の会場では、一枚の版画絵が、人々の話題をかっ攫った。
その緻密で、細やかな色彩に富んだ版画絵はまるで、そこには窓があり、その窓が帝都の城下街に通じているように見えたという。
そこに描かれていたもの。それは、
石畳の行商人が行きかう通りを背景に、一人の男が紙巻煙草を燻らせている。
男の傍らには赤毛のユニコーンがいる、
不思議なことに、観る者すべてが、何故か男がこの後とったであろう行動までも、感じ取ることができてしまったのだ。
男は、煙草を消す。
そして、相棒のユニコーンに飛び乗る、
そして、行商人達の間をすり抜け、
風のように去っていった。