10.クレア・バランタインの休息
東の平原には山から吹き降ろす乾いた風が吹く。
先の大戦から既に百二十年が経過してなお、ここには多くの戦いの痕跡が残されている。
焼け落ちた砦、錆て朽ち果てそうな剣、魔族やモンスターの遺骸。
戦災復興から帝国の繁栄の象徴と言われるほどとなった城下の近くにありながら、荒涼とした平原には何者をも拒むある種の”呪い”がかけられていると噂する者もいる。
三日三晩の冷たい雨が止み、久方ぶりにしゃきっと皺をのばしたような太陽が顔を覗かせた、そんなある日。
その呪われた土地をゆく、一人の少女の姿があった。
彼女の名は、クレア・バランタイン。相棒の白馬、トリニティに跨り、山の麓を目指していた。
その東の平原の先にある山岳地帯は澄んだ湧き水と、肥沃な土壌がありながら、岩場が多く、住む者は少ない。しかし、その場所に好んで住み着く酔狂な者も稀にいる。わけあって世を捨てた者、人間嫌いの変わり者、そういった類の人間だ。
クレアがこの日訪ねようとしているのも、そんな世捨て人の一人、リッチーと名乗る老人が住む小屋だった。
老人は一人、小さな小屋で山羊を放牧しながらひっそりと暮らしている。
クレアはしばしばこの老人を訪ねる。老人が山で取った薬草を分けてもらう為であったが、寂しそうな老人の姿に今は亡き父の面影を重ねていたことも否めない。そして、もう一つの理由がある……。
小屋からは薪を焚く煙が立ち上っていた。どうやら留守ではないようだ。
クレアは戸口に立ち、ぶら下がっているカウベルをコンコンと叩いた。
「あいてるよ」
鍵など付いてはいない。にも関わらず老人の乾いた声が戸板の向こうからそう告げる。
「お邪魔します」
クレアはまずはヒョコンと顔だけを覗かせ挨拶する。
「今日あたり来るんじゃないかと思ってたよ」
「あら。予想が外れたことはありませんの?」
クレアは小屋に入った。
「二日にいっぺんは外してるよ。『ああ、今日はこなかったかぁ』という時なぞは、存外心細い思いをしてるんだよ……。歳をとったものだ」
「すみません。色々と忙しいもので」
「忙しいのはいいことだよ。こんな生活をしているとつくずく思う」
「でも、暇そうには見えませんけど」
クレアはチラリとテーブルの上を見た。そこには付箋がいくつも挟まれた専門書や、何種類もの薬草、調合に使う秤などが乱雑に置かれていた。
「まあ……ね。さあ、適当にくつろいでくれ。お茶を淹れよう」
クレアはここに来る度、こうして老人と他愛のない世間話に花を咲かす。お茶を飲み、昼が過ぎる頃まで過ごすこともあれば、昼食をご馳走になることもあった。
「あの雨にはまいったねぇ。おかげで油花を干し直さなくちゃならない」老人は湯を茶の葉で濾しながら言った。
「まあ、油を作ってらっしゃるのですか?」
「うむ。この山を越えてくる行商人に唆されてな。新鮮な油は城下でよく売れるらしい……。それで自分でも作れないかと、な」
「できたら私にも売っては貰えませんか?」
「まだ納得できるものができるかはわからん。それに、お嬢さんになら売らずとも分けてあげるよ」
「楽しみですね」
老人はクレアにお茶を差し出した。
この小屋には似つかわしくない、凝った細工が施された磁器のカップだった。
薄茶色の液体に薄紅色の花弁が一枚浮かんでいる。
湯気からは鼻の奥をくすぐったくさせるような、甘酸っぱい匂いがした。
「まあ! いい匂い」
「新作だよ。気持ちを落ち着けてくれる。そういう香りがする。眠れぬ夜などは酒よりもこっちの方が効く」
眠れぬ夜があるのですか? そう聞こうとして、やはりクレアは思いとどまった。
「これ、少しでよいので分けて頂けませんか?」
「そう言うと思って、包んでおいたよ……。少々ではあるが、ご家族とでも飲んでみてくれ」
「……私に家族は……」いい淀み、少し考える。浮かんできた共に働く仲間達の顔。「……そうですね! うちの”家族”にも飲ませてあげたいんで」
老人はその目を見つめ、何も口にするべきではないと悟った。
すると、その時、小屋の外で馬車の車輪が砂利を踏む音が聞こえてきた。
「やれやれ。本当に気が合うようだね。まさか示し合わせて来ているわけではないのかね?」
「いいえ。でも……、今日あたり会えるんじゃないかとは思っていました」
老人は席を立ち、戸に向かう。
コンコン、カウベルを叩く音がする。
老人が戸を開けると、若い娘が立っていた。
「こんにちは、お父様」
「やあ、変わりはないね」
「ええ。このとおり」
その娘は、小屋の外にいる者に「ではごめんなさい。少々お待ちになって」と声をかけ、小屋に入ってきた。
「こんにちは」クレアは声をかける。
「こんにちは。クレアさん」
「”さん”はいらない。って言ってるでしょ。せめて”ちゃん”付けで呼んでね」
娘は農家の娘のようなゴワゴワとした安っぽい生地のブラウスを着ているが、彼女自身が放つ気品の良さが、その召し物を嘘っぽく見せてしまっている。
老人の娘とクレアは何度かこの小屋で顔を合わせるうち、歳も近いこともあって自然と友人になった。
「クレア……ちゃん」娘は照れながらそう言った。
「よろしい!」
老人は目を細めそのやりとりを見ていた。まるで娘が一人増えたようだ。いつもそう思うが口にはしない。
そして、いつものように穏やかな三人の時間がはじまる。
「農場の仕事はどう?」娘が聞く。
「競売が終わったから。しばらくは暇かな。でも副業の方がどんどん忙しくなってきちゃって。お客さんがいつ間にか増えていくの」クレアが答える。
「ふむ。城下もその周辺も、どんどん人が増えているようじゃからな」老人が言う。
「いいことですわ。人が増えれば仕事も増える。多くの民が貧困から救われるわけですから」
「でもねー。”貧乏暇なし”って言葉もあるわよ。いくら働いてもお金なんてすぐに右から左に流れていっちゃうんだから」
「それが”ケイザイ”が回っている証拠じゃよ」
「お父様、自分の言葉のように語っていますけれど、それは”受け売り”でしょう?」
「そうじゃったかのう。どうも歳をとると、物忘れがのう……」
「都合いいんだから」二人同時に言った。
そして、三人とも笑ってしまう。
こうして三人が揃う日は、クレアはついつい長居をしてしまう。
日が傾く前に帰り、農場の馬や羊に餌をやらなければならないのだが。
ひとしきりお喋りを楽しむと、二人は一緒に小屋を出た。
外に出ることなく、二人を見送る老人に、馬車で待っていた娘の従者が慌てたように敬礼をした。
老人はその鋭い眼光を一瞬向けただけで、戸を閉めた。
「じゃあね、クレアちゃん。また……。今日は楽しかったわ」
「私も楽しかったわ」
「皆さんはお変わらず、お元気かしら?」
「あいかわらず。騒がしいだけが取り柄の連中よ」
「また皆さんにお会いしたいわ」
そう言うクセ、娘が本当に会いたいのはその中の一人だけだろう。クレアはなんとなく気づいていた。
「なんなら今度は農場に遊びにおいでよ。歓迎するわ」
「そうねぇ。そのうち……ね」
娘もクレアよりもずっと忙しい身である。それはクレアも知っている。
「”そのうち”でいいからさ」
「ありがと……。次はいつ会えるかしらね」
どちらに? クレアは、”つい”そんなことをは思ってしまった。
「いつもそんなこと言って。またすぐに会えるわよ」
「そうね。実は私、今日はなんだかクレアちゃんに会える気がしてたの」
私も! そう言うべきであったが、友人であり、”ある種のライバル”とも言えるこの相手にクレアはその言葉をかけなかった。ちょっとした意地悪。かわりに、
「お父様も同じこと言ってたわ。やっぱり親子ね!」
それを聞いた娘はただ嬉しそうな表情になった。
クレアは失敗をしてしまったようだ。自業自得ではあるが自分が口にした”親子”という言葉にクレアの胸が微かに痛んだ。
「おうじょ……、お嬢様、そろそろ」従者が声をかける。
「さよならクレア。またね……」
「うん。またね! メアリー」
荒涼とした大地をクレアは進む。
相棒の白馬はゆっくりゆっくりとその足を進める。
「私たちも家族だよねー。トリニティ」クレアは相棒にそう声をかけてみた。が、白馬はひたむきに進むべき方向を見るだけだった。
こんな日は、満たされた気持ちに背を押され、何かが欠けた心に足を取られながら、クレアは農場に帰る。
それでも、明日を思えば”家族”のような同僚達に会える喜びがあり、また訪れるであろう老人の小屋を思えば、”親子”の一員になれたような幸せを感じる時間がある。言ってしまえば、すべてはまがい物かもしれない。偽物にすがる弱い自分を正当化しているだけかもしれない。
にも関わらず、骸が散らばる平原に留まる気もないし、振り返る気にもなれない。
クレアは知っている。
誰もが、宿命に惑わされ、運命と折り合いをつけながら。それでも”希望”という道標を信じ、人生という果てない荒野を進んでいるのだということを。
乾いた風が、白馬にくくりつけた麻袋から甘酸っぱい匂いを巻き上げた。
茶葉を分けてくれた父親のような老人がいる。それを飲んで『美味しい』と言ってくれるであろう”家族”のような同僚達がいる。同じ”あの人”を好きになってしまった姉妹のような親友がいる。
その事実だけが、クレアにとっての揺るぎない道標だった。