ホエ
……どれぐらいたったのだろうか、ずいぶん長い時間地面にへばりついていたきがするが、実はとても短かったのかもしれない。揺れがおさまったのを確認して、僕はゆっくりと立ち上がる。数メートル離れたところにはルースが僕と同じように地面に倒れていた。まわりはまだこれが現実だというのをつきつけるかのように、何か異様な雰囲気が漂っていた。空には紫色を含んだような雲が漂っている。
「おい、ルース、起きろよ」
とりあえず、村の中心部に戻らなきゃ。一向に放心して立ちあがろうとしない友人に声をかける。
「なんなんだい……さっきの」
「何だと言われても僕にもさっぱりだよ。とにかくいまは広場に戻ろう、きっと皆もそうしているはずだから」
蒼い顔をしながらルースは頷き、ぼくの後ろをついてきた。
先ほど僕たちがのんびりと冷やかしていたお店のあたりはせっかくの料理たちが投げ出されている。お店の人やほかの国から来た人たちはすでにどこかへ逃げてしまった。
僕たちは急いで村の広場へと向かった。
少し驚いたけど、このくらいであれば祭りも続くだろう。そう思っていた。
そうだったら、どれだけ良かったことか。
「ちょ、ちょっと! えっ、なんだよあれ!」
ルースが隣でこの世のものではないものを見たような、そんな声をあげた。実際、僕たちの村に、この世のものではないものがいた。
「あんなのおとぎ話の中の……ホエみたいじゃないか……!」
昨日の朝、ちょうど母さんに脅されたばかりの、おとぎ話の中の悪者みたいなやつが目の前にいた。みたい、どころではない、ホエそのものだった。
ぎょろりとした大きな赤い二つの目玉、何でできているかも分からないスライムのようなずんぐりした小さな山くらいはある巨体。そういや、おとぎ話の中じゃあいつ、全部食べちゃうんだっけなあ、なんて。
「早く行かないと! あっちは俺たちの家がある方向だろ、まだみんないるはずじゃないか!」
足をもたかせつつも僕たちは一刻も早く、と広場へ向かった。
足を進ませるほどホエに近づいていく、どんどんと迫ってくる巨体は、日常が壊れて行くのをはっきりと実感させた。
やっと広場の入り口について、急いで祭りの本部があった中央へと向かう。村のみんなは個々に自分たちの家族を捜し、家に入れ、とパニック状態だった。他地方からきている旅行者たちは近くの店などに入り少しでもホエから隠れようとしている。先程までテーブルの上に置かれていたあたたかな料理たちも、今は皿から放り出され地面に混ざり合って落ちていた。
僕の母さんはどこだ?
何かあったら、とりあえず広場で集合。僕と母さんの約束だった。
人ごみのなかから母さんの姿を探そうとするが、人の壁は僕の行く手を阻んだ。
「ライル! 僕の家は大丈夫、ライルのおばさんは? 一緒に隠れよう」
「まだだ、母さんがいないんだ……!」
否が応でもあせってしまう。でもどこを探せば。
「落ち着いて、ライル! 焦ったら余計にまわりが見えなくなってしまうよ!」
ルースがパニックになっている僕の腕を掴んでとどまらせようとした、その時、僕の中で何か感じた。
「母さん……ホエの見える方だ……!」
制するルースの腕をふりほどき、僕はほかに目もくれず、ホエの方へと走り出した。ホエのいる方角には急な坂道が続いていて、そのまま走って行こうとすると人混みのせいもあって数メートルもたたないうちに足が動かなくなる。今まで引きこもっていた罰だと感じた。それでも一秒でも早く母さんの所にたどりつけるように僕は進んで行く。
「こっちにおばさんがいるんだね?」
いつの間にかルースが追いついていた、彼は運動が好きでよく動いているからなのか、全く疲れている様子もないうえに、仮装していて動きにくいマント姿のはずなのに全く息が上がっていなかった。
僕の仮装としてつけていた耳としっぽは人混みに揉まれて、いつの間にか消えていた。
不意にルースが僕の手首を掴み走り出していた。走る、走る走る……。
ようやく坂を登り切り、視界が開けた僕の眼前に母さんはいた。ほっとするのもつかの間、僕の安堵は一転、恐怖に変わった。
「母さんっ!」
「ライル! 無事でよかった……」
母さんは僕を見つけて安堵したのか、こちらの方へ向かってきた。そのすぐ後ろから速度を早めて近づいてくるホエがいることを知らないまま。
「母さん! 後ろっ……」
「え」
母さんが後ろを振り向こうとしたその瞬間、ホエの身体からたくさんの触手のようなものが飛び出した。触手、というよりも植物の蔓と言った方が良いのかもしれない。それらは急速に伸びて、僕たちのほかに広場にいた人間に向かって行ったと思うといきなり、何か、袋状のような植物が飛び出し、次々と広場にいた人間たちを飲み込んでいった。
まるで、ホエのおとぎ話に出てくる悪い夢のような光景を僕たちはまの当たりにしていた。そして、その襲われた人たちの中に、僕の母さんもいた。ゆっくりと、目の前から母さんがその植物に飲み込まれてゆくのを僕はただ呆然と見ていることしかできなかった。
「母さん……っ!」
周りの音が全く聞こえなかった。人々の叫び声も、ルースの、たぶん僕を呼んだ声も、ホエの蔓が僕をめがけて飛んでくる音さえも。
「ライル! 逃げて!」
ようやく世界に音が戻ってきてルースの悲痛な叫び声が聞こえてきたが、もう遅かった。逃げる暇もなく、僕の体はホエの蔓によって宙に浮かんでいた。
あぁ、もうだめだ、僕はここで死ぬのだと、特に抗うことも考えず、僕はあきらめていた。
その瞬間だった。
ほとんどホエに取り込まれようとしていた僕の体は何かに引っ張られて、また広場の地面へと戻っていたのだ。
一拍遅れて、全身に着地した痛みが広がる。生きていることを知らされる。
「早く! 物陰に隠れていて!」
頭の上から少し焦ったような声が聞こえ、遅れて、その声の主が僕のちょうど前にふわり、と白色と朱色の衣服をまとった少女の姿で舞い降りてきたのだった。僕の頭は完全に動いておらず、隠れろ、という言葉がなかなか脳内で変換されないまま、ぼうっとへたり込んでいた。
彼女はそんな僕を一瞥し「困ったな」という表情を浮かべると、すぐに駆け出し、僕と真反対のほうへホエを導くように行ってしまった。不思議なことに、ホエは彼女の後を追いかけるように続いた。
彼女が僕の命を救ってくれたのだろう、おそらくきっと。
世間一般で言われる「命の恩人」というものを僕は作ってしまったのだろうか、と変なことを考えていた。
「ライル! 君、大丈夫かい!」
隙を見て近づいてきたルースが僕の肩を揺さぶり、立ち上がらせて近くの陰になる場所へと連れて行ってくれた。途中ちらりと後ろを見ると、ホエが少しずつ離れていくのが見えた。ホエの姿が遠ざかっていくのを見届けて、僕は気を失ってしまった。