優しい夢
忠洋は走っていた。息は切れ、心臓がはち切れそうになっているのも構わず走った。先程のあの言葉を忘れようと、ただ走り続けた。
「おきのどくですが、おわってしまったみらいをかえることはできませんよ」
「おきのどくですが、おわってしまったみらいをかえることはできませんよ」
「おきのどくですが、おわってしまったみらいをかえることはできませんよ」
じゃかしい!
じゃかしい!
やかましいわ!だっーとれ!!
そうや!俺は一つだけでもやり遂げるために帰ってきたんや!!
ならば……、忠洋は思う。これは自分が納得して死ぬために与えてくれた神の気まぐれ。ここで何をしても何も変わらないのかもしれない。なら自分の行動に意味などない。
そやけど……、
そやけど……、
とにかくあれをやり遂げるんや!そうすれば何かが分かるかもしれん。笑いたいなら笑ったらええ!どっちにしてももう死んどるんや!俺のやりたいようにやったろうやないか!!
ふっ、と忠洋の心が軽くなり、身体に力がみなぎるのを感じた。今までの人生では感じたことのない感覚。どんなことであれ目的を持つことが人をこんなにもポジティブにさせる事を忠洋は産まれて初めて知った。視界が広がり、全ての感覚が鋭敏になっていく。
空が青い。梅の花の匂いを感じる。風の声が聞こえる。ここにも、あそこにも。俺の周りにはこんなに多くのものが溢れとる。そしてこんなに多くの人がおる。
初めてお婆さんの荷物を持って横断歩道を渡った。
初めて迷子の子供に声をかけた。
初めてバスで妊婦の女性に席を譲った。
そして、初めて「ありがとう」と言われた。
もう、あの声は聞こえなかった。
やがて、このやり直しの旅の目的地に着いた。かつて忠洋が住んでいた家。父も母もまだ一緒に住んでいるはずの家。
オカンに……、オカンに……伝えんと。その為に俺はこの世界にきたんや。そうや、今はこの旅の目的を果たす事。それが一番大事なんや。
忠洋の胸の鼓動が止まらない。この扉の向こうに母がいる。それだけで嬉しいような、恥ずかしいような、申し訳ないような。そんな気持ちで胸が一杯になった。
深呼吸ののち、忠洋は扉を開けた。
「オカン!!」
扉を開けた瞬間、忠洋の目に階段を上っていく母の後ろ姿が目に飛び込んできた。
忠洋はまた叫んだ。懐かしさと愛おしさと恥ずかしさと情けなさを。全ての想いを込めて叫んだ。
「オカンーー!!」
母が忠洋の方を向き、ポカンとした顔で見つめている。その手に握っていた掃除機から手を離し、それは派手な音を立てて、階段をバタバタと転がり落ちる。
「忠洋……、アンタどないしたん?」
母の顔を見た瞬間、抑えきれない感情が爆発した。彼の目から鼻から、大量の液体が止めどなく流れ落ちていた。
オカン!
オカン!
オカン!
いつも優しかったオカン。引きこもってた俺にずっとご飯を作ってくれてたオカン。何度俺に怒鳴られても、殴られても、ずっと俺に話しかけてくれたオカン。ほんで……、
母の顔が、やり直す前の痩せてやつれた母の顔と重なる。息を引き取る最後の瞬間まで息子の事を思い続けていた母。
言うべき事は頭では分かっていた。しかし、彼の口からようやく絞り出せた言葉は、当初の目的とはおおよそかけ離れた言葉だった。
「オカン……、ありがとう……」
「オカン……、ごめん……」
「オカン……、オカン……オカン……」
涙で滲んでいた視界が何か柔らかいものに覆われる。そして忠洋の身体にもそっと腕が回され、優しく抱きしめられた。
あったかい。
遥か遠い昔に経験した感覚。全てを包み込むような温もり。
息子は母の胸で泣き続けた。
しばらく泣き続けた後、忠洋は自らの使命を思い出した。
そうや、俺はちゃんと言わなあかん。はっきり言わへん俺があの悲劇を引き起こしたんや。
「オカン!!」
突然の大声に母はまたきょとんとして忠洋を見た。いつもは何も言わない息子が号泣していたと思ったら突然怒鳴る。さぞ奇異に映っただろう。
「なんやの?急に大声出して。びっくりするやん」
「オカン!俺の部屋に入るときは必ずノックしてくれ!これ絶対頼むわ!!」
しばらくの沈黙の後、母は答えた。
「分かった。忠洋ももう中学生やもんね。その代わり、ちゃんと勉強するって約束してや!」
そして何を勘違いしているのか、ニヤリと嬉しそうに笑った。
階段を登りながら忠洋は自らの人生を思い出していた。
今日、この日から俺の人生は転がり落ちていった。俺はただ一つのボタンのかけ間違いがきっかけであの悲劇を引き起こしたと思っていた。俺のせいやない。そう思い込んで世の中を恨み、全てから逃げ続けた。
しかし、それは違う。全ては俺が選んだ結末やったんや。この部屋の中に俺の旅の目的が待っとる。そうや、俺は今日成し遂げるんや!「生きる」っちゅう意味をみつけるんや!
勢い良く開いたドアを空けた先には散らかった部屋がある。
壁の落書きも、机に貼られたシールも、机の上の飲みかけのジュースも記憶のままだった。
よっしゃ!やりますかっ!
忠洋は自らの頬をパンっと叩き、気合を入れる。
そして、あの時と同じようにスイッチをいれ、机の上のすっかりぬるくなったジュースを飲む。
一瞬の緊張
トント……ガチャ!!
「あっ、忠洋!あのね」
「うわっ!!」
突然ドアを開けた母に驚いた忠洋は飲みかけていたジュースから手を滑らせてしまう。
あまりにも早すぎるノックからのオープン・ザ・ドア!!
止まった時間の中であの時と同じく、缶だけがスローモーションのようにゲーム機の上に落ちていき、透明な黄色の液体が弾け飛んだ。
早い……、
早すぎるわ……、
ノックの意味ないやん…………。
硬直したまま肩を震わせる息子。ただならぬ様子を察し、母は逃げるように去っていく。それもまた前と同じ。まるでビデオテープのようにかつて見た光景がリプレイされる。
忠洋の頭の中から色が失われ、真っ白になっていく。
まさか……、
まさか……、
まさか……、
結局何も変わらへんちゅうことか。
ようやく動き出した身体を引きずりながらゲーム機のスイッチを入れた彼の目に飛び込んできたのは、かつて彼を絶望のどん底に叩き落とした無慈悲な白い文字だった。
「おきのどくですが、ぼうけんのしょはきえてしまいました」
忠洋はガックリと膝をついた。
あの時と同じように世界がガラガラと崩れ落ちる。
レベルも最高まで上がり、あとは最後のボスを倒すだけだった。唯一最後までやり遂げられたはずの心残り。そして「生きる」意味を知るためのてがかり。全ては失われた。
忠洋の心にはまたしても成し遂げられなかった喪失感が襲っている……、はずだった。
そしてその思いは憎しみへと変わり、母に対してぶつけられる。この家庭は崩壊する……、はずだった。
しかし、喪失感に襲われているはずの心は何故か爽やかに晴れ渡り、その思いは憎しみとは別の感情へと変化していった。
彼は前を向き、迷いなくリセットボタンを押し、「さいしょからはじめる」という項目を選んだ。
そうや!
こんなもん何度でもやり直せるんや!
失ったものは仕方ない。また一から始めればええ。
いつの間にか周りの崩れ落ちた世界が戻っていた。
もしあの時こうしとったら
もしあの時こう言っとったら
そんな事を考えることに意味なんかない!
今や!どんなに辛くても今希望に向かって歩き続ける。それが「生きる」っていうことや。
こんなことで世の中から背を向けて……、
俺は何も見えへんようになってしもた。
美代子も……、
婆さんも……、
迷子のガキンチョも……、
妊婦の姉ちゃんも……、
そして、オカンも……、
俺が少し手を伸ばせば……、すぐそばに意味なんて一杯転がっとったんや。
ただ俺が見ようとしていなかっただけ。
世界はこんなに温かかった。
結局、やり直しても何も成し遂げることは出来へんかった。けど、俺はずっと探していた「生きる」という事の意味を知る事ができた。もうそれだけで満足や。
神さん……、
ありがとうな……、
こんな俺にチャンスを与えてくれて……、
やがて、忠洋の視界は霞んでいき彼の意識は暗い闇の中に沈んでいった。
激しい寒波に襲われた翌朝、ダンボールハウスの中から一人のホームレスの遺体が発見された。
何故か満足気に笑みを浮かべたその手には、数十年前に発売された古いゲームソフトが握られていた。
最後までお読みいただきありがとうございます。コメディーのつもりで書いていたものがいつの間にかこんな風になってしまいました。
多少無理やりな気もしますが、主人公が満足ならばそれでよし。ということで完結です。
短い物語ではありますが、貴重な時間を割いていただき本当にありがとうございました。
感想等いただけると嬉しいです。