月光川のほとりで
僕は紅い表紙の本を手にとった。
その題名は「妖怪」。乙木という変人が欲しがっている本。
僕はこの本は厚すぎて読もうとは思えないが、彼は図書館から借りて、しょっちゅう読んでいた。彼がこの本を買わないうちに、僕は彼の誕生日に贈ってあげようとたくらんでいる。今日、彼はいないからかわりに僕が借りて、彼に届けるのだ。
僕はその本を借りると、ひとけのない静かな図書館をあとにした。7月だというのに、まだ梅雨の時期がぬけきってなく、暑いくせにじめじめとした。
彼はこの梅雨の時期が嫌いじゃないらしい、むしろ好きだと言っていた。昔だが紫陽花神社のお祭りにはよく彼をみかけた。
孤独を好み、昔、皆でお祭りに誘うと巧妙な理由でのらりくらりと姿をくらました。彼は人間を嫌い、妖怪やら守り神やらをこよなく愛した。特に河童が好きだった。よく幼いころ川辺で河童の絵をかいていたのだ。それは僕が想像した皺だらけの河童ではなく、漫画に出てきそうな、目をくりっとさせたかわいい河童だった。彼いわく「こやつが本物の河童だ!」
川沿いの土手を歩いていると彼の家が見えてきた。それにしても今日は人通りが少ない。山に囲まれた田舎なので、もともとひとけはないのだが、今日は人っ子一人も見かけなかった。
土手を転びそうになりながら駆け下りると彼の家の玄関で「おじゃまします!!」というと「はいー」という女の人の声がした。
玄関の扉から彼のお母さんが顔をのぞかせた。
「あら、雨宮君!」
「こんにちは!本渡しに来ました!」
「どうぞあがってください。あの子も喜ぶわ!」
「おじゃまします。」
僕と彼のお母さんとの会話は、なぜだか寂しさがある。
僕は彼が今留守だということはわかっても、彼の部屋の扉をノックした。
「しつれいしまーす。」
部屋は妖怪や守り神関係の太い本や何冊ものスケッチブックが床を覆っていた。本の斜塔が雪崩を起こさないようにやさしく押し退け、足場を作りながら進み、やっと机に紅い本を置くと、僕はすみやかに彼の家を後にした。彼のお母さんがもっとゆっくりしていきなさいというようなことを言っていたが、今日は友達と川くだりする約束なのだ。
川沿いの土手をあるいていると一人の少女が、からんころんと下駄の音を鳴らしてこちらに向かってきた。真っ赤な浴衣を着て、ポニーテールを結っている。黒髪と真っ白な肌に赤がよく映えた。髪には紫陽花をかたどった簪、口元にはふんわりとした微笑みが浮かんでいた。
彼女は僕とすれ違った―――――――――――――
その瞬間、まわりから音というものが消え、時が止まったように感じた。
「紫陽花をみにいくの?」
僕は振り返らずに首を横に振った。なぜか振り返ってはいけないような気がしたのだ。
「今日は月光川には会わないほうが身のためよ。」
彼女は独り言のようにささやいた。
「えっ――――――?」
「さよなら。」
僕は振り返った。
彼女の姿はすでに無かった。
時が音をたてて、ゆっくり動き出した。
僕はそのまま土手を歩いていると、川の向こう岸に何か緑のうごめくようなものを見た気がした。
思わず鳥肌がたった。
その生き物がなにか・・・・僕は確信を得ていたのだろう。僕はその緑の影見たさに川につかった。川はひんやりとしていて、しんから冷えるようだった。気づかれないようにゆっくりとその生き物に近づこうと一歩一歩、足を進めていく。僕はいつのまにか川の真ん中あたりに達していた。
不意に僕の頬に雨が伝った。
―――――夕立が来る!
僕は自分自身に忠告したが、体は緑の生き物に吸い寄せられるようだった。思い出の欠片をやっとみつけたような、そんな気がしたのだと思う。
雨の粒はしだいに大きくなり、激しくなった。川は暴れ川と化した。
緑の影はいつのまにか消えていた。僕の気のせいだったのかもしれない。なぜか目から涙がこぼれた。
僕は泳ごうともがいたが、川に流された。息継ぎをしようとして口を開けたら水がどっと流れ込んできた。
―――――死ぬ・・・・。
僕は走馬灯の欠片をみた。
それは真っ赤ににぎやかな祭りの光景。
まぶしい光が僕の目の前をびゅんびゅんと通り過ぎる。
その祭りの光景に小さなあの時の僕が立っていた。
親友を見失って、呆然とした顔で突っ立っている。
その祭りの喧騒はすっと目の前から遠ざかって消えた。
ためていた酸素がどっと口からあふれ出た。
目の前が朦朧として、僕は気を失った。
つけたすかもです。。