その貴族の妻は良妻賢母でシタ。
シタ妻シリーズ第三弾。ランキングに擦り寄って書きました。エレオノーラ様は実在モデルあり。尚ざまぁはされてない模様。現実は世知辛いね。
「夫婦円満の秘訣、ですか? ふふっ、そんなもの、決まっているではありませんか」
そう言って上品に微笑んだのは、エレオノーラ・ベルフォード伯爵夫人だった。
ここは王都の一角にある、貴族の婦人たちが集まるサロン。月に二度開かれる貴婦人会では、紅茶や菓子を楽しみながら、各家の近況や子供の教育、社交界の噂などを語り合う。
私ことクラリス・アシュフォードも、この貴婦人会には欠かさず顔を出している。
今日の話題は、どうやら夫婦円満の秘訣らしい。
「大切なのは、夫の望みを先回りして叶えて差し上げることですわ。殿方というのは、案外単純なものですもの」
「まあ、エレオノーラ様。ぜひ詳しくお聞かせくださいな」
「例えばお料理ですわね。我が家には腕の良い料理人がおりますけれど、週に一度は私が厨房に立ちますの。主人の好物を、この手で作って差し上げるのですわ」
「伯爵夫人自らお料理を?」
「ええ。主人ったら、私の作った料理が一番美味しいと仰るんですのよ。先日など、おかわりまでなさって。ふふっ、子供みたいでしょう?」
周囲の婦人たちから感嘆の声が上がる中、私は黙って紅茶を口に運んだ。
確かに、伯爵夫人が自ら厨房に立つというのは珍しい。貴族の妻として夫を支えようとする姿勢も、立派なものだと思う。
それが本当の話ならば。
「それに、子供の教育も大切ですわ。私、息子には家庭教師をつけておりませんの」
「まあ、それでは学業に差し支えませんこと?」
「とんでもない。私が直接教えておりますのよ。幸い、実家では十分な教育を受けてまいりましたから。おかげさまで、息子は学院でも常に上位の成績を収めておりますの」
「素晴らしいですわね」
「いえいえ、母親として当然の務めですもの。子供の教育を他人任せにするなど、私には考えられませんわ」
エレオノーラ夫人は、そこでちらりと私を見た。
「もっとも、母親自身に教養がなければ、そうもいかないのでしょうけれど。そうは思いませんか? クラリス様」
周囲の視線が私に集まる。
やれやれ、始まった。
私の実家は地方の小貴族で、父は領地経営に追われ、娘に高等教育を受けさせる余裕などなかった。結婚後に勉強を始めたものの、名門貴族の令嬢として育った彼女と比べれば、学識が劣ることは否定できない。
「やはり、家柄というものは大切ですわね。学のない母親を持つと、子供は苦労いたしますもの」
「おっしゃる通りかと」
私は極めてにこやかに微笑んだ。
「ご理解いただけて何よりですわ。ああ、もちろん、貴女を責めているわけではありませんのよ。生まれというものは、自分では選べませんものね」
彼女は扇子で口元を隠し、くすくすと笑った。
周りの婦人達の顔を見れば、自分の発言の痛々しさなど分かりそうなものだが、どうやら良家に生まれた事に浮かれて、胎内に品性を置いてきてしまったらしい。
そう思ったが、私は何も言わなかった。
この場で彼女の秘密を暴露することもできたけれど、確たる証拠があるわけでもない。何より、他人の家庭に口を出すほど私は暇ではない。
ただ一つ気になることは、夫に尽くし、子供の教育に熱心な彼女は、いったいいつ家庭で過ごしているのだろう。
この貴婦人会が終わるのは、いつも昼過ぎである。けれど彼女が帰宅するのは夜の八時を回ってから。時には家に帰らない日もあるという。
それを教えてくれたのは、私の息子だった。
息子とエレオノーラ夫人の息子は同じ学院に通っており、幼い頃から親しくしている。
そんな息子がある日、何気なく口にしたのだ。
『母上、アルフレッドの母上って、お仕事が忙しいのでしょうか? 夜になっても帰ってこないそうです。時々、外泊もなさるとか』
私はその話を聞いても驚かなかった。
なぜなら、以前から心当たりがあったからだ。
◇ ◇ ◇
それは、王宮で開かれた夜会の帰り道だった。
主人が急な用事で王宮に残ることになり、私は一人、馬車で帰宅するところだった。
王都でも指折りの高級宿の前を通りかかったとき、見覚えのある女性が馬車から降りるのが見えた。
エレオノーラ夫人だった。
その隣には、若い男がいた。
男は夫人の腰に手を回し、夫人もまた、男の肩に身を寄せている。
二人は何やら楽しげに言葉を交わし、そのまま宿の中へ消えていった。
男の顔にも見覚えがあった。
ヴィクトル・ランベール子爵。
王宮で財務関係の仕事を任されている、将来有望と評判の青年貴族である。
当然ながら、エレオノーラ夫人の夫ではない。
あまりに堂々としていたので、一瞬、私の方が何か勘違いをしているのかと思ったほどだった。
しかし、既婚女性が夜会の帰りに夫以外の男性と高級宿へ入っていく理由など、そう多くはない。
私は御者に馬車を進めるよう告げた。
夫人とは特別親しいわけでもない。ましてや、彼女の夫とは挨拶を交わす程度の仲である。余計なことに首を突っ込む必要はないだろう。
まさかあの二人と仕事をすることになるとは、その時は考えもしなかった。
◇ ◇ ◇
「今回の事業については、三名で協力して進めていただきたい」
王宮の執務室で担当官がそう告げた。
王都近郊で進められている、農業用水路の整備事業。複数の貴族領にまたがる大規模な事業で、王家が費用の一部を負担している。
私は実家で領地経営を手伝っていた経験があり、主人も地方の行政に携わっている。その縁で、今回の事業に協力することになったのだ。
そして、残る二人がエレオノーラ夫人とヴィクトル子爵だった。
「まあ、貴女もご一緒なのね」
夫人は私を見るなり、少し意外そうな顔をした。
「ええ。どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。もっとも、こういった仕事は専門的な知識が必要ですから、クラリス様は無理をなさらなくても結構ですのよ」
「ご配慮、ありがとうございます」
ヴィクトル子爵は私たちのやり取りを聞きながら薄く笑っていた。
仕事は、現地の水利権の確認、工事費用の調整、各領主との交渉、そして王宮への報告書の作成など、多岐にわたった。
初日の打ち合わせが終わると、夫人が口を開いた。
「では、資料の整理は貴女にお任せしてもよろしいかしら?」
「構いませんが各領主との面談はどういたしましょう」
「そちらもお願いできます? 私たちは別件の調整がございますので」
「別件ですか?」
「ええ。とても大切なことですわ」
そう言って、夫人はヴィクトル子爵と顔を見合わせた。
結局その日の午後、二人が戻ってくることはなかった。翌日も、そのまた翌日も同じだった。
朝のうちは顔を見せるものの、少しすると二人でどこかへ出かけてしまう。こちらが仕事の分担を確認しようとすると、夫人は決まってこう答えた。
「貴女にできることをなさればよろしいのよ。難しいことはこちらで進めておりますから」
その難しい仕事とやらが何なのか最後まで教えてもらえなかったので、仕方なく私は一人で仕事を進めた。
各領主を訪ね、過去の水利権を調べ、工事に反対する村の代表者とも話し合った。
土地によって水の事情は異なる。上流の村が取水量を増やせば、下流の村では畑が干上がってしまう。
双方の言い分を聞き、工事の順序を見直し、費用の分担を調整する。
実家で似たような仕事を経験していたことが幸いした。
それでも決して楽ではなかったが、何度も現地へ足を運び、夜遅くまで資料を整理した。
主人には迷惑をかけたし、息子と夕食を共にできない日もあった。だが引き受けた以上は最後までやるしかない。
そして、一月ほどかけてようやく関係者全員の合意を取り付けることができた。
「本当に助かりました。奥様がいらっしゃらなければ、今回の調整はまとまらなかったでしょう」
現地の責任者からそう言われたときは、苦労が報われた気がした。そうして必要な資料をまとめ、王宮へ提出した。これでようやく羽を伸ばせる。その日の朝日は、いつもよりずっと輝いて見えた。
そう思っていたのだが。
◇ ◇ ◇
「ランベール子爵、実に見事な働きであった!」
国王陛下は上機嫌だった。
事業の第一段階が無事に終了したことを受け、私たち三人は王宮に呼び出されていた。
「長年の懸案であった水利権の問題を、わずか一月で解決するとは。そなたの手腕、実に素晴らしい!」
「もったいないお言葉にございます」
ヴィクトル子爵は恭しく頭を下げた。
「私一人の力ではございません。ベルフォード伯爵夫人のご助言があってこそ、成し遂げられたことでございます」
「まあ、ヴィクトル様ったら。私はほんの少しお手伝いしただけですわ」
夫人が頬を染める。
……は?
こいつら、何を言っているのだろう。
陛下のお手元にある報告書には、私が調べた資料も、私がまとめた交渉記録も、すべてヴィクトル子爵の功績として記載されていた。
夫人が、その内容を保証したらしい。
私の名前は、その補助として小さく記されていた。
「陛下、恐れながら申し上げます」
「何だ?」
「その報告書には、事実と異なる記載がございます」
ヴィクトル子爵の表情が変わった。
「何を言い出すのですか。陛下の御前ですよ」
「承知しております。だからこそ、事実を申し上げているのです」
私は陛下に向き直った。
「今回の事業における各領主との交渉、水利権の調査、費用の調整、合意文書の作成は、すべて私が担当いたしました。提出した資料にも私の署名がございます」
「お待ちなさい!」
エレオノーラ夫人が声を上げた。
「貴女、まさか資料を整理しただけで、すべて自分の手柄だと仰るおつもり?」
「整理だけではございません。現地での交渉も私が行いました」
「まあ、何という厚かましさでしょう!」
夫人は大げさに胸元を押さえた。
「私たちがどれほど苦労して事業をまとめたかも知らずに、よくそのようなことが言えますわね」
「では、具体的にどのような交渉をなさったのか、お聞かせいただけますか?」
「……何ですって?」
「例えば、上流の三領と下流の二領で争点となっていた取水量について、どのように調整されたのでしょう」
夫人は一瞬、言葉に詰まった。
「そ、それはヴィクトル様が……」
「ええ、私が調整いたしましたとも」
子爵が割って入った。
「細かな数字については部下に任せておりましたが、全体の方針を決定したのは私です。貴女はその指示に従って動いただけでしょう」
「では、どなたを通じて私に指示を出されたのでしょうか。私は一度も指示を受けておりませんが」
「そのような些細なことを、いちいち覚えているわけがないであろう!」
子爵は苛立たしげに言い放った。
私が寝る間も惜しんで現地の担当と調整を重ねた事も、子爵様にとっては取るに足らない些事らしい。やれやれ。
「陛下。現地の責任者に確認していただければ、分かることでございます」
「もうよい!」
陛下が声を荒らげた。
「功績を巡って争うとは見苦しいぞ。そなたも貴族の妻であろう。少しは慎みを持たぬか!」
私は口を閉じた。
陛下はヴィクトル子爵に視線を向けた。
「子爵、今回の件について何か申し開きはあるか?」
「ございません。彼女には資料整理などの補助業務を任せておりましたが、どうやらそれを過大に評価しているようです」
「まったく困ったものですわ。身の丈に合わない仕事を任されると、自分が重要な役割を果たしていると勘違いしてしまうのでしょうね。私、以前から心配しておりましたの」
やれやれ、随分な言われようである。
仕事の成果は現地に残っているし関係者も私の顔を覚えている。調べれば分かることをわざわざここで言い争う必要もない。そんな事すら気付かない、というか知らないのだ。だって参加してないからね。
「……ところで、次の段階についても、引き続き三名に任せたいと考えておる。今回の成果を踏まえ、周辺地域にも同様の整備を広げる予定だ。そなたらならば、安心して任せられよう」
それは困る。
次の事業は今回よりも規模が大きい。私一人で進めるには、相応の負担がかかる。
しかも、功績はすべて他人のものになる。いくら私がお人好しでも流石にそこまで奉仕する趣味はない。
「陛下、恐れながら申し上げます」
「今度は何だ?」
「次の事業につきましては、私は辞退させていただきたく存じます」
夫人が目を丸くした。
「まあ! 陛下直々のご依頼をお断りになるおつもり?」
「はい。先ほどのお話を伺う限り、私には十分な能力がないようでございますので」
「ようやく、貴女にもご理解いただけたのね」
夫人は満足そうに微笑んだ。
「ええ。私が参加することで、お二方のご負担を増やしてしまうのは本意ではございません」
「そのとおりですわ。ご自身の力量を理解することも大切ですもの」
ヴィクトル子爵も頷いた。
私如きに出来た仕事だ。恐らく、自分が本気を出せば余裕、とか思っているのだろう。
やってみるがいい。
「陛下、彼女の辞退をお認めいただけませんか。次の事業は私と伯爵夫人だけで十分に対応できます」
「ふむ。そうか」
陛下は少し考えた後、頷いた。
「本人が能力不足を認めておるのであれば、無理に参加させる必要もあるまい。次の事業は二人に任せる」
「ありがたき幸せにございます!」
二人は揃って頭を下げた。
私も深く礼をした。
「ご配慮に感謝いたします。お二方のご成功を、心よりお祈り申し上げます」
これで、ようやく仕事から解放される。
そう思っていると、帰り際に夫人が私に声をかけた。
「賢明なご判断でしたわね。これからはクラリス様はご家庭に専念なさってはいかが?」
「そうさせていただきます」
「ふふっ。私のように家庭も仕事も両立するのは、誰にでもできることではありませんものね」
「おっしゃるとおりです」
私は微笑んだ。
仕事も家庭はどうだか知らないが、少なくとも浮気相手との時間は十分に確保しているものね。
確かに、誰にでもできる事ではないわね。
◇ ◇ ◇
それから二月ほど経った頃だった。王宮から一通の書状が届いた。差出人はなんと、国王陛下ご本人である。
封を開けると、そこには先日の謁見における非礼を詫びる言葉が記されていた。
どうやら第二段階の事業が大失敗に終わったらしい。
工事は中断し、領主同士の争いが再燃。費用の配分にも不備があり、現地からは苦情が殺到。さらには関係者から前回の担当者がいないことへの抗議が相次いだ。
陛下は現地の責任者から事情を聞き、第一段階の事業を実際に取りまとめたのが私であったことを知ったそうだ。書状には私の功績を正当に評価しなかったことへの謝罪と、事業への復帰を求める言葉が綴られていた。
そして驚いたことに、前回の仕事に対する報酬に加え、慰謝料まで提示されていた。次の事業についても、通常の倍額に相当する報酬を支払うという。
私は書状を読み終えると、深いため息をついた。
やれやれ。いくらあの二人が無能とはいえ、たった二月で仕事を台無しにしてしまうとは。現地の苦労を思うと、流石に私も少し後悔した。
それにしても国王陛下が自ら謝罪の書状を寄越すとは。事態はよほど深刻なのだろう。
私は夫に相談した。
「どう思われます?」
「引き受けたくないのだろう?」
「正直なところ、もう関わりたくありません」
「ならば断っても構わないと思うが」
「ただ、現地の方々が困っていらっしゃるようですので」
夫は苦笑した。
「君は昔からそういうところがあるな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
今回の失敗によって、工事の遅延だけでなく農作物への被害も懸念されているという。水路が完成しなければ、来年の収穫に影響が出るかもしれない。
結局、私は依頼を引き受けることにした。
ただし、今回は条件付きで。
まず、事業の責任者は私一人。人員の選定については、私に裁量を与えること。そして、業務の進捗と費用については、現地の責任者と直接確認できる体制を整えること。
陛下はすべての条件を受け入れた。
前回の報酬と慰謝料も、約束どおり支払われた。
随分と高い授業料になったものだ。
◇ ◇ ◇
その後、エレオノーラ夫人とヴィクトル子爵が拘束されたという知らせが届いた。
功績の詐称だけではなかった。
王家の事業費の使途にも不明な点があり、二人が仕事を放棄していた間の行動についても調査が進められた。
そこで発覚したのが、二人の不貞関係だ。
王都の高級宿に二人が頻繁に利用していた記録が残っていたという。宿泊費には事業のために預かった公金まで使われていた。
王家の仕事を放棄し、他人の功績を奪い、虚偽の報告を行い、さらには公金を私的に流用して遊び呆けていたらしい。
国王陛下の怒りは相当なものだったようだ。
ほどなくして、二人には死罪が言い渡された。
打首である。
エレオノーラ夫人は、最後まで自分の罪を認めなかった。
夫に尽くし、子供を立派に育て、貴族としての務めも果たしてきた。自分は良妻賢母であり、国に尽くした立派な貴婦人なのだと。
けれど、裁判では次々と証拠が提示された。
高級宿への出入りの記録、事業費の不正流用、虚偽の報告書、そして現地の関係者による証言。
夫人はそのすべてを否定した。
ヴィクトル子爵に騙されたのだとも主張したらしい。しかし子爵もまた、夫人に責任を押し付けようとした。互いに愛を囁き合っていた二人は、最後には互いを罵り合いながら、罪をなすりつけ合ったという。
判決が覆ることはなかった。
二人は王都の広場で処刑され、その首はさらされた。
そしてこれは気の毒な事だが、エレオノーラ夫人の罪は残された家族にも及んだ。
ベルフォード伯爵家は連帯責任を問われ、領地を没収されたのである。
伯爵本人が不貞や不正に関与していなかったことは認められたものの、王家への重大な背信行為を働いた妻を監督できなかった責任を免れることはできなかった。
屋敷も財産も失い、伯爵とその息子は王都を去ることになった。あの夫人が誇っていた家庭は、彼女自身の手によって壊されてしまったのだ。
◇ ◇ ◇
それから一月ほど経った頃、私は久しぶりに貴婦人会へ参加した。以前と変わらぬサロンには、いつもの顔ぶれが揃っていた。
ただ一つ、エレオノーラ夫人の姿がないことを除けば。
「それにしても、恐ろしい事件でしたわね」
一人の婦人が紅茶を口に運びながら言った。
「まさか、エレオノーラ様があのようなことをなさっていたなんて」
「本当に。あれほど良妻賢母を自慢していらしたのに」
別の婦人がため息をつく横で、私は黙って話を聞いていた。
その話を聞いて、年配の婦人が小さく笑う。
「皆様、本当にご存じなかったの?」
周囲の視線が集まった。
「私は以前から存じておりましたわ。ランベール子爵と随分親しくなさっていたでしょう?」
「まあ! 実は私もですわ」
「私も何度か、お二人が一緒にいらっしゃるところを見かけましたわね」
「そういえば、あの方、貴婦人会が終わると必ず急いで帰っていらしたわね」
「帰っていたのかしら?」
誰かがそう言うと、婦人たちの間に小さな笑いが起きた。
私は思わず尋ねた。
「皆様、ご存じだったのですか?」
「ええ。少なくとも、噂くらいは耳にしておりましたわ」
年配の婦人は平然と答えた。
「ただ、わざわざ指摘することでもありませんでしょう? ご本人は隠しているおつもりだったようですし」
「それに、あれほど得意げにご家庭のことを語っていらっしゃるのですもの。水を差すのも無粋ですわ」
「ふふっ。本当に愚かな方でしたわね」
私は少し驚いた。
てっきり夫人は周囲の婦人たちを上手く欺いていると思っていた。けれど、実際には誰も騙されていなかったらしい。
「ところで、ベルフォード伯爵様のお話はお聞きになりました?」
一人の婦人が声を潜めた。
「処刑の後、息子さんと一緒に広場へいらしたそうですわ」
「まあ、ご遺体を引き取りに?」
「いいえ。石を投げにいらしたんですって」
私は思わず顔を上げた。
「石、ですか?」
「ええ。さらし首となった奥様に向かって、旦那様が石を投げられたそうですの。それを見て、息子さんも同じようになさったとか」
「まあ……」
「何度も、何度も。周りにいた人たちも、誰一人止めなかったそうですわ」
婦人たちは顔を見合わせた。
「それほどまでに憎まれていたのですね」
「当然でしょう。領地まで失ってしまったのですもの」
「それにしても、あれほど夫を愛していると仰っていたのに。最後には、その夫から石を投げられるなんて」
年配の婦人が、ふと思い出したように言った。
「そういえば、お料理の話もございましたわね」
「ああ、週に一度、ご自身で作っていらしたという?」
「ええ。あれも随分と迷惑だったそうですわよ」
「迷惑?」
「伯爵様は、奥様のお料理があまりお好きではなかったそうですの。でも、せっかく作ってくれるのだからと、無理をして召し上がっていたとか」
「まあ!」
「おかわりまでなさっていたそうですけれど、それも奥様を喜ばせるためだったのでしょうね」
婦人たちから、今度は遠慮のない笑い声が上がった。
「それでは、夫婦円満の秘訣どころか、旦那様が我慢していらしただけではありませんの」
「本当に、お気の毒なこと」
私はただそれを聞きながら、黙って紅茶を口に運んだ。
エレオノーラ夫人は、夫の好物を手ずから作り、喜んでもらえることが何より幸せだと語っていた。
息子の教育には自ら取り組み、成績優秀な子供を育て上げたと誇らしげに笑っていた。そして、学のない母親を持つと子供は苦労するのだと私を見下していた。
けれど夫は、彼女の料理を我慢して食べていた。
息子は、母親の罪によって領地も財産も失った。
そして彼女が誇っていた良妻賢母という姿も、初めから周囲の婦人たちからも冷ややかに見られていたのだ。
何とも皮肉な話である。
◇ ◇ ◇
その日の夕食後、息子が私に相談を持ちかけてきた。
「母上、お願いがあるのですが」
「何かしら?」
「アルフレッドのことです」
私は手を止めた。
アルフレッドは、エレオノーラ夫人の息子である。領地を没収されてからは、学院にも通えなくなっていた。
「彼、勉強を続けたいそうなんです。でも、今は家庭教師を雇う余裕もないみたいで」
「そうでしょうね」
「それで、僕の家庭教師の先生に、一緒に教えていただけないかと思いまして」
私は息子の顔を見た。
「アルフレッドと一緒に?」
「はい。先生にはもう相談しました。人数が一人増えるくらいなら構わないと仰っています」
「そうなの」
「もちろん、母上と父上のお許しが必要なのは分かっています。でも、アルフレッドは本当に頭がいいんです。あのまま勉強をやめてしまうのは、もったいないと思うんです」
私はしばらく考えた。
アルフレッドは、母親の罪に何の関係もない。それどころか、最も大きな被害を受けた一人である。あの子がこれから先どのような人生を歩むことになるのかは分からないが、学ぶ機会まで奪われる必要はないだろう。
「いいわよ」
私がそう答えると、息子は目を輝かせた。
「本当ですか!」
「ええ。ただし、先生のお仕事が増えるのだから、報酬についてはきちんと相談しなければなりませんね」
「ありがとうございます、母上!」
息子はそう言って頭を下げた。
私には息子に教えてやれるほどの学識はない。だからこそ家庭教師を雇い、教育を受けさせている。
それが母親として正しいのかどうかは分からないけれど、息子は他人の苦しみに心を寄せられる人間に育ってくれた。勉学よりも人として、それが一番嬉しい事だ。
後日、アルフレッドは我が家へ通うようになった。
最初のうちは遠慮がちだったけれど、息子と一緒に勉強するうちに、少しずつ以前の明るさを取り戻していった。家庭教師によれば、二人は互いに競い合いながら、熱心に学んでいるという。
私は、その報告を聞いて安心した。
エレオノーラ夫人は、息子の教育を他人任せにするなど考えられないと仰っていた。
けれど母親が直接教えなくても、子供は立派に育つものらしい。
何とも不思議な巡り合わせである。窓の外に目を向けると、庭では二人の少年が楽しそうに笑い合っていた。
私は二人の姿を眺めながら、静かに微笑んだ。
どうか、あの子にも幸せが訪れますように。
母親が最後まで理解しなかった、本当の幸せが。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
自分の小説の中では一番クソつまらないのに一番伸びてるの、なろうの闇を感じて嫌いじゃないです。
応援してくれた人には心からの感謝を。




