第2章 スペクトログラム
自分の画廊にも関わらず、警察に案内されるという不思議な感覚を味わいながら、中に入ってゆく。
美浜の言う通り、鑑識たちは撤収の準備をしているのか、忙しく動き回っていた。
入る前から見えていたが、入口の目の前の場所掛けられているはずの畏芸先生の絵画が外れていた。その不自然な空白は、私に事件を紛れもない現実だと静かに突きつけられた。
私は表情が引き締め、私は画廊全体に見回す。
それ以外の被害は……なさそうだな。絵が壊されたと聞いた時、壁一面が燃やされているぐらいは覚悟した。だが、むしろ不自然なくらいに被害がない。まさか、ピンポイントに絵画だけを狙ってやったのか?
私はハーディカの犯罪手口の巧妙さに舌を巻いていると、先に進んでいた美浜が、部屋の扉の前から私に声をかけてきた。
画廊の観察をほどほどに入ってすぐ左。鑑識たちの間を縫うようにして奥に進む。そこを抜けると突当りの部屋の前で待っていた美浜がドアを開けてくれた。私と、すぐ後ろからついてきた竹藪も一緒に中に入る。
私は美浜の指示のもと奥の椅子に腰を下ろし、その向かいに二人も腰を下ろした。
「では改めてまして、わざわざこちらまで来ていただきありがとうございます。崩ヶ城のアート旅路。画廊のオーナーである崩ヶ城 真心さんでお間違いなかったですか?」
竹藪は今までの、飄々とした態度とは違った真面目な顔で私を見据える。その印象の変化に私は全身に鳥肌が立った。その横では、会話を余さずメモしようと真剣な眼差しで美浜が身構えていた。
これが警察の取り調べ言うものか、こんな状況で嘘がつける犯人はいるのか……。
「はい、間違いありません。アシスタントの煖……右京から聞いた話だと、ハーティカが畏芸先生の絵を破壊したとか?」
竹藪は「えぇ」とだけ冷静に答えてはいたが、机の上に組んでいた両手に力強く握られているように見えた。今だに警察の捜査をすり抜けているハーティカへの怒りを抑えきれないようだ。
「話が早くて助かります。ちなみに真心さんは今回の事件どこまでご存知ですか?」
私は家に来た煖華の話を思い返す。
「右京から聞いた話ですが、よろしいですか?」
「構いません」
「彼女が今日の六時頃に営業の準備のために画廊に来たら、目の前の畏芸先生の絵画がボロボロに崩れているのを見つけたそうです。そこからハーティカの存在を連想した右京は警察に連絡をいれたと聞いています」
「そのようですね。右京さんは前日、店を閉める時は問題なかったとおっしゃいました。ちなみに営業時間はいつからいつですか?」
「午前九時から午後五時です。前日のその時間には不審者はいなかったんですか?」
「現在調査中です。ただ、その日は普段より混んでいたそうです」
普段より混んでいた?………あ~、昨日は展示会を始めて最初の日曜日、休日か。初心のファンが新作目的で押し掛けてきたのかな。
私が一人納得していると、竹藪は何も聞いてくることはなかった。おそらく、煖華の事情聴取の際に聞かされているんだろう。
「それでは壊された絵画について詳しく教えていただけますか?」
「もちろん。海外に行っている間だとしても、自分の画廊に飾る絵画ですからね。右京から写真が送らせています」
私は上着から携帯を取り出すと、手早く操作し画像を竹藪に見せる。
「畏芸……先生の作品で名前は『虹の絨毯』です」
そこには色とりどりの花がまるで絨毯のように青空の下に広がっている油絵だった。
しかし……。
竹藪は私が畏芸先生の話をした時の一瞬の表情の曇りを見逃さなかった。
「なにか、気になる点でもありましたか?」
「えぇ、まぁ。そうですね。畏芸先生は一年前の事故で利き手を怪我をされて、画家は引退されました。しかし、二年前に参加されたこの展示会に今回は参加の意思を示され、趣味で書いた絵でよければ、出品させてほしいとお願いされたんです」
「怪我で利き手が使えないのに、絵を書かれたことが気になったと?」
「いえ。そこではなく、画風がガラリと変わったんです。本人は心機一転とおっしゃってましたが」
竹藪は改めて携帯を覗き込む。
「画風が変わった。以前はどんな絵を?」
私は一度、携帯を手元に戻すと、今度は私が気に入っている畏芸先生の昔の絵画の写真を竹藪に見せた。
「怪我をする前は精密で独創的な街の絵だけを描いていました。人が描いたとは思えないほどの緻密さに私は心を奪われ、先生のファンになりました」
竹藪の表情が険しくなる。
「ファンとして非常に残念に思ったでしょうね。怪我で絵が描けなくなったのもそうですが、作風が変わってしまったのも。ガッカリされたんじゃないですか?」
竹藪のその言葉が胸を貫く。
もしかして、私は疑われているのか?事件当時は海外に出張中で日本にすらいなかったこの私を?まさか、犯行を依頼したとか言い出さないよな?
「い、畏芸先生の精密な絵が見れなくなってしまったのは残念ですが、あの油絵だって紛れもなく先生の描かれた絵画です。慣れない腕であそこまでの絵を仕上げる先生には敬服しますが、軽蔑なんてあり得ません!」
私は携帯を乱暴にポケットにしまい込んだ。竹藪は悪びれる様子もなく、短くお礼だけ述べる。
「怪我以来の新作。ファン冥利に尽きるというものですね。しかし、その絵画もハーディカの被害に遭ってしまった。真心さん。実際に被害に遭った絵画、ご覧になりましたか?」
動揺する気持ちを抑えながら、まだ見ていないことを思い出す。
ファンとして先生の被害に遭った絵など見るに堪えないが、そうも言っていられないか。
私は無言で首を振ると、竹藪が美浜に写真を出すように指示をした。美浜は警察手帳に挟まれていた写真を机に置く。
「これは被害に遭った『虹の絨毯』です。絵画の下部。花が描かれている場所が大きく損傷しているのが分かります」
美浜の説明通り、そこにはきれいは花畑の部分が一部だけ微細にひび割れを起こしており、油絵特有の厚みが失われていた。まるで絵画から魂の一部が欠落したかのように、その場からポッカリと欠け落ちていた。
「美術品を扱うプロとしてどのようにして、これを起きたと考えられますか?」
一部だけ急激に劣化させる方法だと?
美浜の問いかけに私は頭を悩ませた。
「絵を劣化させるだけなら、急激な温湿度の変化やキャンパスを無理やり引き伸ばせば、十分に可能と言えます。ですが、特定の箇所の塗膜の結合を破壊するほどのダメージとなると話は変わります。……すみませんが、私では予測も立てられません」
竹藪は満足そうに「そうですか」とだけ答えた。さほど私の答えに期待などしていなかったのだろう。それとも期待通りだったのか。次の質問に移る。
「防犯に関してどうでしょう。事件発生前後の監視カメラの記録は残っていますか?あれと設置場所、保存期間も確認させてください」
防犯カメラについて竹藪が話し出すと、隣から美浜がご丁寧に画廊の見取り図を出してくれた。
私は見取り図を見ながら入り口や画廊内を指さし説明する。最後に実際の商談室の防犯カメラを指さした。すでに調べていたのだろう。実物を一瞥だけすると、視線を私に戻した。
「捜査のため、録画を預からせていただいても構いませんか?」
「問題ありません。のちほど、お渡しできるように右京に伝えておきます」
これ以上を聞くことはないのか、美浜は手帳をしまい始めた。
やっと終わったか……。今日は一生分の緊張を味わった気分だ。
「我々は一度、畏芸さんにお話を聞いて見ようと思います」
そう言って、竹藪がそうそうに立ち上がると、美浜も慌てて机の上を片付け立ち上がり、深々と頭を下げた。
「お疲れのところ、お時間をいただきありがとうございました。また、なにかお伺いしたいことがありましたら、ご連絡させていただくかもしれません」
気づくと竹藪は最初の飄々とした雰囲気に戻っていた。
「構いませんよ。この事件を解決して頂けるなら、いくらでも力をお貸しします」
入る時と同様に三人で商談室から出る。
そこにはすでに鑑識が撤収したあとで、ガランとした無人の画廊が広がっていた。
商談室から入口までの短い距離。私は今回の事件に情報が頭を巡る。
なぜ、畏芸先生が標的だったのか?
どのようにして、絵画の一部だけ劣化させたのか?
私は画廊を出る直前、画廊に並ぶ一枚の絵に吸い寄せられるように振り返る。
なぜ、あの絵は標的にならなかった?
「そうそう、調査も終わっているので、営業は再開してもらって大丈夫ですよ」
すでに外に出ていた竹藪が振り返りながらそう告げると、私の頭にあった霞のように浮んだ疑問は消え去ってしまった。
まぁ、どちらにしろ警察の仕事だ。あとは任せよう。
そう結論付けると、私は口を開きかけた。
その時。
「それはご親切にどうも」
私が答えるよりも早く誰かが答えた。
誰だ?……あっ~忘れていた。入口で待っててとお願いされていたな。警察に動揺してすっかり忘れていた。
そこには、煖華が両目に涙を溜めながら鼻をすすっている姿があった。彼女は本来いるはずの私が居らず、右往左往した挙げ句、待ちぼうけを喰らい、本来の可愛らしい顔が涙で歪んでいた。
二人の刑事は持ち前の洞察力で何かを察すると「私たちこれで」と逃げるように去ってゆく。
待ってくれ!せめて、彼女に事情を!
私の心の叫びも虚しく、そのまま刑事が去っていった。
その後、刑事が見えなくなると同時に私は煖華に襟首を掴まれると画廊に連行され、刑事の取り調べが優しく感じられるような説教が長々と続いた。




