第1話 その島
船底にいると船酔いが酷い。
この体には余計に堪える。
周りが真っ暗でほとんど何も見えないが、他の人間もキツそうで吐いてる嗚咽が響いている。
でもそれは、ただ船酔いが酷いのではなく、これから間違いなく訪れるであろう死への恐怖からだと思う。
ここに何人いるかは定かじゃないが、きっと乗る前の感じだと80人以上はいる事だと思う。
吐いた吐瀉物の匂いでまた誰かが吐き出す。
自分がもう死ぬっていう感覚がすぐそこに感じられるのを、ここにいる誰もが理解してるから、吐くだけではなく、やがて泣き始め、それでも誰も発狂したりはしない。
皆、自分が何者かというのを今までに散々味わってきているからだ。
既にもう地獄の日々をきっと間違いなく歩んできただろうという轍と、自分がこの世に生まれてきた事への絶望、そして何にも抗えられない諦めの日々、人生。
憎い。
全てに恨めしい。
俺がこの世界に生まれ変わって、一体何の為の生まれ変わりだったのか。
俺がただリターニア人というだけで、人間以下の扱いをただただ浴びせられたこの9年。
屈辱なんてものじゃない。
誰が…、何故…、俺を…。
ただただ許せない。
でも、そんな事を今こんな異臭のする船底で思ったところで、俺はもうすぐどうせ死ぬんだ。
どこかの天井が開いた音がした。
上にいる者どもが「うわ、くせぇ」だのとガヤガヤ騒いでいるのが聞こえた。
「おい!もうすぐ着くぞ!準備しろ!」
そんな声が聞こえた。
こんな手ぶらで身一つで船に乗せられたのに何を準備するって言うんだ。
死ぬ準備か?
ふざけるな。
上の階からの明かりで、梯子が降ろされてきたのが見えた。
でも、当たり前だが、誰もその梯子に手をかけて登ろうとする者はいない。
いる訳ない。
これから先へ行く場所は、処刑場みたいなもの。
誰が好き好んで梯子を登ったりするものか。
それでもダメなんだ。
上にいる誰かが呪文を唱えていた。
この船底にいる全員の体が強烈に痺れ、全員が船底の床に藻掻いた。
心臓が破裂しそうに痛み、全身に電気が走ったように。
俺は…、ここにいる俺達はきっと、この痛みを何十回何百回何千回何万回と味わっている。
そしてこの痛みを伴うと、自意識が薄れ従ってしまう体と心に散々させられてきた。
どんなに自我で抗おうとも、体が勝手に動いてしまう。
呪文…。禁呪文…。そしてそれを体現させる【禁紋】。
この船底にいるのは皆、奴隷。
俺は今回この船の中にいるただ一人の、奴隷の奴隷。
リターニア人。
ここにいる俺以外の生き物の左胸の少し上には、この船の一番偉い奴への【奴隷紋】が施されている。
それは船に乗る直前に書き直された紋。
そして右手の甲には【禁魔紋】。
魔法を一切使えなくする紋。
そして左手の甲には、船に乗る前につけられたもう一つの紋。
梯子に一番近くにいた者が、もう全てを諦めたかのように登り始めると、そこから周りの者達も行儀の良い軍隊の様に登り始めた。
船底の梯子を登ると、その両側に船を漕ぐ為の櫂を持った上半身裸の男達が威勢よくその長く大きな櫂を合図を合わせ漕いでいた。少しその船内を歩き、もう一度梯子を登った。
登り終わる間際に強烈な太陽光が目を覆った。
眩しいを超えて痛かった。
強烈な潮の匂いが鼻を突き刺し、淀んだ温い風が体に纏わりついた。
体全身に浴びる太陽の光は、体に元気をほんの少しだけ与えてくれた。
麻色の簡素な服と短パンの様な下着。
何人か俺から見渡せる者の服には、吐いた吐瀉物のまだ乾ききっていない痕すらある。
これが俺達の住んでた前の世界の感覚なら、バカンスだとか船旅の、きっと背伸びでもして「気持ち良いねー」なんてセリフも出るんだろうけど…。
こっちの世界にきて初めての船の上。
そして、転生したのにもうすぐ俺は死ぬんだっていう絶望。
俺はこっちの世界に来てもう何もかもを諦めていた、ふと前世ってやつを思い出してしまった。
思い出したって良い事なんて何一つも無いし、むしろ苦しいだけだった。
でも、…、もう良いか…。もう終わるんだから。
もう船のすぐ向こうに島が見えている。
上がってきた俺達奴隷の何人かが、これから最前線に向かうような仰々しい剣や槍や防具の装備した軍人らしき人間に命令されて、船横に小舟を何隻か降ろしていた。
俺は大きな大人達の間に立っていたからか命令は最初されなかったが、他の軍人が俺に気付くと、
「おい!そこのリターニア!何を動物の分際でさぼってるんだ!」
そう言って俺を思いきり蹴飛ばし、船横に小舟を降ろしている奴隷達の方へ俺は飛ばされた。
「黒ニアのくせに、この中にお前しか居ないんだから隠れても無駄だっていうのに。」
俺は9歳の子供だが、ここでは…、この世界では俺は9年生かされた人間型の動物扱い。
リターニア人は髪の毛が黒い。
俺達リターニア人…、人じゃない…、黒髪のリターニアを卑下と侮蔑で「黒ニア」とだけ呼ばれる。
俺はこの奴隷達の中でただ一人の黒ニアで、子供だ。子供のはずだ。
でも他の奴隷達ですら、俺を遠ざけ蔑む視線を感じている。
おいおい、これから俺達同じ様に殺されるのに、それでもそんな目で俺を見るのか…。
太い紐をゆっくりずらしながら小舟を船横に降ろし、その太い紐を掴みながら俺達奴隷はその小舟に分散して乗らされている。
その間、弓を弾き常に威嚇しながら俺達を様子見している軍人達。
各小舟にはその軍人達が二人ずつ乗っている。
俺が乗っている船の軍人の男が話し出した。
「お前達がこれから向かうのは、わかってると思うがあそこのダグス島。あそこを見てみろ。砂浜があるだろう。全員あそこに行くんだ、これから。」
そう言うと、もう一人の軍人が船尾の櫂で小舟を漕ぎ出した。
そして軍人は続けた。
「お前達の右手には禁魔紋がついてる。船に乗る前にした左手には…」
そう言うと、たまたまその軍人の目の前にいた一人の男の奴隷がその軍人に押され海に落ちた。
その瞬間、「ぎゃあああ!」という悲鳴とも叫びともいえない荒声を出したと思ったら、その奴隷の体がまるで強烈な酸を浴びたように溶けだした。
あっという間にその海に落ちた奴隷は絶命した。
「左手の甲には特別な【禁水紋】をつけた。水に触れたら体が溶ける呪文だ。
だからお前達はあの島に着いたら最後、海には逃げられない。まぁ、逃げてもどうせ同じだからな。」
そう言うと櫂で小舟を漕いでる軍人と大きな声で笑っていた。
そして、他の小舟でも、同じ様な説明、同じ様に海に誰かを落とすパフォーマンス。そして嘲笑。
こいつ等狂ってる。
死んでも絶対こいつ等殺してやる…。
俺は心で叫んだ。
どんなにそれが虚しいものであっても。
どんなにそれが叶わないものであっても。
小舟は容赦なく主船のある沖から砂浜沿いに近づいてくる。
やがて小舟の船首が砂浜に乗り上げると「降りろ」と言われ、奴隷達は完全に虚ろなままに従いダグス島の砂浜に降りた。
他の小舟も近くの砂浜に乗り上げて奴隷達全員をその砂浜に降ろすと、船首を反対に動かし、それぞれの小舟は主船に帰った。
俺の船に乗っていた軍人が俺に向かって言った。
「おい、黒ニア。ようやくお前は自由になった。楽しんでくれよな」
そう言うと、まるで逃げるように砂浜から沖合に漕いでいった。
奴隷達は皆でかたまり、おずおずとしている。
砂浜は、俺が前世で感触として思い出されるよりも、もっとザラザラしていた。
「おい…、あれはなんだ?」
200メートルくらいの横広の砂浜の向こう、奥行きも100メートルくらいはあるだろうか。
その奥にはだだっ広い森が生い茂っている。
見てすぐわかる。
おぞましく禍々しさを感じる森。
その森から、得体のしれない生き物が横広にぞろぞろと現れてきた。
ゆっくりじっくり歩いてきたと思えば、俺達【生贄】を見て、まさに野獣の如く走り出し襲ってきているのを肌で感じた。
二足歩行なのに前傾姿勢。
顔は狼なのか鰐の様にも見える。
目が赤く、体は鱗の様にも見えるし狼の毛で覆われてるようにも見える。
舌は長く口の横から垂れている。
誰かが叫んだ。
「魔獣だぁ!」
そう言うと、砂浜を横へ逃げて行く者。
思わず後ろの海に逃げて、叫び声と共に溶け苦しみ絶命していく者。
足が竦み、身動き取れずに動けない奴隷女性。
一斉にそれでも逃げ出す奴隷達。
海の向こうで大きな笑い声が聞こえる。
化け物だ…。
俺は初めて魔獣を見た。
怖い。
死ぬのか…。死ぬんだな。
それでも、俺はその海の向こうの笑い声が聞こえたせいで、我に帰った。
俺の人生は何だったのか。
こんな化け物に殺される為にここで生まれて生きてきたのか。
ふざけんな!
呪ってやる。
神様とかそんなのどうだって良い。
常識とか倫理とか道徳とか…、そんなのいらねぇ。
何がリターニア人だ。それだけでこんな扱いされて。
俺は前世も含めて、今本気で初めて生きたいと願った。
死にたくない。絶対こんな事で死にたくない。
こんな化け物にヤラレタクナイ!
俺は逃げる奴隷達を追い掛け回す化け物達を見て、その隙間を狙って間を突破した。
このまま森に逃げたらヤバイ。
そう感じて森の方には真っすぐ行かず、斜めに動き出して島の端っこを目指してみた。
砂浜は俺の足を鈍くしたが、海岸から森まで半分くらいに行くと砂浜は無くなり走りやすい石の足場になった。
そうはいってもまだ9歳。
自分が思ってるよりも遅い。かなり遅い。
恐怖心があるのも輪をかけているのかもしれないが、所詮子供の足だ。
そして、何よりも足が痛い。
裸足のまま尖った石を踏んでるし、小石も踏んでる。
俺は走りながら横目で化け物達を見た。
何十匹いるかはわからない。
奴隷達より多いだろうか。
俺が幸運だったのは、最初に喰われた奴隷に、他の化け物達がこぞって群がっていたことだ。
叫び声、血の匂い。とにかく魔獣達はお構いなしに奴隷達を喰い殺している。
頭から丸々齧る光景。
すぐにわかる凶器の様な爪で奴隷の胸を突き破り、内臓を抉り取る光景。
魔獣の一匹が奴隷を食べようとしているのを搔っ攫おうと足を引っ張り、そのまま足が千切れてその足にむしゃぶりつく魔獣。そしてそれを見て腕をもぎ取ろうとする魔獣達の光景。
奴隷の腹に顔をうずめてそのまま内臓を食し、顔中が血に染まっている光景。
地獄だ。
嫌だ!嫌だ!
俺は血眼になって逃げた。
足の痛みなんか苦にならないほどに走った。
激痛が走るが、あんな化け物に喰い殺されるよりましだ。
森からはまた数十匹の化け物達が一斉に現れた。
ただ、逃げてる俺よりも、もう既に食べ始めている魔獣とその「餌」達に照準が合っていて、魔獣達は一心不乱にその餌達に群がろうとしていた。
そのおかげか、俺は砂浜の端っこの方まで逃げる事ができ、運に任せて森の中へ逃げ込んだ。
ただ、森に入るとすぐに足場が悪い事に気付いた。木の根が大地にうねり、まともに走れない。
足の踏み場で俺は足を挫いた。
あっという間に転ぶと、俺は頭を打ち意識が飛びそうになった。
意識が朦朧とする中で、草むらにガサガサという音がした。
目線だけそちらに向けると、そこには一匹の魔獣が立っていた。
俺はもう動けない。
くそ!くそ!くそ!
嫌だ!嫌だ!嫌だ!
死にたくない。
恨んでやる!神とかそんなのどうでも良い!
恨んでやる!この世界を。
恨んでやる!こんな理不尽な世界を。
息なのか声なのか、「グゥウウ」と音を立て、魔獣が近づいてきている。
間近じゃないのに異様な魔獣の匂いが伝わってくる。
もう、だめだ…。
突然、魔獣の後ろに気配があると思った瞬間、魔獣はすぐ俺の隣に倒れこんできた。
俺は死ぬのか…。
「逃げるぞ。」
そう聞こえた。
俺は誰か【人間】に抱きかかえられ、走っている気がした。
そう感じて。俺は完全に意識を失った…。
初めての作品です。
誤字脱字や表現力など、至らないところは多々あると思いますが
温かく読んでいただければ幸いです。




