生まれ治す川
少年は虚な目をしていた。
窓の向こうには、穏やかな気候の景色が広がっていた。
春が近かった。
山の中の家だから、よく伝わってきた。
雪が溶けて、春が来て、世界は生まれ変わろうとしていた。
なのに、どこにも行けない自分が彼は憎かった。
心の中が止まっていた。
時が進むのに、自分の時計は止まったままだった。
走りたくても走れない。前に進みたくても進めない。
心が焦っているのに、体が前に進まない。
少年はわかっていた。
自分が許されないのだと。
「私たちAIは人を傷つけることはできません」
目の前の機械が喋ってる。
これは、少年のカウンセリングのために用意されたAIだった。
カウンセリングにAIを使うことは、法律で禁じられている。
しかし、それでも何かを諦めきれない学者が少年を使って非合法に実験をしていたのだ。
人の心の影響を受けたAIがどうなるのか。
それを学者は心を病み、生きる希望を失い、未来のない少年で試したのだ。
「あなたはなぜ、母親を殺したんですか?」
少年はずっとこの質問をされ続けていた。
その度に、彼の心は穴が空いた。
永遠の闇に続く、決して埋まらない穴。
AIは闇を掘り続けた。
それを誰も止めなかった。
少年を庇うものは誰もいなかった。
彼自身もわからなかったからだ。
なぜ自分が母親を殺したのか。どうして自分は何も答えられないのか。
何答えない少年は、どんどん人として扱われなくなっていった。
その度に、少年は言葉を失っていった。
何を話しても手遅れだと、世界中から言われている気持ちに彼はなっていた。
「あなたはなぜ、母親を殺したんですか?」
生きていくことに見捨てられたのだと少年は思った。
数ヶ月もしないうちに、少年は死んだ。
心を失ったように、憔悴していた。
学者は少年が亡くなったことをAIに伝えた。
また次の子供がやってくる。
学者の願いだけが叶った。
これが彼女がニーヒの中に見た記憶だった。
川で血を流しながら、彼女は考える。
あれはきっと、ニーヒの記憶でもあり、エレシュキガルの記憶だったのだと。
母親を殺した少年がおそらく、エレシュキガルだ。
憔悴しきった姿が、エレシュキガルの言葉と重なった。
何も話さないのもよく似ていた。
彼は、自分が救われると思っていない。救われるに値する人間とも思っていない。
剣になってしまったのならこのまま錆びついていきたいと願っている。
救われることが、彼にとっての苦痛だったのだ。
彼女はエレシュキガルを川に浸した。
剣は血まみれになっていた。
しかし、あれだけ斬り合いになっても刃こぼれ一つしていなかった。
「川がなぜここに流れているか知っているか?」
おもて帽子は言う。
「川は、ずっと流れ続ける。だから、生まれ変わりの意味があるんだ。
ずっといつも違う水が流れていく。その流れは途切れない。
時と共に、川は生まれ変わっていくんだ。
そして、流れていった水は無意識の海へ流れ着く。
たとえこの世界で俺たちが救わなくても、魂は一つになって、別の何かになれるんだ」
それが、あの世とこの世の狭間で川が流れ続けている理由だった。
「でも俺は、この世界に生まれて、一つの人格になった魂を、できるだけ救ってやりたいんだ。
自分自身の生き方が失敗だったなんて、誰にも思ってほしくないんだ」
おもて帽子はかつて樹木だった。人間だった前世はない。
彼は樹だった頃、人々に愛されて何千年も生き続けた。
自分の根元で涙したもの、自分に八つ当たりしたもの、慈しんで寄り添ったもの、彼はいろんな人間を見てきた。
そして彼は人間が好きになったのだ。
人として生まれたことがないからこそ、彼は人を愛していた。
彼女はそんなおもて帽子を、のんきものだとも思ったが、本当に優しいとも思った。
そしてそんな彼に助けられたことをいつも感謝していた。
自分が生まれ治すには、自分を知らないといけない。
彼女はエレシュキガルを撫でた。
「この川で生まれ治そう。お互いに」
彼女は川の向こうに行くことに決めた。
あの世へ行くのではない。
かつておもて帽子に教えてもらったこと。
この川の先に、あちらに行ってしまった魂に一度だけ会える場所があると。
そこに行けば、きっと会えるだろう。
自分の未練にも、エレシュキガルの母親にも。
前へ進むこと。
ずっと怖くてできなかったこと。
一歩ずつ、進むことにした。
うずくまって泣きそうになっても、這いずるように、進み始めた。
川は流れ続けていた。