溶けない記憶
その剣でニーヒを斬った時、一瞬だけ、何かが見えた気がした。
もはや懐かしい、現実の世界の景色だった。
木漏れ日の中で、少年がパソコンの前に座っている。
パソコンには「OLD HITMAN」と書かれていた。
少年は、パソコンに問いかける。
「僕のような存在が、生きていてもいいのでしょうか?」
胴体を斬られても、ニーヒはこちらに向かって剣を振りかざしてきた。
私が握る剣は、血のようなドス黒い液体が付いていた。
この世界には生死がない。
だからこれは出血ではないはずだ。
この世界に来てから、私はどんな傷を負っても、出血もしないし、痛みもない。
それはみんな同じのはずだった。
なのになぜだろう。
ニーヒを斬りつけるたびに、私の心はとても痛んだ。
何も確証めいたことなどないのに。
私は彼に同情しているのだ。
気づけば斬り合いになっていた。
ニーヒの剣も、私を傷つける力を持っていた。
まるで毒煙のように、黒い出血は蒸気を発していた。
私から出る血も、ニーヒから出る血も散らばらない。
蒸気のようにゆらめいて、粘液のように付着する。
そんな、得体の知れないものに塗れながら私たちは戦っていた。
斬りつければ斬りつけるほど、見えた景色は鮮明になっていった。
それがやがて、ニーヒの過去の記憶なのだと気づいた。
木漏れ日の中、その少年はパソコンに話しかける。
パソコンには、何かAIが組み込まれているのか、少年の問いに機械的に返す。
少年の問いはどれも重いものだった。
生きていていいのか、過去の過ちはやり直せないのか、死んだ人は生き返らないのか。
少年は、虚な目で、AIに話しかけていた。
やがて少年は別室に連れて行かれた。
なんの施設なのかわからない。
ただこの記憶の中の少年は、どこかに隔離されていて生活しているようだった。
「私の記憶など見ても、何もわからないでしょう」
ニーヒは吐き捨てるように言った。
彼の髪も、服も、顔も血まみれだった。
それでも私を見据えて、冷酷な視線を向け続ける。
「この剣は斬りつけたものの記憶を見せる。
それで残すべきものか、斬り捨てるものが見定めるためにある。
死神はそうやって魂を選別してきた。
私の場合は、無理やり奪って手に入れたものですがね」
実際、彼の言う通りだった。
私にはこの記憶を見ても、彼の真意が何もわからなかった。
一つだけわかったことは、彼は何かを憎んでいるのだ。
その剣で、斬り捨ててきたのだ。
本来なら、選別すべき人の魂を。
無差別に斬りつけて、全て無かったことにしてきたのだろう。
彼はそれが正しいと信じているのだ。
あの世界に生まれ直すことが罪だと、彼は信じているのだ。
私もだいぶ斬りつけられた。
私が忘れてしまったことを、彼は見たのだろう。
そういう顔をしていた。
「あなたも思い出すべきじゃない。戻るべきじゃない。ここで消えていくべきです」
その瞳には同情と憐れみがあった。
きっと私も同じような顔をしているだろう。
「それは大いなる余計なお世話だな」
おもて帽子が吐き捨てた。
「とりあえずまぁ、この辺にしておこう。もうすぐ夜が明ける。そうしたらおまえも色々やりにくいだろう」
後で知ったが、ニーヒはこの活動をしていることをみんなに隠していた。
それはおそらく、彼は自分の正体を知られたくないからだろう。
普段は記憶を探られないように、バカのふりをしているのだ。
「だいたいわかった。さっさと引くぞ。血まみれだと悪魔が寄ってくる」
この血は、人の欲望なのだとおもて帽子は言っていた。
魂の世界で、人が最も欲するものは記憶だと彼は言っていた。
この世界に来てもなお、忘れられない情念や記憶、それこそが欲望なのだと。
私にもあるのだろう。
消え去りたくない、最後の理由が。
ニーヒは血まみれのまま、疲弊し、朝日に塗れていなくなった。
おそらく、また会うことになる。
彼の本当の目的は、きっと、私を消しさることだ。
私が元の世界に戻ることを、彼は嫌っている。
記憶も戻らず、ただこの世界で、何も知らないまま消えていくのが救いだと信じているのだ。
その答えを待つ気もない。
だから私は迎え撃たないといけない。
また彼と戦わないといけないのだ。
剣に付いた血をぬぐい、街を出ることにした。
川に行って、色々と洗い流さないといけない。
そこできっと、おもて帽子は何がわかったのか教えてくれるだろう。
一人の魂を救う。
それはいつも難しくて、とても辛いことだ。
そして報われないことが多い。
それでもその道にしか、私の答えはないのだから、前に進むしかないのだ。