傷だらけの闇
その時、この街は夜になろうとしていた。
永遠のように続く、黄昏の中にあるこの街は時たま夜の姿へと変わる。
黄泉にも行けず、現世にも帰れない煉獄の魂を全て消し去るために、闇は存在するのだ。
”救われない魂”を刈りとるものの存在はずっと知っていた。
救えなかった誰かを、刈りとり消し去る誰か。
「人と人が傷つけ合う姿を、私はたくさん見てきた」
ニーヒは言った。いつもの皮肉めいた口調で、とても悲しそうな目をしてた。
「私は生きていた時、何をしていたのか全く覚えていない。ただ、私は人というものをよく思っていない、それだけは覚えている」
ニーヒの手には緋色の剣が握られていた。
返り血を浴びたような色をした剣は、彼の手によく馴染んでいた。
「人はいがみ合い、殺し合い、憎しみ合い、全てを私のせいにして消えていった。それをよく覚えている」
もう片方の手には、真っ黒になった何かが握られていた。
なんなのかわからない。ただ、何かの死体のように、禍々しい気配をしていた。
ニーヒは心底憎い、とでも言うようにそれを潰した。
真っ黒な何かは煙を上げながら消えた。
「あなたは、何かに絶望して自ら死を選んだんですよね」
私は胸が痛かった。
そう、私は自分から死ぬことを選んだ。
それをおもて帽子に救われた。
救われたことを言い訳に、選べずにいる。
死ぬのか、生きるのか。
永遠に答えを出さなくても良い心地良さの中にいる。
ずっとどこかにあった罪悪感だった。
「なら現世はまだ、絶望に溢れているはずだ。そんなところに、どうして魂は帰りたがるんだ?
絶望して、こんな弱々しく、全てに怯えてしまっているのに。
なぜ、人はもう一度生まれ直そうと思うんだ?」
ニーヒはそう言いながらまた黒い何かを潰した。
彼は普段、感情を表に出さない。
こちらが憎らしいと思うほど、飄々としているのに、彼は今激しい感情を露わにしている。
彼は、生まれ直しを憎んでいるのだ。
「私は、あなたたちがやっている偽善を本当は苦々しく思っていた。
生まれ直すことを決断できないほど弱ったものを、どうしてあなたたちはまた地獄に追い返すんだ?
あなたのように、疲れ切って、悲しみにぬいて、自分が何者だったのかも思い出せないものは、ここで消えた方がいいんだ。
その剣も、そんな応急処置をするぐらいなら、さっさと消せばいい。
彼自身が思い出したくないと言っているんだ。
私は、彼とあなたを始末しにきた」
ニーヒは、まっすぐこちらを見ていた。
びっくりするぐらい冷たい目線だ。
ずっとずっと彼は私を殺したいと思っていたようだ。
生きることも、死ぬことも選べない私を。
それほど憎まれていたのかと、私は絶句した。
「そうだな、そういう話は腐るほど聞いた」
おもて帽子は言う。
「実際、俺なんかに救われたくないともよく言われたさ。さっさと消してくれって。
こいつも本心ではどうだか、わからない。
俺がやっていることは全部余計なお世話かもしれねえな」
これはおもて帽子が定期的にぼやいていたことだった。
私自身、彼の活動に付き合っている中で、喜ばれたことの方が少ない。
みな、楽にしてほしかったと懇願してくる。
その度に、私は揺らいでいた。
おもて帽子だけは、絶対に揺るがない。
「俺は人に生まれたことが一度もないから、わからないのかもしれねえが
迷ってるやつをひとまとめにして、言い訳や遺恨も聞かずに消すことそのものを俺は憎んでいるんだ。
こいつだって迷っているなら、思う存分、迷えばいいと思ってる。
悩み苦悩し、迷うことは人それぞれの長さでいいんじゃねえかと、俺は思うんだ。
だがまぁ、おまえのやってることも否定はしないさ」
おもて帽子はいつもこう言う。
そもそもここは、嘘がつけない世界。
答えが自分からやってくる世界なのだから、好きなだけ悩むがいい、と。
私にとって、それは今なのだ。
答えを見せつけてくるのは、ニーヒだったのだ。
「だが、おまえのその感情は本物だが、この剣に固執するのは別の理由もあるんじゃねえか?
俺とおまえは、そこそこ長い付き合いだったが、ここまで干渉してきたことは一度もなかっただろ」
「名前を与えて、別の存在にしてまで、なぜその魂を救いたい?
なぜだろうね。私はその剣に憎しみしか湧かないんだ」
ニーヒは私に剣を振りかざす。
「庇うのなら、そのまま消えてしまえばいい」
私は咄嗟に振り下ろされた剣をエレシュキガルで受けた。
なぜかわからない。
そのまま私は彼の胴体を斬った。