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おもて帽子  作者: 南部屋
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哀しい剣




 思い出せる記憶でもっとも穏やかな記憶はピアノの音色がするという。

 雨の日の昼間に、誰かがピアノを弾いている。

 それが誰だったのかは、もう思い出せない。

 湿気が濃い、生温かい空気の日。

 雲の隙間から、微かに日差しが見えるような明るい雨の日だったという。

 そのピアノの音色に身を委ねて、うとうとと眠った時間、それだけが生きていた時、幸せだったと思えた時間だったという。




 おもて帽子によってエレシュキガルと名付けられたその魂は剣の形をしていた。

 手がつけられないほど荒んでいたその魂は、追い返すことも迎えることも困難だと彼は判断した。

 そして、この地に流れ着いてから時が経ちすぎていた。

 私のように生前の姿を保ち続け、時を止めることも意味がないほど、魂も記憶も朽ち果てていた。

 このままでは、本当に救われないものになってしまう。

 苦肉の策で、その魂を、私が持っていたギターに一度憑依させることにした。

 魂は、宿ったものに左右され、あらゆる記憶や形が変わってしまう、本来なら絶対選ばない手段だった。

 それほどまでに、その魂はボロボロだったのだ。

 おもて帽子の死神としての本来の名前は、ネルガルという。

 本物のネルガルではない。

 ネルガルという死神に準ずる下等の死神なのだ。

 彼はすでに私に能力のほとんどを預けてしまい、ネルガルの名前を使うことはできなくなっていた。


「俺が次に名前を預けられる存在は、エレシュキガルしかない」

 彼はそう言っていた。

 神にする気はないし、神になれる魂でもない。

 ただ、それだけ大きなものに、一度身を預けないとこの魂はもう形を思い出せないだろうと言っていた。


 あまりにも珍しい処置だった。

 形が歪んだ、オレンジ色の剣になったその魂は持つと心が痛んだ。

 自分が何者だったのか、思い出せないぐらい、この魂は傷ついていた。

 


「これは、どうしたらいいんだ?」

 私はおもて帽子に尋ねた。


「どうするも何も、お前と同じだ。時間をかけてこうなった原因を調べて、納得するまで付き合うしかない」


「前から思っていたが、ここは現世ではないのだろう?原因なんてどうやって調べればいいんだ」

 私も長くこの状態でこの世界に存在しているが、自分の状況が進展するようなものに巡り会える気がしなかった。

 自分がなぜ、こんなに傷ついているのか。どうして何も思い出せないのか。

 こんな世界でそれを見つけて、傷が癒えるような”納得”を、得られる気がしなかった。


「運命とか因果っていうのは存在する。薄くなったり濃くなったするから、それが全てではないが。

 こういう場所ではそれが全てになる。

 その”時”がくれば、嫌でも向き合わないといけなくなる。

 俺は、その”時”が来るまでおまえたちのような存在を残し続ける手段を探しているだけだ」


 人は死んだら、非常に曖昧な存在になる。

 そして全てが曖昧なまま、傷だけが深く残ったものは、どこにも行けなくなって消えていくのだ。

 彼はそれが、許せないだけなのだ。

 


「馬鹿馬鹿しいな」

 剣から声がした。

 深い闇のような、心が真っ黒に染まるような恐ろしい声だった。


「そんなことのために?俺は意識がはっきりするのが嫌だったんだ。このまま、消えてしまいたかった」

 なんとも言い難い、声だった。

 老人のような、少年のような、孤独に染まりきった黒が、剣全体を震わせていた。

 醜悪で邪悪な意識が伝わってくる。

 生きていた時にろくなことをしてこなかったのが伝わってきた。


「はっきりすればするほど、吐き気がするぞ。お前にもそんな”時”がいずれくるんだな」

 瞳はないのに、こちらを見られた気持ちになった。

 


「忘れたい、知りたくない、そんなものを見せようとするな」

 エレシュキガルは吠えた。


「このままこの剣を折って楽にしてくれないか」

 疲れ切っている声だった。

 本当にこんな魂すら、救えるのだろうか?

 そんなことが望まれているのだろうか?

 私はこんなものを直視し続けられるのだろうか。

 なぜなら、私はエレシュキガルの気持ちの方が、きっとわかるからだ。

 私もきっと救われるぐらいなら、消えてしまいたいと思ったのだろう。

 そんな思いが強烈に蘇る。

 エレシュキガルもおそらく、自ら死を選んだのだ。

 その生々しさが、頭を焼き尽くすように刻まれていく。

 私も確かに思ったのだ、生きていたくないと。



「鞘に入れてしまえば剣は黙る、さっさといくぞ」

 おもて帽子は、どこからか鞘を取り出し、私に差し出した。

 私はこのままエレシュキガルを直視するのを避けるように、そっと鞘にそれを収めた。



「まぁ、ぶつぶつ色々言うだろうが、切れ味は間違いないだろうな。そういう魂だった」

 おもて帽子はニヤリと笑った。


「きっとおまえに待っているのはそれが必要な戦いなんだろう」

 自分が感じていて、言葉にしたくなかった”それ”を、帽子は平然と指摘してくる。

 逃れられない、運命ってものをその時、感じていた。


 見つめないといけないものが近づいてきていた。

 腰に携えた剣の重さが私の歩みを遅くする。



 夕刻の時間は終わり、夜が来る。

 そんな予感がしたのだ。



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