落日
ニーヒはこんな日がいつか来ることをわかっていたんじゃないかと、どこかで思っていた。
だから自分は、たくさんのものを見下し、遠ざけ、諦めていた。
それは、おそらく本心では人間になりたくなかったからだ。
少しずつ、人に近づいていく自分が恐ろしかった。
自分がしてきたことを、感情で受け止める日が来ることをニーヒは恐れた。
無機質と情緒の間で、彼はただ時が流れていくことを願っていた。
それを見越したかのように、この世界では時が流れず、永遠に夕暮れのまま、何も変わらない日々が続いていく。
変えてしまう可能性を摘んでおきたかった。
生きている人間の魂として、この世界に降り立った鳴海を彼は恐れた。
そして同時に、本能的に、興味を惹かれた。
なぜなら、彼が理性で否定していても、魂は完成に向けて動き出したかったからだ。
このまま、どこかで、何かの弾みで消えてしまえればいいのに。
ニーヒのその最後の望みは、鳴海の出現で絶たれた。
そして、鳴海は最後のピースをはめてしまった。
この街は、自分が作ったものだった。
しかし、街として形成していく上での管理は全て千尋が行っていた。
それも偶然の産物だった。
千尋は息子との再会を願っていただけで、別に街を管理したかったわけではない。
ただ彼女も、息子と再会できるのなら、この街でしかあり得ないと、どこかでわかっていた。
管理者がいなくなった街は、やがて食い尽くされるだろう。
この、黄昏の世界を漂う人ではない、もっと大きな存在によって。
人によっては精霊で、人によっては悪魔のそれらによって。
本来、無機質なものから完全な魂を生み出すことは、何か実験的な要素も孕んでいたのかもしれない。
ニーヒの精神は、つくも神とも少し違っていた。
生みの親が、人の魂を望んだように、ニーヒは人の魂になりつつあった。
その結果は、抽象的なものでしかない。
いつ、ニーヒが人の魂になったのかどうか、誰にもわからない。
ただ、ニーヒは実感があった。
今、自分は最もそれに近づいている。
そして、管理者が消えた今、自分は選ばないといけないのだ。
このまま消えるか、人の魂になるのかを。
鳴海のそばにずっといた死神は、それを見届けるために、きっと自分の側にいたのだろう。
鳴海は塔が崩れそうになっているのに気づいた。
窓の向こうでは、夕暮れの日差しが強く強く輝いていた。
街が徐々に、塵になって登っていくように見えた。
なんの光なのかもわからない日差しが、煌々と輝いているのに、本当にもの寂しい景色だった。
「ここを降りましょう」
ニーヒは鳴海に言った。
「最後にあなたと話がしたい」
鳴海は、その言葉に返す言葉はなかった。しかし、黙ってついて行った。
鳴海はニーヒに対して思うところが多くあった。
不躾なことをたくさん言われたし、彼の高圧的な態度はずっと苦手だった。
過去を知った上で、協力したいと願い出たが、それ以上に心配があった。
自分ができることは、もうこれ以上ないだろう。
その上で、ニーヒが自分に対して求めていることを察する手段が、鳴海にはなかった。
この街はニーヒが作ったものだ。
彼の心や魂が、人に近づくためにできた、心の街。
彼の未完成な心が、この世界のあらゆる悪意や善意に触れて、何者かに変わっていくためにできたもの。
それが今、終わろうとしているのだ。
この世界について、詳しいものほど、この街はイレギュラーだといつも言っていた。
突然生まれ、きっと突然消えることもみんなわかっていた。
おそらく、エミリーももうすでにこの街を去っているだろう。
この世界には最初から、黄昏と川しかなかった。
しかし、多くの行き場のない魂や精霊たちの休息所にもなっていた。
鳴海自身もその一人だ。
街があったから、そこに居残っている何者かがいたから、自分はここまで来られたかもしれない。
時計塔を降りながら、鳴海は崩れていく街を見下ろしていた。
そして、改めて、歪な美しい街だったと思った。
「僕は結局、あの親子に謝れなかった」
街の広場にたどり着いた時、ニーヒは口を開いた。
街はもう半分消えかけていた。
オレンジ色の夕暮れに滲む、白いインクのように、街は溶けていっていた。
「それだけが心残りだが、もう時間がない」
ニーヒは鳴海の方に向き直り、手を握った。
「僕は、生きることが怖かった。正確には、生きるということのスタートラインに立つことすら怖かった。
だから君にどんな卑劣な言葉でも言えた。同類だと思ったからだ。自分と同じ、生きることから逃げてきた人。
そもそも魂を持っていたのに、それを拒否した人。
何を言ってもいいと思った。
こういう人がいるんだから、自分も中途半端でいいんだと、言い聞かせられた」
ニーヒはそんな過去の自分を本当に悔いているようだった。
「でも君は、向き合い続けることから逃げなかった。それが僕には信じられなかった。
ここにいれば、永遠に答えなんて出さなくても、生きなくても死ななくても済んでいられるのに。
それが、また憎くて、どうすればいいのか、答えを出さなくてはいけなくなっていって、なおさら、混乱していたと思う」
「僕はあの親子に向き合うのが恐ろしかった。あそこで、もしも、君に拒絶されたのなら、僕は消えるつもりだった。
でも、君は、あの親子ともども、僕を救ってくれた」
街が塵になって消えていく。
それは、ニーヒにこの街が必要なくなったからだ。
彼はまだまだ未熟だが、この時、一度完成したのだ。
この世界以外の場所で、生きていけるだけの魂を、手に入れたのだ。
「いずれ、巡り会うことがあったら、あの親子にも謝罪とお礼を言う。でも、今は君に言おう。
ありがとう。僕を救ってくれて。そして、今までごめん」
街には二人と死神しかいなかった。
黄昏は沈んでいく前の最後の輝きのように燃えていた。
「この街はもうこれで終わりだ。そして、これが、最後になると思う」
今まで黙りこくっていたおもて帽子がそう言った。
「最後に言っておきたいことはあるか?鳴海」
鳴海はその言葉で全てを察した。
自分は帰るんだと。
そして、ニーヒもここではないどこかに転生するのだと。
それが厳しい旅路になるのだと予感していた。
やってしまったことがあまりにも大きすぎるから。
きっと彼の人生は、過酷なものになるだろう。
未熟で、幼い魂が、ボロボロになるまで彼は辛苦を味わうだろう。
でも彼は探すのだ。あの親子を。
その生で、彼らに許してもらえるまで、ニーヒは生き続けるんだ。
その覚悟が、ニーヒはやっとできたのだ。
「何も」
鳴海は自然とその言葉が出てきた。
「でも、もしもまた会えたら、私もお礼を言わせてほしい。その時まで、懸命にお互い、生きていこう」
最後に浮かんだのは笑みだった。
そう、最後だからこそ、笑い合おうと思った。
「おもて帽子も、ありがとう」
「あなたに会えてよかった」
それを言い終わるか、終わらないかの瞬間に、街は全て崩れ去った。
その後のことは、よく覚えていない。
ただ、ニーヒがずっと手を握ってくれているように感じた。
あたたかい温もりを感じた。
それが離れた時、冷たいベッドの感触に気づいた。
私の意識が戻ったのだ。




