黄昏の街と図書館司書
第二話
生きるとか死ぬとか、魂とか肉体とか、そういうものが関係ない世界はロープをつけずにボロボロの橋を渡るようなものだった。
恐ろしくて、不快だけど、どこまでも手を伸ばしていけるような自由があった。
その自由は、自分に何も保証がないことへの恐ろしさや不快さを、忘れさせてくれるほどの強烈な光だった。
私はどれぐらいここにいるのだろうか。
もう思い出せないぐらいここにいるような気もするし、たった数日間しか彷徨っていない気もする。
ここはそういうところだった。
あらゆる時間とあらゆる場所につながっていて、何も決定していない場所。
だから私は永遠に死んでないままでいる。
紀元前にも未来にも、現在にも繋がっているから、ここには時間がない。
私はおもて帽子が許せばいつでも帰ることができるし、おもて帽子が許さないのなら、永遠に帰れない。
ただここで永遠とも一瞬とも言える時間、彷徨い続けることができる。
私はまだ、帰ることができていない。
その街はある日突然生まれたという。
人の魂や、神々と呼ばれるものさえ、基本干渉できないとされる場所に街が生まれた。
ただ、そういう予想できないことや規格外の出来事が起こることも数えきれない途方もない時間の中に何回も起こったので
誰も気に留めなかった。
この世界には、悪魔も、天使も神もいる、そうじゃない存在もいて、人の魂も存在する。
だから、何が起こってもおかしくはないのだ。
私の頭の上に乗っている帽子いわく、おそらく今までの魂と違う存在が生まれたからそういうことが起こったんだろうと言っていた。
そしてそれを受け入れるにはこの世界に街が必要だった。それだけなのだと。
街は川と黄昏時の中に蜃気楼のように漂っていた。
時計塔や街並みが並び、人の営みに似た店まであった。
しかし、誰が何に干渉して生まれた街なのか、誰にもわからなかった。
下級の精霊や悪魔たちはこれを面白がり、人の真似事をする場所に使うようになった。
夢を経由してやってくる人の魂を弄ぶ者もいれば、もてなす者もいた。
どうせ目覚めれば忘れる場所だと、あらゆる存在が、気楽に無礼にさまざまなことを行なった。
街は生きているように姿を変えるが、どんな存在も受け入れた。
この死に損ないの私でさえも。
私はもうずっとこの街で過ごしている。
見知った知人もたくさんいる。
彼らは人ではない何かであり、私が干渉できるのだから非常に下級の存在のはずだ。
だからどれだけ親しくなっても深追いはしない。
それがわかっていれば心地よい関係だった。
私はまだ、帰れない。
帰るためには変わらないといけない。
私の魂はここで澄み切っていくのか、淀んでいくのか全くわからない。
ただ無限とも言える時の中で、私はこの街で過ごしている。
真綿で首を絞められているような夢見心地で。
「死神が側にいるのに死に切れない、奇特な人間がいるものなんですね」
最初にそんな皮肉を言った相手だけは絶対に忘れないことにしている。
私の頭の上にいる帽子は、本来下級の死神であり、ただ魂を刈り取るだけの存在のはずだった。
だが、帽子は思うところがあったのか、私の魂を維持したまま、どこにも連れて行かないことを選んだ。
その時、死神であることもできなくなったのだという。
「下級の神や悪魔は、有名な神や悪魔の名を名乗り、その能力を維持している。なのにその死神はあなたの魂を維持するために
名前も能力も捨てている。だからあなたは、生きることも死ぬこともしなくてもいい、そんな都合のいいところにいられるんです」
そいつは、いつも私がついカッとなりそうな、心を逆撫でするようなことをあえて言う。
会うたびに用意しているかのように、憎らしい笑顔でそれを言う。
彼は、ニーヒ・アルドルンク。
この街の中心に位置している時計塔で図書館司書をしているというよくわからない肩書きの男だった。
髪の毛はいつもボサボサで、全く手入れをしていない。服装にも気を遣っておらず、シャツがよれよれでベストもいつもところどころ汚れていた。靴は泥まみれで、手入れされた形跡がない。
やたらと背が高く、人を見下ろし、バカにした視線を向けながら、自分の上司にすら嫌味を言う男だった。
まだ、自分がどんな存在なのか、ぼんやりとしかわかってなかった私に冷や水をぶっかけてきた、そんな存在だ。
彼の言葉を聞くと、私は目が覚める。
この世界にずっといてはいけないんだと、忠告されている気分になる。
見ていると胸が締め付けられる存在だった。
街中の誰に聞いてもニーヒが何者なのかわかるものはいなかった。
ただ、人に心を読ませないから、下級の悪魔の類ではないかと、皆思っているようだ。
人の心を弄び揶揄うのも、そういう類が大好きなことだった。
彼は夢を通してやってくる人の魂を弄ぶ側の存在だった。
彼に連れられて街の路地裏に行った人の魂が、どれだけ深い悪夢に放り込まれたのか、数えきれないほど見てきた。
だから、あの時、彼は私を誘ったんだと思う。
お上りさん丸出しの私を見て、きっと良いおもちゃが手に入ったと思ったんだろう。
初めて見た時、明確に悪意と邪悪さを感じた。
それは、この街が本来どんな存在なのかを、よく表している。
「あなたはくだらないことを初対面の人に言うんですね」
私は言い返してやりたくなったのだ。
「私がどんなに都合のいい存在でも、あなたには関係ない話じゃないですか」
街の住民はよくニーヒを見てくれだけの幼稚なやつだとバカにする。
実際そうだと思っている。
彼は言動の割に、そこまで物事を深く考えていない。
だから子供の私がいつも反論ができるのだ。
「馬鹿馬鹿しい」
でもそのくだらない会話がこの世界で唯一私の心をむき出しにしているのかもしれない。