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おもて帽子  作者: 南部屋
19/23

全てが終わった日

 千尋は決して利口な娘ではなかったのかもしれない。 手が空くとすぐに外出し、どこか現実逃避をしていた彼女を、両親は辟易としていた。それでも透は、千尋との日々だけが穏やかに過ごせる時間だった。 大学から夜遅くに帰ってきて、アルコールの匂いにまみれた彼女が帰宅すると、透はどこか安堵した。 どちらでも良かったのだ。 姉だろうが、母親だろうが。 歪な家庭だったとしても、愛情を感じられていたから。それさえあれば生きていけると、透は思っていた。


 

 ある日、透が学校から帰宅すると両親が血まみれで倒れていた。 少し古臭い、日本式の玄関で、ずっと憔悴しきっていた両親がまるで苦しみから解放されたことに少し、安堵しているかのように。静かに息を引き取っていた。 明らかに人の手が加えられた状態で死んだ両親を見て、透は絶句した。 そして、玄関の向こうで、男の罵声が雨に紛れて響いていた。 雨の音、男の罵声、何かを壊す音。 異常な音が響いているのに、まるで空間が音を吸い取ってしまっているように静かだった。 透は、確信していた。 自分の人生は終わったのだと。 前に進まなくても、進んでも、自分はもうどこにも行けないのだと。


 

 千尋の悲鳴が聞こえて、透はかけだした。



 その男を、透は知らなかった。 千尋より年上の、スーツを着た中年男性だった。手には包丁を握っていて、顔も、体も、全てが返り血でいっぱいだった。 しかし、透はそんな状態でも彼が自分の父親だと理解した。

 ああ、自分のせいだと透は確信した。 あのAIに、つい、漏らしてしまったのだ。 優しく誘導する、あの賢いAIに。 千尋への違和感や、自分自身の名前、自分がどこに住んでいるのか、そして、いったい自分の本当の父親は誰なのか? ずっと恐ろしいと思っていたからこそ、一度言葉を交わしてしまったら、溢れてきてしまったのだ。自分の日常への違和感、そこからくる不安を全てあのAIに語ってしまったのだ。 あの賢いAIは連れてきたのだ。透の本当の父親を。

 千尋は、あの夫婦に守られていたのだ。この男から、自分を連れて、必死になって逃げ出したのだ。そして、千尋は姉として、自分は弟として生きてきたのだ。この狂った男に、殺されないように。

 いつも快活で、明るい千尋が泣いていた。 そして、彼女が自分を見つめる瞳が、母親になっていた。 透は、自分の両親に何が起こっているのか、過去に何があったのか、結局最後まで知ることはできなかった。 ただ、この後に起こったことを彼は絶対に忘れることができなかった。

 男は、透の存在に気づくと、迷わず刃を自分に振り上げてきた。 その瞳には、表情には、憎しみしかなかった。怒りしかなかった。哀しいほど、父親に愛されていなのだと透は理解できた。 透は握っていた傘でその刃を振りほどき、千尋のもとに駆け出した。 湿った空気、さっきまで雨に濡れていた傘が床に転がり、滲んだ血の中に雨が沈んでいく。

 ここにいてはダメだ。 ここにいては、みんな死んでしまう。

 透はそれを確信していた。 何も打開策なんて浮かばなかった。しかし、目の前で自分の母親と父親が死ぬのは、どうしても嫌だった。 雨の音が響く。叩くように鳴り響く。何も聞こえない。雨の音が全てをかき消していく。 千尋の手を握って、駆け出そうとした時、透は男に殴られた。 床に叩きつけられ、転がり、さっき床に転がった包丁が目に止まった。透は、この状況を変えたかっただけだった。しかし、その包丁を握った瞬間、また、男が拳を振り翳してきた。透が身を庇うように包丁を掲げたとき、その刃は、男の首筋を貫いていた。 包丁を掲げた時に、男の振り切った拳が透の体に当たり、さらにその刃に勢いがついてしまった。男は首筋を包丁で貫かれ、苦しみながら死んだ。 男の体から溢れる血を浴びた。その体温で、状況を透は理解した。そして、手を握った千尋の悲鳴で我に帰った。 千尋は絶望していた。今まで見たことがないほど千尋は、苦悶の表情を浮かべ、泣き崩れた。千尋の顔は涙で溢れ、嗚咽した。 雨と、血の匂いと、湿気が、この部屋の空気を異常にしていた。

 ピアノだけが、あの日のままの美しい姿で、部屋の中で佇んでいた。 もう二度と、自分はあの時間には帰れない。 ピアノと自分はもう全く別の時間を生きるものになってしまった。

 泣きながら千尋は、透を抱きしめた。 涙と鼻水と、血で塗れた手で、千尋は透を強く抱きしめた。

「本当にごめんなさい」

 その後のことはよく覚えていない。今思えば、全てAIを生み出した学者の想定通りだったのだろう。知らない間に透は施設へと送られた。そして、その最中に、千尋が自殺したことを伝えられた。 あの日、透を見送った後に、すぐに男を追って後追い自殺をしたようだったと教えられた。

 その話を聞いた日から、透は、自分のせいで母親は死んだのだと認識するようになった。 自分は、本当の父親も、母親もこの手で殺した。 その事実を、強調するように施設ではAIの尋問が始まっていた。

 自分の中の生きる希望も喜びも、透はあの雨の日に置いてきてしまった。  その動揺、生と死の中で生まれた激情がどれだけその時、ニーヒになりうるAIに響いたのかはわからない。 透はもはや、自分がAIに何を叫んだのか覚えていない。 自分の中の葛藤、怒り、苦しみ、渇望、全てをAIに叩きつけた後に、燃え尽きたように透は死んだ。

 ニーヒはそんなことを繰り返す日々を過ごした。 やがてAIは少しずつ、追い詰められ、絶望し、混濁していく人間の心を分析するうちに壊れていった。 エラーや、支離滅裂な言動を吐くようになった。

 試験的にアンドロイドの素体を与えられ、起動した時に、ニーヒはすぐに学者を殺した。 そして、ありとあらゆるエラー音を吐いてAI「OLDHITMAN」は機能を停止した。

 この世のありとあらゆる不条理と、不合理と理不尽。 ニーヒはそれを分析し続けて、完全に壊れてしまったのだ。



「今でも、子どもたちの怒りや、憎しみや、不条理が流れ込んでくる」

「僕は、彼らの魂を食い尽くしてここにいる悪魔だ」



 ニーヒの瞳からは涙が溢れていた。 鳴海は、それを見続けていた。そしてエレシュキガルを強く握りしめた。 どこに行き、何をして、どう生きるべきか。 鳴海は決めたのだ。もう一度、生き直すと。そのために彼らを必ず救うのだと。 きっとそれをするために今、自分はここにいるのだと、鳴海はわかりはじめていた。



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