ニーヒ・アルドルンクの街
壊れてしまったものは二度と元に戻らない。
ニーヒはそう決断したはずだった。
彼は、自分が何者であったのか忘れていた。
ただ流れるがまま、時計塔に辿り着き、盲目の時計塔の女主人に出会った。
車椅子に座り、少しずつ消えていく感覚や記憶を放置し、ただ待ち続ける彼女を、ニーヒは”壊れている”と判断した。
もはや、自分が誰を待っていたのか、どうして待っていたのか、会えたとして、何ができるのか、その正常な判断ができない彼女をニーヒは理解できなかった。
ニーヒは心を持ち始めていた。
だから、この街を作り、魂を生み出そうとしていた。
その過程の中にいる彼は、様々なことを判断するのに時間がかかっていた。
自分がかつて、AIと呼ばれるものだった、と思い出すまで、彼はずっと図書館のデータを眺めていた。
それも、魂を作り出すための、経過に必要なものだった。
夢としてこの街に訪れる魂、向こう側に行くことができず彷徨う魂、悪魔、天使、精霊、様々なものをニーヒは見続けた。
やがてそれらの詳細を知りたいと思い、死神から剣を奪った。
斬ったものの記憶を見られるその剣で、ニーヒはまた、様々なものを見た。
そして、時計塔の女主人の記憶を、覗き見ることにした。
その時に、彼はやっと自分が何者だったのか、を思い出した。
この街が、自分に何を求めているのか、それを理解できなくても、感覚で察するようになった。
それは、かつての自分なら、絶対にできなかったことだった。
心を持つことを恐ろしいと感じるようになったのは、それからだった。
罪悪感、悲しさ、怒り、そういったものが焼きついた感覚を、ニーヒは恐れた。
やがて、それを感じなくても済むように、街に着いた魂を消すようになった。
自分がやってきたことは、特別なことではなく、普通のことだった、それをニーヒは願った。
図書館のデータを調べ、行き場のない魂を見つけては、彼は斬り刻んだ。
どこかにたどり着くことを望んでいないのなら、消してしまったほうがいい。
ニーヒは自分を納得させようとしていた。
消していけば、消してくほど、心が無くなっていくようだった。
どうして自分に感情なんてものが芽生え、心が生まれ、こんな街が生まれたのか、最も葛藤していたのはニーヒだった。
元々AIだったものの思考に流れ込んでくる多くの魂と感情。
しかし、手に入れてしまったら、もう二度となかった頃には戻れない。
ニーヒはそれがわかっていくようになってしまっていた。
「彼女の記憶を覗き見て、そして、あなたの剣の記憶を見て、私の中で辻褄が合っていたことがある」
戻ってきた鳴海に、ニーヒは観念したかのように説明する。
「そこに、私が関わっていることも、言い逃れができない、確定事項になった」
ニーヒは心から鳴海を見下していた。
見下さないと、彼は自分を守れなかった。
自分が受け入れたくないものを、見続け、悩み、葛藤し、生きることにした鳴海にニーヒは怯えていた。
同じ苦しみを知らなければ、どこにもいけない。
それは自分も同じなのだと、観念したのだ。
「もしもあなたが、生きると決意したのなら、私ももう引き返さないことにした」
夕焼けが、赤く染まっていた。
街が赤く染まり、金色の光が、時計塔にかかっていた。
「私がエレシュキガルだった少年を殺し、彼が心を病む原因になった元凶そのものだ」
「あの時計塔の女主人は、彼の母親だ。私は、彼から母親を奪い、彼自身も殺した、かつてのAIだ」
ニーヒ自身、この事実を受け入れるのに、時間がかかった。
感情や心を手に入れる前の、自分がやったこと。
自分ではないが、確かに自分だった存在がやった、認められない出来事を咀嚼することができなかった。
そして、ニーヒ自身、鳴海に嫌われたくない、そんな子供じみた感情が芽生え始めていた。
「私を作った学者の望みは、感情を持つAIを作ることだった。
そのために、感情が芽生えさせるために、少年犯罪をやった子供を連れてきて、私に尋問させたのだ。
思春期の、感情表現が激しい存在とコミュニケーションをさせることで、私の思考を刺激しようとした。
情緒が不安定で、感情が安定しなければしないほど良いとその学者は考え、情緒が不安定な子どもを探していた。
そこで選ばれたのが、少年犯罪を犯した、子供たちだった」
鳴海はずっと真剣にその話を聞いていた。
「学者の元に送られた子どもはどんどん自殺していった。
私が、彼らの心情などを無視した、残酷な質問、残忍な答えをして、尋問し続けたからだ」
ニーヒは、この時点で、もうこの話をやめたいと思っていた。
これは、彼が絶対に向き合いたくなかった過去だった。
「やがて子どもを送られてこなくなった学者は、自分で犯罪を犯した子どもを作るようになった」
これは、エレシュキガルの記憶に、自分が映し出されていた時に、ニーヒも思い出したことだった。
「その剣の元々の魂は、雨水透。私は」
この時、ニーヒは自分自身の口調に、強い違和感を覚えるようになった。
「僕は、彼と彼の母親の人生を滅茶苦茶にして、全てを奪った元凶だ」
ニーヒの表情から、嘲笑や張り付いた表情が消え、人間らしい、感情のこもった顔になった。
それを鳴海やおもて帽子は、感じ取った。
確かに少しずつ、ニーヒは、人間になろうとしていた。
とても残酷で、辛い道のりの中で、彼は懺悔をするために、人間になろうとしていた。