エレシュキガルの記憶
「おかえり」
最初に聞こえたのは、おもて帽子の声だった。
私の意識そのものが、どこかに飛んでいたようだった。
川の向こうにはもう何もない。
「戻ってきてくれてよかったよ」
やはり、ああいう体験は、そのまま川の向こうに行ってしまうことがあるのだな、と確信した。
「何があったかどうかは聞かねえが、おまえは会いたい奴に会えたようだな」
おもて帽子は一呼吸おいて言った。
「なんとなくそんな気がしてたが、この剣が会いたかったやつは、ここにはいなかった。そいつは川の向こうにいない」
川の向こうには、誰の現れなかったとおもて帽子は言った。
エレシュキガルは黙っていた。
剣は氷のように冷たくなっていた。
心を閉ざしている。
この状況に関して、エレシュキガルは答えたくないのだとわかった。
「川の向こうにいないのなら、こいつの母親はこの世界にいる。
この世界にいて、人間の魂が存在し続けられるのは、あの街しかない」
ニーヒが戻ってきたら、伝えたいことがあると言っていたことを思い出した。
彼は、剣通して私の記憶を見た。
私は、エレシュキガルを通して彼とエレシュキガルの記憶を見た。
その時、感じた認識に、何か間違いがあったのではないだろうか。
そもそもあの少年の記憶の中にいる誰が、ニーヒだったのだ?
私は、自分自身のことに必死で、何か大切なことを見落としていたのではないだろうか。
「エレシュキガル、あなたは自分の母親がどこにいるのか、多分、知っているんだね」
私は尋ねた。
「あなたは川の向こうにいないことを知っていた。だから、この旅に付き合った。
あなたはずっと核心を避けていて、それに辿り着かないことが願いだからだ」
「あなたは何を隠しているの?」
エレシュキガルは黙っていた。
泣いているのが伝わってきた。
剣は何も反応していない。
しかし握っていると伝わってくる。
かつての私がそうだったように。
この気持ちは誰にも理解されない。できない。
喪失感と悲しみの中で、失意に沈んでいるのだ。
「母親に会えば、救われる?そんなことを本気で信じているのか?」
久しぶりに声を聞いた。
憎しみと悲しみをすり潰したような、潰れた声。
泣き叫び、声が枯れ、それでもなお、絶望に叫んだ後のような、聞いていて苦しい声だ。
「どうしてあの男を斬った時、俺の記憶がでてきてたのか、その意味がわかったら質問に答えてやるよ」
「あいつは俺のことを覚えてないだろうが、俺はあいつに殺されたんだ」
剣の中央から、一つ目が生えてきた。
怒りに充血している。
憎しみに溢れているのが、伝わってくる。
「なぜあいつが、ここにいて、あんなことをしている?あいつと親しいお前が、どうして俺を救えるんだ?」
エレシュキガルは泣いていた。
「俺から説明することなど何もない。全て自分で知ってみろ。そうすれば、俺の怒りがわかる」
そう言って、彼はまた黙り込んでしまった。
何も斬り刻んでいないのに、刀身は真っ赤に染まり、何人も斬り捨ててきたような姿になっていた。
エレシュキガルは、ニーヒを憎んでいる。
そしてそれを、誰も理解してくれないのだと、諦めてしまっているのだ。
「ここでその名前が出るのか」
おもて帽子は言った。
「だったら、お前に話しておかないといけないな」
おもて帽子は続けた。
「ここにくる前に会っただろ、”なり損ない”に」
本来、魂が宿らないものに、神性や霊性が宿ったが、結局魂になることができなかったものたちだ。
なり損ないは、強いエネルギーを持っているが、それをコントロールすることができない。
それが悪質なエネルギーでないという保証もないから、基本的に関わらないほうがいいとされている存在だ。
「ニーヒ・アルドルンク。あいつの魂は本当異質だった。幼すぎる。
赤ん坊とも言い難い、卵のようなもの。低級な悪魔だと思っていたが、あそこで確信した。
あいつは”なり損ない”だ。
魂になるかならないかの、非常に危うい状態。
思考や情緒が不安定なのに、エネルギーが強いのもこれで納得できる。」
「おまえは、あいつの記憶を見たんだろ?いなかったか?神性や霊性が宿ってしまいそうな、人間ではないものだ」
あの時、私が見たニーヒの記憶の中にいたものは、エレシュキガルの前世だと思われる少年と、その少年に延々と話しかけるパソコンの中のAI。
「ニーヒはAIに魂が宿ろうとしているもの?」
「ああ、そして、魂が作られる時に、この世界に街ができるという話を聞いたことがある。
現世のものも、あの世のものも、あらゆるものが行き来するこの世界で、自分の仮の脳である街を作ることで、魂を手に入れるために学習するんだ。
魂や、霊魂、人の心の情緒というものを。
あの街そのものが、おそらく、ニーヒが生み出した、あいつの仮の脳だ。
そして、その街に、エレシュキガルの母親がいるんだ」
「なぜ」
私は頭がパンクしそうだった。
「そもそも、どうしてAIに魂が宿ろうとしているんだ?」
私はニーヒを思い出していた。
思えば、人間味を出したくて、あえて言っている支離滅裂な皮肉な言動、そして、合理主義で、消失の重さをわかっていない幼さ、機械的ではなかったかと言われれは否定できない。
しかし彼は、思い詰めていた。悩んでいた。
そして、幼い思考なりに、私を想ってくれた。
あれらの行動や言動は全て、 AIが魂を得る過程の中の、エラーだったのか?
仮説にするには、あまりにも突飛な発想だと感じた。
「だからあいつは待っているんだろう。お前の帰りを」
全て話すと言ってた、彼の言葉が重くのりかかる。
「あいつがどうやって霊性を手に入れたのか、それはわからない。ただ、伝えたいことがあるのは思い当たる節があるんだろう。それをお前に伝えたいんだ」
私は、剣をまた仕舞い込み、街に戻るための支度をした。
急いで戻らなければならない。
そして、必要ならば、相応の覚悟を決めないといけない。
行きの足取りは重たかった。
帰りは、ただまっすぐ走った。
私は何をするべきなのか、少しずつ、わかり始めていた。