その14 ”何度溺れたとして、泳ぐことを選んだんだ”
川が流れていた。
黄昏の中で、クリーム色に染まった水が、どこからかやってきて、どこかに流れていった。
触れると、どこか生暖かく、体の芯まで冷えるような冷たさがあった。
それは、人の心や想いによって、深さが変わり、永遠に続いているのだと、おもて帽子は言っていた。
川は流れていくのだ。
止まることはない。
決して止まらない時のように、川は止まることはない。
今、私が見ている川の水も流れていき、次に同じ景色を見ても、その水は別の水なのだ。
川の向こうの、岸辺に秋一君はいた。
彼がもう、私とは違う世界にいるものなのだと、思い知らされる。
そして、私がまだ、かろうじて生きているのだと、実感する。
川を渡ってはいけない。
渡ったら、私がここにきた意味も、秋一君が死んだ意味もなくなるからだ。
それでも、一言、一言だけでいい、話がしたかった。
どうして私を好きになったのか、どうして私を助けてくれたのか、どうしてそんなに優しかったのか、一言だけと言いながら、彼を見た時、私の中にはたくさんの言葉が溢れ出た。
本能が私の足を止めていた。
釘で打たれたように私の足は動かなかった。
本能が危険だと告げているのだ。
これ以上先に行ってはいけないと、警告している。
それでも頭の中では、秋一君への言葉で溢れていた。
私は涙が出なかった。
ただ彼の姿を見続けていた。
秋一君は、あの頃と変わらない姿で笑って手を振っていた。
「なるちゃんは気にしすぎなんだよ」
いつもそう言っていた笑顔で笑っていた。
彼の姿を見ていると、ずっと忘れていたことを思い出す。
私が朝霧鳴海だったこと。
私が私だったこと。
生きていて、過ごしていて、何かに触れて、それが温かいと感じていたこと。
そういうことを思い出していく。
辛くて逃げていた、”生きていたこと”を思い出す。
「生きていてくれれば、それでいい」
そういう言葉が聞こえてきた。
秋一君は、ずっと手を振っていた。
ずっとずっと、心配してくれていたのだ。
私は、彼に手を振りかえした。
それを、ずっとためらっていた。
さよなら、を言うのをためらっていた。
川の向こうにも行けず、まだこの世界で、やるべきことが残っている。
その私にできることは、一つだけだった。
「私は、必ず、元の世界に帰るよ」
秋一君は、私がそれを言わずとも、わかったように笑ってくれた。
彼は私を恨んでいなかった。
本当に、私には勿体無いくらい、賢くて優しい人だった。
こんなにも、長い間、生きることも、死ぬことも決められず、彷徨っていた私を、彼はずっと見守ってくれていたのだ。
霧が濃くなっていき、次第に彼の姿は見えなくなっていった。
私は最後まで秋一君に手を振り続けた。
見えなくなるまで、お互いに、手を振り続けた。
もう会えないけど、きっとまた、どこかで。
霧が全てを包み、彼の姿が見えなくなった時、私は泣いていたことに気づいた。
私はやっと、前に進める気がした。
冷たく冷え切っていた身体が熱くなるのを感じた。
私はもう一度、生きていける。
この世界を、見届けて、元の世界に帰るんだ。
元の世界に戻って、どんな地獄が待っていたとしても、きっと私はもう挫けない。
秋一君が遺してくれたものを、やっと受け入れられると思った。
黄昏の川は静かに流れていった。
でも、それにもう呑み込まれることはなかった。
私は生きることを選んだんだ。