その13 ”救われてしまった”
私が”それ”に対して最初に抱いた感情は明確な怒りだった。
私は”それ”に覆い被さり、力一杯殴った。
”それ”は抵抗したが、関係なかった。
抵抗され、殴られた痛みよりも、”それ”をやっと殴ることができたことの喜びが勝った。
私はただひたすらに”それ”を殴り続けた。
振りかぶる時、肩が痛んだ。
硬い顔にぶつかり、握り拳はじんわりと赤く腫れていく。
それでも私はやめられなかった。
ただ、嬉しかった。
やっとこいつを殺せるのだと、喜びの感情しかなかった。
気づけば、笑っていた。
笑いながら、殴っていた。
この身体がどうなってもいい。どんな罪でも受け入れよう。
こいつを殺せるのなら、なんだっていい。
私は、本当にそう思っていたのだ。
”それ”はやがて動かなくなった。
まだ生きているが、意識は無くなった。
そのときやっと、”それ”の顔が見えた。
”それ”は私自身だった。
虫の息になり、傷だらけになって倒れている自分を見て、私は理解した。
私の本当の名前は、朝霧鳴海。
私は、私自身を、殺したかったのだ。
それが、ここにきた理由だった。
私は、その時代に生きる、普通の女子高校生だった。
ただ淡々と毎日を過ごし、友達は多くも少なくもなく、家族仲も普通の、本当になんの変哲もない、女子高校生だった。
だから、ある日、秋一君が私に告白をしてきて、本当に驚いた。
日比谷秋一といえば、学校が違う私でも知っている、憧れの男の子だった。
顔立ちが整っていて、頭もよく、運動もできて、性格も良いと評判の。
私立の学校に通っている、同世代の憧れの的だった。
委員会の学外の交流会で数回会った程度の彼に、告白されてから、私の調子は狂いっぱなしだった。
私は彼に見合った女の子だという自覚がなかった。
むしろ、負い目すら感じてしまうほど、秋一君は本当にいい人だった。
周りから何度も、どうして告白されたのか、と聞かれたが、彼と交流をすればするほどわからなくなった。
それぐらい、彼は完璧な男の子だったのだ。
告白を保留にし、付かず離れずの距離感で友人になった私に対して、彼はずっと紳士だった。
欲望や、焦りよりも、私に対する敬意を常に感じていた。
それが私には逆に恐ろしかった。
私よりも、器用になんでもこなせて、綺麗な顔立ちをしている彼が、私に気をつかうたびに、どうしようもない罪悪感に襲われるのだ。
周りは浮かれていて、いろいろなことを急かしてくるからこそ、恐かった。
思えばその時点で、私と秋一君は相性が悪かったのだろう。
嫌いなわけではないが、一緒に居て居心地がいいわけでもない。
その微妙な感情を理解できるほど、私は大人ではなかった。
私には彼が眩しすぎたのだ。
秋一君は私を庇って死んでしまった。
学校のオリエンテーションで、たまたま二人きりになった時、二人で一緒に崖から落ちてしまった。
土と水に混じって、だいぶ下まで、落ちて行った時、秋一君がいろんなものの下敷きになっているのを見つけた。
私は軽症だった。
彼が守ってくれたのだ。庇ってくれたから、生きているのだと気づいた時、私はその場から一歩も動けなくなってしまった。
あの時、私が何か行動をしていれば、きっと秋一君は助かっただろう。
近くに人の気配はあったし、スマホも無事だった。
大きな声で誰かを呼んで、助けてもらえば、きっと秋一君は生き残れた。
でも、私は動けなかったのだ。
泣きながら、怯えながら、彼を必死に呼びかけた。
その私の姿を見て、頭がいい秋一君は自分の運命を察したんだろう。
「気にしなくていいから」
血まみれで、今にも死にかけている彼にそれを言われて、私はもう何も言えなかった。
何もできなかった。
それから、どれだけ時間が経ったのかわからない。
ただあらゆる光が届かない森の中で、私は彼と永遠を過ごした。
水の音、木々の音、遠くから聞こえる人の営みの音。
全てが血の匂いと死体の体温に混ざって、私の記憶に刻まれた。
そこから、何も聞こえなくなった。何も、見えなくなった。
どうしようもない自己嫌悪と、どうしようもない後悔に呑まれて、私は生きていた。
自分のことを救わなくてもいいから、そんなことを、憧れていた人に言われて、そして何もできなかった自分自身になんの価値も見出せなくなった。
誰も私を責めなかった。
私には意識がなかったが、それだけ私がもう精神状態を保てていなかったのだろう。
私は、彼に命を救ってもらったのに、生きる意味を見出せなくなった。
秋一君も、どこかで、生きることに疲れていたのだろうか。
ただただ、終わらない後悔と、変えられない結果の中で、私は呻いていた。
川の向こうには、秋一君がいた。
私はそれで、全てを思い出した。