なり損ない
川の向こうに着くには三日かかるという。
この世界に、日数と時計は存在しないのだが。
つまり、三回夜の時間が来た後に、川の向こうにたどり着ける。
それまで、ただひたすら、川のそばを延々と歩き続けるしかない。
乗り物もないし、景色はずっと変わらない。
ただ、同じ景色を眺めながら、先の見えない霧の向こうに歩き続ける。
”救われない魂”を見つけるために、基本私たちは街の外にいる。
そして、近辺を探索することはあってもここまでの遠征は初めてだった。
街から離れ、川の向こうに近づくほど、おもて帽子曰く危険だからだ。
この世界には、悪魔や精霊、妖精、そういうものになり損なったものが集まるのだという。
悪魔そのものももちろん存在する。
しかし、そもそもそういうものになり損なったものの居場所でもあるのだ。
そういうものは、どこにも属しておらず、無法で、気まぐれで、頭が悪いのだという。
ガラの悪い連中には違いないから関わるなとよく言われた。
私が街の近辺で出会ったなり損ないのほどんどが酔っ払いのようだった。
支離滅裂で、感情を常に表に出していて、話が通じなかった。
しかし、悪魔や精霊の類であるには変わりなく、影響力はあるのだ。
それがどんな影響力があるのかすら、わからないから、なり損ないは厄介なのだとおもて帽子は言っていた。
死の悪魔だったり、悪意の精霊だったのなら、取り返しがつかなくなる。
安易に見分けがつかないからこそ、本物の悪魔よりもタチが悪い。
川の付近で出会う不可解なものには絶対に近づくな。
おもて帽子はいつもそう言っていた。
「お嬢さん、お嬢さん、君はどこに行くのかい」
そう、こんなふうに絡まれるのだ。
それは妖精に見えた。
羽が生えていて、オレンジ色に光っていて、子供のような姿をしていた。
しかし、本物の妖精ならこんなところにいる意味がないのだ。
彼らが大好きな悪戯を仕掛けられる人間はどこにもいないし、自分を支配してくれる女神もいない。
食べ物も、飲み水も、森もない。
あるのは、川と霧と夕焼けだけの世界。
彼は、もしくは彼女は、妖精になり損なったものなのだ。
「なんだよー何も聞いてくれないのかよ。間違ったところに行っちゃうと、誰も話を聞いてくれないって本当なんだな」
なり損ないは残念そうにそう言っていた。
「俺さ、本当は妖精になるはずだったんだよ。でもさ、なり損ないになっちゃって、どこにも行けずにフラフラしているんだよね」
すでにおもて帽子から関わるな、というサインを受け取っている。
私は黙々と歩くしかなかった。
しかし、勝手に流れ続けるラジオにように、なり損ないはずっと私のそばで喋っていた。
「俺は頭が悪いから、お嬢さんをどうにかしようと思ってないよ。本当にただのバカなんだ。そしてどうしてだろうなぁ、感情ってものが理解できなかったからこうなっちゃったのかな。なり損ないってそもそも、植物とか物が”シンセイ”を見出されちゃって、中途半端に”レイセイ”を持っちゃったものらしいんだよね。
俺も元々は公園に生えてる木だったんだよ。そこで、あー人間みたいになりたいなぁって気持ちが強くなって、木じゃなくなっちゃったんだよね。
でも、”タマシイ”とか感情とか、そういうもの?をわからなかったからこうなっちゃったんだって」
そう考えるとなり損ないも可哀想な存在ではある。
ある日突然、感情や霊性が芽生えても、何かの域に達していなかったばかりに何にもなれない存在になってしまったのだ。
もう彼は植物に戻ることもできないし、妖精になることもできないのだ。
「でも俺は人間を恨んでいないんだ。むしろ、こんなになるのが難しいものになれてるなんてすげえなってやっぱり思った。でもここに来る人間って自分で死んじゃった奴らが多いんだよな。やっぱり俺には、なり損ないぐらいでちょうどいいのかもなぁ」
なり損ないは興味深そうに私を見ていた。
その目は好奇心しかなく、キラキラしていた。
しかし、同じ焦点で物事を考えていないこともよく伝わってきた。
「俺は結局よくわからなかったけど、感情とか魂ってものを理解しちゃった、俺みたいな境遇のやつってどうなっちゃうんだろうな。あなただって、せっかく”イノチ”とか、”カンジョウ”とか”ジンセイ”とか、そういう物を手に入れてたのに、捨てちゃいたくなるぐらい、そういうものって辛いってことだろ?
そこまで考えて、俺はめんどくさくなっちゃったから、なり損ないなのかもなぁ」
そこまでしゃべって、なり損ないはめんどくさくなったのか、パタパタとどこかへ去っていった。
全く同情しないわけでもない。
でもやはりそれだけなり損ないに関わるのは危険なのだ。
なり損ないは自分に芽生えた霊性を全くコントロールできていない。
それが私に降りかかっても、彼らはどうすることもできないのだ。
「なるほどなぁ」
おもて帽子はそう呟いた。
「どうしたんだ、珍しい」
「まぁ、独り言だ、気にするな」
おもて帽子はそう言ってまた黙った。
川はまだ続いていた。
霧に紛れて、クリーム色になった黄昏が延々と続く。
この後、ちょっとした集落が待っている。
そこで、久しぶりに会うものに、挨拶をしに行く予定だ。