第31話 難破船と消えた薔薇①
レストランが並ぶ通りを抜ける。
天井からつり下がっている標識に従えば、おそらくここがフードコートから一番近いトイレだろう。
自販機と木製ベンチが設置されているエリアが見えてくると、そこには予想通りカーディガンを羽織った女の子の姿が。涼木さんだ。
……ただし、その傍らに、何やらチャラチャラした格好の男の人が。
え、なにごと?
私は二人に近づきつつ、様子をうかがった。
「ね、だから行こうよ。そこのカフェまで。オレ、可愛い子には全然奢るし」
「いや、その、わたし友達と遊ぶ約束してるので、そんなお誘いはちょっと……」
男の人は、私たちより頭一つ分も二つ分も身長が高い。目を引く明るい茶髪に、厚い胸板。どぎつい葡萄色のシャツに、黒色のパンツ。首元で光るネックレス。
どこか軽薄な態度に感じられるのは、彼のその口調のせいだろうか。
どう話しかけようか迷っていると、ふと涼木さんと目が合う。
不安に揺れる瞳だ。
涼木さんは男の人から逃げるように私のもとにやってくると、がしっと手を掴んできた。割と強い力で驚く。男の人に振り返って、やんわりと断り文句を入れた。
「ご、ごめんなさいわたし、行きますね! 友達も迎えに来てくれたわけだし! それじゃあ、失礼します!」
トイレに迎えにくる友達ってなんだそれ。
涼木さん、その断り方はあんまり自然じゃないぞ。
そうやって心の内で涼木さんにツッコんでいるから、相手につけいる隙を与えてしまうのだ。
男の人は「ちょっと待てよ」と荒っぽく言って、今度は涼木さんの腕を掴んだ。さっきまでの軽薄の態度はどこへやら、鋭く低い声が涼木さんを捉えた。
「――ひっ」
瞬間、涼木さんの身体が飛び跳ねるようにして、びくんっと震えた。
さあっと顔が青くなって、涼木さんは、掴んだ私の手にぎゅっと力を込める。
彼女の、そんな態度の豹変ぶりに、私は声を掛けずにはいられない。
「え、ちょっと、涼木さんっ!?」
「……やだ、こっちに来ないでよ」
それは、ぞっとするほどの拒絶を孕んだ小さな呟きだった。
……いや、拒絶というよりは、男の人に対する恐怖を声に出さずにはいられない、といった本能的な怯え。
涼木さんは身体に力が入らないせいか、私にもたれかかるように傾いだ。
彼女の首筋から香ったのは、控えめで清涼感ある香水。
百合の香り。
その後で残像のように薄く消えかかった香調の微かな気配。薔薇の香り。
ミドルからベースへと香りは移り変わり、薔薇は消えかかっている。
――涼木さんって、もしかして……。
昨日今日と彼女を観察していて、私には思うことがあった。
例えばそれは、彼女の幼馴染みの異性――鹿島くんに肩を触れられたり。
例えばそれは、今みたいな状況――男の人から腕を掴まれたり。
そういった場面で――どうして彼女はひどく怯えた様子で身体を震わせるのか?
けれどその疑問を今、本人から聞き出すにはあまりに時と場合を弁えていない。
なぜなら、
「てか、君の友達もなかなか可愛いじゃん。なら、せっかくだし美少女二人一緒にオレとどっか遊びに行こうよ。カフェとか、そういうんじゃなくてさ、もっと別の所でさ」
この男だ。
粘っこい口調で「別の所」と強調してくるこの男、セクハラとかでお巡りさんの御用になってくれないかな。明らかにソウイウ場所を示唆するような口振りだし。
大体からしてこの男、さっきから「美少女二人」と、涼木さん含め私の容姿も褒めてくれているようだけど。
私が日頃意識して綺麗にしている容姿は、こんな軽薄で、ふらっと現れた女の子二人にうつつを抜かすような幼稚な男のために磨いているものじゃないのだ。
春休み中に練習してきた笑顔も、明るくハキハキ発することができるこの声も。
矯正した猫背も、ばっさり切った前髪も、少し背伸びしてつけたコンタクトも。
ぜんぶ、暗黒時代の頃の自分と決別するためにやってきたことだ。
ぜんぶ、あの頃の自分から生まれ変わるためにやってきたことだ。
だから、こんな男に「可愛い」と言われたからって。
だから、こんな男にいくら乱暴にされたって。
靡いたり、絆されてしまうような、あの頃の私では、もうないから。
今の私は――。
気づけば、もうこの男に怯えている自分はいない。それは、すぐ傍らの、自分以上に取り乱している彼女の存在を強く意識しているせいか。
……それとも、過去の自分を払拭したい意思で奮い立っている反骨精神ゆえか。
「……大丈夫。大丈夫だよ、涼木さん。私に任せて」
「な、鳴海ちゃん……」
彼女を安心させるように肩を撫でると、ふわりとまたあの匂いが香り立った。
薔薇が消えかかった、濃い百合の香り。
私は深く息を吸って、それを胸いっぱいに取り込んだ。全身を百合に浸す。




