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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

死んだ少女の腕

作者: 相浦アキラ

 朝のホームに制服姿の少女が立っていた。真っ白な肌に落ち窪んだ瞳を輝かせ、細い唇を硬く結び、どこか所在なさげに革鞄の紐を握りしめた、そんな少女が立っていた。目鼻立ちが整っている訳でもなかったがどういうわけか彼女は強烈な存在感を放っていて、惹きつけられてならなかった。時刻表に目をやるフリをして時折盗み見て、その度に軽い眩みを憶える。人影まばらな駅のホームに彼女だけが浮き彫りになっているようだった。表向きは気が弱そうにも見えるのに、彼女の佇まいにはエネルギーというか、力強い意志が脈打っているように感じられる。彼女の全身を貫くこの意志は、一体どこに向かっているのだろう。


 一つの仮説に思い至ったのは、特急電車の通過を知らせるアナウンスが鳴り響いた時だった。彼女は自殺するつもりなのかもしれない。そう考えればすべての辻褄が合ってしまう。だとしたら私のすべき事はただ一つ。彼女に声を掛けて、何とか自殺を思いとどまらせる。……しかし、もし私の勘違いだったとしたら? だとすればとんだ赤っ恥だ。赤っ恥で済めばいいが、警察沙汰になるという事もありうる。大体、私が彼女にかけられる言葉なんて何かあるのだろうか。人生で特に良いことも無くずっと独り身で、惰性で生きているだけの私が「生きていればいつかは良いことがある」なんて言っても、全く説得力がないではないか。


 踏み出すことも目を逸らす事も出来ずにいると、彼女は鞄を取り落とし、ホームの黄線の辺りを決意に満ちた表情で鋭くねめつけていた。これはもう間違いない。やはり彼女は自殺する気だ。他に気付いている人も見当たらないし、私が止めなければならない。しかし、私は彼女に気圧されたように一歩も動けなかった。止まった様に時が流れて電車の震えが音を増し、彼女の目はいよいよ突き出て、スタートの合図のように警笛が鳴り、跳ねるように走り出す。はじけるような音。赤い飛沫。電車の風が抜けていく。彼女は線路の底に消えてしまっていた。


 残ったのはホームを濡らす血痕と、自販機の傍に垂れ落ちた片方の腕。腕は血塗られていたが原型は留めていて、少女らしい丸い指も見て取れた。遅すぎた電車のブレーキ音と女性の悲鳴がアンサンブルを奏でる中、私は眼前で起こった事実を飲み込もうとしていた。しかしどうにも腑に落ちず、叫ぶ気にも驚く気にもならなかった。誰かの自殺に出くわしたのは初めてだったが、こういう事は珍しいことでもない気がした。精肉工場で働いていた事があったせいかもしれない。とにかく私は奇妙なまでに落ち着いていて、ただ突っ立って力なく横たわる彼女の腕に目を落としていた。朝の陽ざしで血のりがてらてらと輝いて青白い肌を引き立てていて、率直に言って美しかった。切断面からは血の水たまりがコンクリートの床に広がり続けて時を刻んでいる。どうしてこんなに美しいのだろう。私はただただ感嘆していた。今まで精肉工場で見て来た肉はどれも血抜きされて作り物じみていたが、彼女の血に染まった腕は確かに脈動していて、命そのものであるかのようだった。この腕を照らす紅に無数の赤血球が蠢いて、血小板が傷を塞ぐために凝集し、彼女の肉体を一分一秒でも長らえさせようと必死に努力しては零れ落ちている。彼女の腕は生きる意志となってひたすらに輝いているようだった。


 果たしてこれは一体どういう事なのだろう。どうしてこんなことがあり得るのだろう。彼女は自ら命を絶った筈ではなかったか。死に向かう意志となって自らの命を絶った彼女の肉体が、どうしてこんなにも生きる意志に満ち満ちているのだろう。本当だったら彼女の腕の中は空洞になっていて、すぐにでも塵になって消えてしまう方がずっと自然ではないだろうか。しかし、実際はそうはならなかった。彼女の腕はどう考えても助からないのに、それでも輝きながら生きて、生き続けようとしている。これは一体どういう事なのだろう。


 青い顔の駅員が階段から覗いて、慌ただしい足音が響いて、その時になって初めてジロジロ見ていては失礼かもしれないと思い至り、時刻表の方に顔を向け直す。それでも私の網膜には少女の腕がずっと焼き付いていて、彼女が生前に見せた絶望と決意に満ちた表情との明確な対比を象っていた。こんな事が現にありえるとは、どうしても信じられなかった。生きる意志と死へ向かう意志。相反する二つの意志が一つの存在の中に両立し、共に世界に現れると言う事が実際にあり得るとは。……もしかしたら、順序が逆なのかもしれない。肉体が生きようとするからこそ彼女は苦しみ、死に向かっていった。生の意志と死の意志は真逆のように思えて、表裏一体の関係なのではないか。そう考えてみると、美しかった彼女の腕が初めてグロテスクに思えてきて、堪らなく嫌になって俯いた首を振る。


 ……そもそも彼女は本当に死に向かっていたと言えるのだろうか。死は人生の外側の出来事だから、精神は自己の消失を知る事が出来ない。人は死ぬまで生き続ける事しかできないし、精神は消えるまで存在し続ける事しかできない。辿り着く場所などどこにもないのだ。当然死に向かう精神もどこにも辿り着く事はできない。だとしたら……肉体を貫く生きる意志に逆らってまで、決して辿り着く事が出来ない場所へと精神が突き進むなんて事は、本当にありうるのだろうか。……やはり、彼女は死へ向かう意志の為に死を選んだのではなく、生きる為に苦しみを逃れようとして、肉体が崩壊し精神が消える直前の一瞬だけを生きようとして、死を選んだのではないか。いや、あるいは……


「迷惑だよなあ。死ぬなら自分の部屋で死ねばいいのに」


「ほんとなー」


 軽薄そうな男二人の声に、思考が途切れていた。


「てかさあ、勿体ないよなー」


「何が?」


「死ぬ前にヤラせてくれりゃ良かったのに」


 響く笑い声を噛み潰すように唇を噛んでいた。久々に怒りを覚えていた。こういう連中が蔓延っている世界だからこそ、彼女は苦しみ、死を選んでしまったのではないか。……いや、私も同類か。私もまた、少女の世界を構成する一つの要素だった。私を含めた世界が寄ってたかって彼女を虐げ、死に追いやったのだ。それに私は彼女の意志に気付いていたのに、下らない世間体ばかり気にして止める事が出来なかった。私にもう少し勇気があって、彼女に声を掛ける事ができれば、彼女は今も生きていたかもしれない。やはり、私は彼女の死に加担してしまったのだ。


 男二人の脇を抜けて階段へ向かう。彼女の腕があった場所を無機質なブルーシートが覆っている様を一瞥し、階段を踏み登っていく。あの時私が勇気を出していれば、彼女は死ななくて済んだ。私のせいで、一人の人間が死んだ。階段を上る度に自分の心に言い聞かせてみても、しかし罪悪感が湧き上がって来る事はなかった。例え罪を認識する事ができても、罪を罪として受け止める事は難しい。謝罪しても金銭を支払っても、過去は変える事が出来ない。真に罪を償う事はできない。だとすれば、私に出来る事は何もないではないか。精々がふとした瞬間に自分の罪を思い出して「もう終わった話じゃないか」と受け流す程度の事しか出来ない。次の瞬間には罪は忘却の彼方へと追いやられる。仮に私が人を殺めても、世界を破壊しても同じことかもしれない。私はどうやっても罪を受け入れる事も、償う事もできないのではないか。


 階段の途中で手渡された遅延証明の紙。必要なかったが反射的に受け取って、また階段を登っていく。また義務のように自分を責めてみても罪悪感が湧き上がって来る気配は無く、ただただやるせなくて、遅延証明を掌の中に握りしめていた。生きようともがく肉体と不条理な世界に苛まれて、彼女は一体どれほどの苦しみを味わって来たのだろう。だとしても、私は……彼女にただただ生きていて欲しかった。ただ生きて、生き続けて、死ぬまで生きようとして欲しかった。彼女の腕がそうしていたように。こんなことを考えるのも、私のエゴでしかないのかも知れない。それでも……


 そうだ。さっきの軽薄な二人の男も駅員も叫んでいた女性も、誰も彼もが体の中に生きる意志が巡っている。どんなに生を恨んでも、命は勝手に生き続けようとする。私だってそうだ。

 拳の中で丸まった紙に更なる圧を加える。私は何かを創造しようとしているらしかった。私は、何がしたいのだろう。罪滅ぼしのつもりなのだろうか。あるいは鎮魂のつもりなのだろうか。分からないが、とにかく何かを創造していたくて堪らなかった。世界の一部であるこの紙つぶてを、私の意志の全てを使ってどこまでも小さく押しつぶしてしまいたかった。黒ずんだ灰にしてやりたかった。

 それから改札を抜け、人気のない道を選んでいく。救急車の音が響く。私のせいだ。……私のせいで彼女は死んでしまった。小さな公園を抜け、閑静な住宅街をいき、古びた神社の傍で立ち止まる。結んでいた拳を解いてみても、手には白く丸まった紙が転がっているだけだった。



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