六、思い出
ジュンくんはいつもの公園に行くのをやめた。そうして、彼は自分が思っていたよりもずっとすんなりと、イチノセさんのいない日常へ戻って行った。それがあまりにも簡単で呆気なかったものだから、余計ジュンくんは嫌になった。学校は相変わらず退屈だったし、家にいても面白いことはない。でも、そんな退屈にもやがて慣れてしまうのだ。そしてそのうちに、ジュンくんはイチノセさんのことを考えなくなった。忘れたわけではないけれど、イチノセさんのことが心に浮上してくる度に、無理矢理意識の深海へと沈め返した。そうするといつも、胸の奥がじくじくと痛んだ。だからそういう時はいつも、ジュンくんはイチノセさんなんて知らない、と頭の中で繰り返した。そう思えば、少しは楽になる気がしていたのだ。
そして、季節は巡り、ジュンくんはイチノセさんのいない二回目の春を迎えた。ジュンくんは晴れて中学生になっていた。幸いなことに、彼は中学校で信頼できそうな友人と出会い、小学校の時よりずっと楽しい学校生活を送っている。もちろん、人生とは何が起きるか分からないものではあるけれど、今のところの彼は部活に勉強と実に充実した日々を過ごしていた。
そうして、忘れようと努めなくても、イチノセさんのことを思い出すことが日に日に減っていった。ジュンくんの心の中に、負の感情と共にずっと棲み着いていたイチノセさんは、どこか遠くへ旅に出かけてしまったらしい。ジュンくんは、へらへら笑うイチノセさんも、ずぶ濡れになって情けない姿になったイチノセさんも、遠い目で空を仰ぐイチノセさんも、みんなみんな、はっきりと思い出すことができなくなっていた。ぼんやりとはイメージできるけれど、どうしてもピントは合わなかった。
こうして誰かを忘れていくような感覚は、彼にとってそう久しぶりというわけでもなかった。みんな、そうやって簡単に心から出て行ってしまうんだ。そう思うと、彼の胸はちくりと痛んだ。でも、その痛みが長引く前に、目まぐるしい日常が彼を呑み込んでいく。だから、寂しさが膿んでいくようなことはなかった。
きっといつか、あの人を忘れていくことで走る胸の痛みさえ消えてしまうんだろうな、とジュンくんは思った。そして実際、春が過ぎ、少し汗ばむ初夏がやって来た時、彼はすっかり目の前のことに意識を奪われて、感傷に浸る間さえなくなっていたのだった。
「早くレギュラー入りしてーなー」
ジュンくんの隣でそう言ったのは、彼の中学校での最初の友人にして、サッカー部のチームメイトだ。二人ともジャージ姿で、大きな荷物を抱えて電車の座席に腰掛けている。休日の午後で、電車内は人が少ない。そのせいか二人の少年はすっかり気を抜いて、だらだらと話していた。
「試合の時暇だからな」
「そうなんだよなー。今日も応援するだけだったし。試合出たいぜ」
「でも金子ならレギュラーなれるよ。お前上手いし」
「他人事みたいに言うなよ。お前もレギュラーなれ」
「なれたらいいよな」
「なれたらいいよな、じゃなくてなるの。あれだよ、ブリザードシュート習得したらレギュラーなれると思う。頑張れ」
「漫画の技じゃん。お前が習得しろ」
「俺マグマスピンならできる。こないだちょっとマグマ出た」
「出たのかよ」
ジュンくんは笑った。彼が笑うと、隣の友人も笑う。中学生らしく、人目を憚ることのない気持ち良さそうな笑い声だ。
電車はガタンゴトンと規則正しく揺れる。窓の外には大きな河川敷が広がっていた。川が見えるということは、その路線でも大きい方の駅が近いということだ。ジュンくんの家はその駅のもう二つ先の駅の近くで、彼の友人の最寄駅はさらにもう一つ先。つまり、二人の別れは近かった。別れと言っても、どうせ翌日の朝にはまた顔を合わせるのだから、センチメンタルさはどこにもないのだが。
川が見える大きな駅に到着した。電車が停車し、ドアが開く。何人かの乗客が降り、また何人かの客が乗ってくる。ジュンくんは友人と駄弁りながら、何気なくその様子を目で追った。特に意味があるわけではなかった。ついつい、動いている者があるとそれを見てしまうというだけの話だった。だが、その行為は彼が最初に意図していたことよりもずっと大きな意味を、彼にもたらした。
「この辺俺の地元なんですよねー」
「そうなんだ。じゃあ実家に顔出すの?」
「いや、出さないっす」
フォーマル過ぎないブラウスとスカートを身につけた女性と、ワイシャツにスラックスを履いた男性。二人はきっと、どこかの会社で働いている大人なのだろう。それは何てことはない男女二人組だった。普通だったら、彼らはすぐにジュンくんの脳内で単なる風景の一部に組み込まれていた筈だった。でも、そうはならなかった。
「休日出勤で大変だね。イチノセくん」
ジュンくんの心臓の鼓動が、大きく高鳴った。鈍い痛みと、くすぐるような懐かしさとともに。背格好も、横顔も、声も、ジュンくんのよく知るそれだった。髪型と服装こそ違うが、間違いなくイチノセさんだ。ジュンくんは、今すぐこの場から逃げてしまいたいと思った。でも、非情にも電車のドアは閉まり、すぐにまた動き始めた。
彼は無意識に息を殺していた。イチノセさんに気付かれたくなかった。どんな顔をしていればいいのか、分からなかった。
幸いなことに、イチノセさんはジュンくんの座る座席からは離れたドアの前に立っていた。その上、一緒にいる女性と話すために、今はジュンくんに背を向ける格好になっている。ジュンくんは俯いて、ぎゅっと拳を握りしめた。しかし、耳だけはしっかり澄まして彼らの会話に集中する。
「仕事にはもう慣れた?」
「まだまだっすよ。オフィス入る時未だにちょっと緊張しますもん」
「ほんとに? もう君のデスクすっかり君の私物だらけだけど」
「会社が第二の家ですから」
「調子良いなあ。……そういえばさ、君のデスクにいつもちっちゃい卵置いてあるよね。あれ、何なの?」
「あー、あれですか。あれはプラチナ・エッグってやつらしいです」
ジュンくんの心臓に、強い電流が走った。一瞬時が止まってしまったかのように、ジュンくんの脳裏にイチノセさんと過ごした記憶が一挙に甦る。ドクン、ドクン。鼓動の度に胸が痛んだ。ジュンくんの心の奥にある、とっくの昔に鍵をかけた筈の部屋。そこの扉が少しずつ開いてきているかのようだった。
「プラチナ・エッグって、チョコエッグのおまけだっけ?」
「そうです。とんでもなくレアなやつですよ」
「へえ。それを当てたんだ?」
「いや、当てたのは俺じゃなくて友達です」
「そうなの? 友達からもらったってこと?」
「広義には、まあそうですね。……困った癖なんですけどねえ」
ドクン。ひと際大きく、ジュンくんの心臓が音を立てた。
ジュンくんは、イチノセさんにプラチナ・エッグをあげてなどいない。それどころか、プラチナ・エッグを手に入れたことを言った記憶さえ彼にはなかった。それなら、イチノセさんはジュンくんではない別の誰かからプラチナ・エッグを譲り受けたのか?
きっと、違う。
ジュンくんは確かな根拠もないのにそう思った。ジュンくんは、最後にイチノセさんと会って話をした後、プラチナ・エッグがポケットに入っていないことに気付いた。彼のプラチナ・エッグがなくなったのは、最後にイチノセさんと会ったその日だったのである。
それに、「癖」。ジュンくんは確かにそのことについてイチノセさんと話したことがあった。
「俺にもあったぜ、そういう『治さねえとやべーぞ』って言われた癖。実際そいつのせいで俺は何度か辛酸を舐めてきた」
結局、ジュンくんがイチノセさんのその致命的な「癖」を知ることはなかった。しかし今、ジュンくんはイチノセさんのその癖が何なのかを分かり始めていた。
『ある時、その人の本がなくなっちゃってね。どこにあるか知らないかって聞かれたんだけど、俺は知らないって答えた』
『でも、後で恋人は俺のバッグの中からその本を見つけた』
『……『拝借』したのは事実だよ』
『確認だけど、何か物を借りるということは、いつかは絶対に返すということだよな』
『俺は、その『返す日』になくなってもらいたくないんだ。分かるだろ?』
『……何かを返さなきゃいけないってことはだ。そのために、もう一度その人に会えるってことなんだぜ』
イチノセさんの声が、言葉が、ジュンくんの心の中で鮮明に甦る。そして全てを思い出し、悟った時、ジュンくんの心の部屋が開ききったのだった。埃まみれだったその部屋に新しい風が吹き込み、一挙に清涼な明るさが戻った。
——本当にひどい「癖」じゃんか。ジュンくんは心の中でそう呟いた。泣きたいのに、笑いたかった。俯いたジュンくんの肩が震えた。
「……おい、どうした?」
彼の友人が、心配そうにジュンくんの肩を叩く。彼はゆっくり顔を上げ、何でもないと返事をした。ジュンくんは話すべき言葉を持たなかった。ただ、心であまりにも多くの感情を迸らせるだけだった。
直後、電車が次の駅のホームに到着し、停車する。ドアが開いた時、あ、とイチノセさんが声を出した。
「ここ神野駅じゃん。先輩、俺たち電車間違えてますよ」
「え、ほんと? ……ああー、逆の電車乗っちゃったんだ」
「降りましょう」
二人は慌てて電車を降りて行った。イチノセさんの話し声が、どんどん遠ざかっていく。その時ジュンくんは顔を上げて、車窓からイチノセさんが歩いていく姿を目で追った。今この瞬間を逃してしまえば、もう二度とイチノセさんには会えないだろう。そう分かっていたのに、ジュンくんの足は動かなかった。何と話しかければいい? 彼は自問した。「プラチナ・エッグ返して」。そう言ったら、きっとイチノセさんは笑ってプラチナの卵を返してくれるだろう。でも、そうしたら……そうしたら。
ジュンくんは、壊れてしまいそうなほどじっとイチノセさんの背中を見つめ続けた。やがてその背中がホームの階段へと消えてしまうまで、ずっと。
電車のドアが閉まった。のろい速度で電車が動き出し、駅のホームを出た後も、彼はイチノセさんがいるであろう方向を見つめるのをやめなかった。
最寄駅で電車を降りたジュンくんは、イチノセさんと会っていた公園へ向かっていた。そこにイチノセさんがいる筈もない。それなのに彼は、いつもの公園へ行けば、またあの頃と何も変わらないイチノセさんが待っているような気がした。
公園の近くまで来て、ジュンくんはそこがかつて思っていたほど広くはないことに驚いた。中学校の大きなグラウンドに慣れたからか、ジュンくん自身が大きくなったからか。どちらにせよ、いつもの公園が前ほどジュンくんにとって親しみのある場所ではなくなってしまったことは間違いない。
公園の入り口の向かいに建った家の表札は、もう「長谷」ではなくなっていた。公園の遊具はジュンくんの知っているものと違いなかったけれど、どうしてか色褪せて見えた。公園で遊ぶ子どもたちも、やけに幼く感じられる。
変わってしまったことも、変わっていないものも、どれもジュンくんから遠のいてしまったようだった。そして全てにおいて、前と全く同じということはなかった。物理的にはほとんど変化がないにしても、それを見るジュンくんは確実に成長し、変わっていた。一年半という年月は長い人生の中では一瞬のようなものだが、その時間にジュンくんの世界を見る目は着実に変化していたらしい。公園は、変わらずそこにある。ただ、それを通り過ぎていくのはジュンくんなのだ。ジュンくんは、かつてイチノセさんが、自分もジュンくんも変わる、と言った意味がようやく分かったような気がした。
ジュンくんは楽しそうに遊ぶ子どもたちの喧騒の中、いつも座っていたベンチに座った。そのベンチからは、公園を囲むように植えられた桜の樹々がよく見えた。今は青々とした葉を茂らせている桜の樹。でも、目を閉じれば、彼は満開の花を咲かせる桜を想像することができた。小学校に上がってから、毎年見ていた桜だ。とはいえそれは不鮮明な記憶で、細部までは思い出せない。記憶の中のイメージは、現実ほど確かなものでもなければ、誤っている部分もきっと多いだろう。所詮は記憶なのだから。それでもジュンくんは、その記憶の中の桜を美しいと感じた。
薄青の空に舞う、儚い桜の花びら。あの時、ジュンくんは空を仰いで、花びらが風に飛ばされていくのを眺めていた。でも、段々と視界が滲んでいく。結局、上を向いても涙は止まらず、彼は幻想的な花吹雪の中で肩を揺らして泣き出した。花びらはやさしく彼の肩を撫でたが、それは慰めにはならない。ジュンくんは項垂れて嗚咽を漏らした。
どれだけ時間が経った頃だろう。ふと、ジュンくんの目の前に影がさした。慌てて涙を拭いて顔を上げれば、そこには見慣れない青年の姿があった。無造作な髪に、よれよれのシャツを着た冴えない青年。栄養状態があまり良くないのか、体全体が骨ばって見えた。感情の読み取りづらい目をしていたけれど、三色団子を頬張る口元のおかげで全体的にひょうきんな印象が先行していた。
「うめー」
突然発された声に、ジュンくんはびくりと肩を震わせた。だが、花粉症の影響でやや鼻声のその声は、どういうわけか妙に耳馴染みがよかった。そのせいか、ジュンくんは突然現れた不審者と言ってもいい人物から逃げようとは思わなかった。
青年は躊躇なしにジュンくんの隣に腰掛けた。ジュンくんは当然身構えたけれど、青年は特に何もしてこない。それどころか、三色団子に夢中でジュンくんなど眼中にない様子だ。それでジュンくんは居心地の悪さを何とかしようと、彼にしては珍しく、本当に珍しく、青年に向かって話しかけた。
「誰ですか」
「俺?」青年は口をもごもごさせながらジュンくんを見やる。
「イチノセ」
その名前にはなぜか不思議な説得力があった。彼がイチノセと言うのなら、彼はイチノセでしかないのだろう。イチノセ。イチノセさん。その名前が、ジュンくんの胸にすとんと落ちて、馴染んでいく。
「思い出したよ」イチノセさんが桜の樹を眺めながら言う。
「春ってこんな風だったな」
宙に伸ばされたイチノセさんの手のひらに、桜の花びらがのった。
「桜が咲いて散る度、思い出すよ。忘れてもまた思い出すもんだね。桜は何度でも春を教えてくれるんだな」
しみじみとそう言うイチノセさんの声を耳の奥で聞きながら、ジュンくんはゆっくりと瞼を押し上げた。視界に広がるのは、抜けるような青空と、風に揺れる青葉。儚く美しい桜の花びらは、どこにもない。でもきっと、また冬を越した後に桜は花開いて、散り際に春の訪れを教えてくれるだろう。そして、何度忘れたとしても、また思い出させてくれる。
高い空の彼方、飛行機が飛んでいく。空に引かれた飛行機雲を見つめながら、ジュンくんは小さく微笑んだ。「イチノセさん」の物語は、まだ終わっていない。
*
<イチノセさんが宮野のお母さんと別れてから一年後、イチノセさんは彼女が心臓発作で亡くなったことを宮野の叔父さんから聞く。宮野のお母さんはイチノセさんの連絡先をメモしておいたのだった。宮野の叔父さんが彼女の遺品を整理していた時に、そのメモに気付いたんだ。
「名前も知らない私の息子」。
メモにはそう書かれていた。そのことを聞いたイチノセさんは、救われると同時に、ひどく傷ついた。宮野のお母さんからの愛情を受け取るだけの資格が、自分にはないと思っていたから。それに、お礼を言いたくても、もう宮野のお母さんはこの世のどこにもいない。
そうして大きな悲しみに襲われたイチノセさんは、会社を休んで、あてもなくさまよい始めたんだ。何日も飲まず食わずでふらふらと街を歩いた。やがてイチノセさんは力尽き、歩道橋の階段でふらついて転落した。イチノセさんは頭を強く打ち、大怪我を負う。でも、偶然そこを通りがかった小学生の男の子が救急車を呼んでくれたおかげで、イチノセさんは助かるんだ。
病室で目覚めた時、イチノセさんは全てを忘れていた。自分がどこから来たのかも、今している仕事のことも、宮野のことも、宮野のお母さんのことも、自分が犯してしまった過ちのことも、何もかも。
イチノセさんが知っていたのは、イチノセさんがイチノセさんという名前であるということ、そして、自分を助けてくれたのが、ジュンという名前の少年だったということだけ。
イチノセさんは、「ジュン」という名前を絶対に忘れないだろう。自分を助けてくれた、恩人だから。ジュンの方も、イチノセさんのことを絶対に忘れない。ひょろひょろで、薄汚い服を着ていて、しかも頭から大量の血を流していたイチノセさんのことを、忘れるわけがない。二人がこの後再会することは多分ないだろう。絶対ないとは言えないけれど、でも多分ない。なぜなら世界はとても広いから。
だけどそれは何の問題でもないんだ。イチノセさんとジュンは、お互いのことを絶対に忘れない。
たとえ、これからイチノセさんが全てを思い出しても、ジュンがこれから先どれだけ大変な思いをしようと、それは変わらない。一瞬でも、二人がこの広い世界で交わった思い出は、決して消えることがないから。>