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イチノセさん  作者: 池野瑛
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五、友達

 「『運良く』『思いがけず』得した時、人は何とも言い難い幸福感を得る」とは、著名な哲学者の格言……などではなく、しがない青年・イチノセさんによる何気ない思いつきで放たれた言葉だった。


 人は多かれ少なかれギャンブルを好む傾向にある。楽をして大きな利益を出すことができるなら、わざわざ手堅い結果のために手堅い努力をする必要もない。もちろん小さな努力の積み重ねは美徳だが、堅実は人を飽きさせる。だから結局は誰しも皆、人生に一度くらいは何かしらのギャンブルに己の運を賭けてしまうのだ。


 ジュンくんもその一人だった。彼はたった今、人生における大きな賭けの一つに勝利したばかりである。彼は隠しきれない興奮を顔に湛えて、古ぼけた小さな駄菓子屋の扉から姿を現した。彼の左手からは食べかけのチョコエッグが顔を出し、右手の方には、白金色に輝く小さな「卵」が握られている。


 それは、日本有数の製菓会社が発売するチョコエッグの「大当たり」だった。かつてイチノセさんがでっちあげた「ゴールドぴょんこちゃん」などとは違う、本物の「当たり」だ。そのチョコエッグは中に小さなキャラクターのフィギュアが入っているものなのだが、十万個に一個だけ、チョコエッグの中にプラチナでできた小さな卵が入れられている。その「プラチナ・エッグ」こそが一番の大当たりであり、今ジュンくんが手に握っている白金色の卵なのだった。


 ジュンくんは、放課後に祖母からおつかいを頼まれた帰りに、「余ったお金でお菓子でも買ってきなさい」と言われたことを思い出し、駄菓子屋へ寄った。それほどお菓子に詳しくないジュンくんではあったが、例のチョコエッグの中には稀にプラチナの卵が入っていることがあると言う話は聞いたことがあった。同級生の中でも度々その話題は上がっていたし、テレビのコマーシャルで見聞きしたこともあった。つまり、数ある駄菓子の中でもジュンくんが一番よく知っていたのがそのチョコエッグだったというわけだ。


 チョコエッグを開けてみるまで、ジュンくんはまさか当たるわけはないだろう、と頭の中で繰り返していた。しかしシニカルに徹することもできず、どうしても彼の思考回路の至るところで「もしかしたら当たるかもしれない」という期待が滲み出ていた。そして、本当にチョコエッグの中からプラチナ・エッグが出てきた時、彼の思考回路はショートした。自分の見ている世界が現実なのかと疑いすらした。実際、彼はこういう場面ではお決まりの、「頰をつねる」という行為までやってのけた。


 ジュンくんは驚愕していたと同時に、いたく感激してもいた。何かを期待して裏切られることはあっても、膨らんだ期待の分だけ大きな見返りをもらえた試しはほとんどなかった。それもまさか、十万分の一の確率を自分が掴み取るとは思っていなかったのだ。


 そうして彼は、冒頭のイチノセさんの言葉を思い出すに至る。努力して何かを手に入れることができた時だって、もちろん嬉しい。彼のそんな考えは今でも変わらない。だが、こういう思いがけない瞬間的な幸運がそれを凌駕しうることを、彼は身を持って学んでしまったのである。たくさんテスト勉強をした結果良い点が取れるのは、ある意味予期できること。それだって嬉しいには違いないのだが、プラチナ・エッグを手にした今、ジュンくんはそうした喜びはこの興奮には敵わない、と思っていた。


 そういうわけで、ジュンくんは早くプラチナ・エッグのことをイチノセさんに教えてあげなければ、という思いに駆られた。ゴールドぴょんこなんていう偽物ではなく、れっきとした本物を自分は手に入れたぞ、と勝ち誇りたいという気持ちもあったが、それ以上にこの嬉しさをイチノセさんと共有したかったのである。


 そうしてジュンくんは急いで家に帰って買い物袋を祖母に渡すと、すぐに軽やかな足取りでいつもの公園へと向かった。だが、その日は結局イチノセさんは姿を現さなかった。ジュンくんとしては、嬉しかったことは新鮮なうちに話しておきたいという気持ちが強かったが、夏の終わりの夕方は肌寒い。彼は諦めて家に帰ることにした。


 しかしその帰り道で、ジュンくんは到底信じられないものを目にする。

 それは、スーツを着たイチノセさんであった。


 ジュンくんはそれを見るなり、反射的に長方形型の大きなゴミ箱の裏に身を隠した。辺りは薄暗かったので、坂道を降りてこちらに向かってくるイチノセさんはジュンくんには気付いていない。ジュンくんは息を殺してイチノセさんが通り過ぎるのを待った。彼は、早く、早く、と念じた。だが、そうすればするほど、イチノセさんの足取りは重く、鈍くなっていくような気がする。時の流れがやけに遅かった。


 ようやくイチノセさんがゴミ箱を通り過ぎ、角を曲がってトンネルの向こうへと消えた時には、ジュンくんはすっかり汗ばんでいた。何かとんでもないものでも見てしまったようなバツの悪さが、延々とジュンくんの胸の中を蝕んでいく。


 ほんの一瞬だったが、ジュンくんは確かに見た。イチノセさんがスーツを着て、つま先がやや尖った革靴を履いている姿を。おまけに彼は、若者がよくするように、耳にブルートゥース・イヤホンをつけていた! ジュンくんは不気味なものでも目にしたかのように小さく身震いをした。あれこそ、ジュンくんの知らないイチノセさんの、究極の姿だった。


 平日の昼間からフラフラ公園に現れて、毎度毎度適当な話をしてくれるイチノセさん。いつも脱力していて、でもなんだかんだやさしいイチノセさん。ジュンくんは色々なイチノセさんの姿を思い浮かべた。でも、サラリーマンをしているイチノセさんだけは、どうしてもしっくりこない。それはイチノセさんじゃない、とジュンくんの本能が訴えている。


 やはり、無職じゃないイチノセさんは、イチノセさんではないのだろうか?

 そうだとしたら、なぜ?

 ジュンくんは考えた。考えても分かりそうもない問題だった。でも彼は、考えた。

 そうして、もしかしたら自分は寂しいのかもしれない、と思った。


     *


 <その後、イチノセさんは大学を卒業した。宮野のお母さんの希望通り、イチノセさんは日本の大企業に勤めるようになる。俳優の夢は諦めてしまった。自分の夢を追い続けるよりも、人のためになることをしよう。イチノセさんはそんな言葉を頭の中で繰り返していた。


 宮野はあれからも大学に全く来なかった。噂では、大学をやめてしまったとか。イチノセさんは、きっと本人の望む通り海外へ出たんじゃないかなと思っていた。最初は宮野のことを一日に何度も考えていたイチノセさんだったけれど、三年も宮野のお母さんと一緒に暮らしていると、宮野のことが段々と心から消えていくようだった。宮野に追いかけられたり、宮野のお母さんに包丁で刺されたり、という悪夢を見るほどだったのに、今では罪悪感も焦りも、最初からなかったかのように、イチノセさんの心は平坦になっていた。


 イチノセさんは自分がイチノセさんだということを、段々と忘れていった。会社では当然イチノセと呼ばれていたけれど、イチノセさんにとっては同僚や先輩よりもずっとずっと宮野のお母さんの方が大切になっていた。宮野のお母さんが、宮野と二人だけの世界を望んだように、イチノセさんも宮野のお母さんと二人だけの世界を望んだ。本当は宮野のお母さんがイチノセさん本人のことを見てはいないと分かっていたけれど、そのことは考えないようにした。イチノセさんは、自分が宮野なんだ、と信じ込むようになっていたんだ。


 そうして二人は偽物の穏やかな日々を過ごしていた。でも、イチノセさんが二十四歳の時、宮野のお母さんの部屋を掃除した時に、偶然棚の裏に隠してあった何かの鍵を見つける。そこでイチノセさんは、宮野の部屋の机には、一つだけ鍵がかかっていて開かない引き出しがあったと思い出した。それで宮野の部屋に行って、その引き出しを開けてみることに。


 引き出しの中からは、茶封筒が出てきた。てっぺんの部分がハサミで切り取られているから、既に開封されていたものだと分かった。中を見てみると、シンダンショが入っている。イチノセさんは、そこに書かれていた病名を読んで、心臓が止まりそうになった。


 宮野は、重い病気にかかっていた。そういうことに詳しくないイチノセさんでも知っているような難しい病気だ。日付はちょうど三年前、イチノセさんが宮野と知り合った頃だった。イチノセさんの頭の中で、真実に近づくための歯車がゆっくりと動き出した。


 知りたくない。


 イチノセさんはそう思った。背中をつうと冷たい汗が流れていった。


 知りたくない、知りたくない。


 そう思えば思うほど、イチノセさんの頭に浮かんだある考えはどんどん大きくなっていった。知りたくないのに、ここまで来たら知らないでいることなんてできない。イチノセさんはそう感じた。


 そして、イチノセさんは机の引き出しの中をさらに漁ってみた。宮野の証明写真やら、大事なものだったのだろう絵ハガキやら、本当に色々なものが出てきた。だけど、最後に見つけた点字の手紙より、イチノセさんの心を揺さぶるものはなかった。


「僕は大学を辞めて海外に勉強しに行きます。自分の夢を諦めたくないのです。叔父さんたちの了承は得ています。お金は叔父さんの援助と、自分のアルバイト代から何とかしています。勝手でごめんなさい。ここにこれから来てもらう家政婦さんの電話番号を記しておきます。どうかお元気で。愛しています」


 点字の手紙には、そう書いてあった。点字の辞書を引きながら、必死な思いで内容を読み終えたイチノセさんの目からは、涙が溢れ出ていた。時間が経って、すっかり消えたと思った罪悪感が、またすごい勢いでむくむくと膨らんでいった。


「宮野はきっともうこの世にはいないんだ」


 イチノセさんはそう確信した。最後にもらった宮野のメールの内容や、大学に一切来なくなった宮野のことを思い、イチノセさんは自分が嫌で嫌で仕方なくなった。


『僕はもう家には帰らないと思う。それでも大丈夫なように色々手配はしたけど、もし君さえよければ時々母さんのところへ話しに行ってくれると嬉しい』


 帰らない、じゃなくて、帰れないんじゃないか。海外に行くだなんていうのも嘘じゃないか。イチノセさんの目からは涙が止まらなかった。全部全部、嘘なんじゃないか。


 宮野は最期までお母さんのことを愛していた。心から気にかけていた。だからこそ、自分が死んだらお母さんがひどく悲しむだろうと思って、嘘を突き通すことを決めたんだ。


 だけど、宮野のお母さんは宮野の嘘に気付いていた。だって、宮野のお母さんの部屋から、この引き出しの鍵が見つかったんだ。宮野のお母さんは宮野が既にここにいないことを知っていた。それなのに、イチノセさんが宮野だと信じている振りをしていた。


 宮野のお母さんは、一体いつからイチノセさんが宮野ではないことに気付いていたのだろう。イチノセさんはショックだった。頭が真っ白になった。


 確かに、考えてみれば思い当たるところはあったし、長く一緒に暮らしていて宮野のことを知り尽くしている宮野のお母さんが、いくら目が不自由だと言っても他人に気付かないわけはない。目が不自由だからこそ、他の感覚が鋭くなる。そういう話を、イチノセさんも知らないわけではなかった。でも、それを考えないようにしていただけだった。


 やさしい嘘をついた人。

 やさしい嘘に騙されたふりをした人。

 やさしい嘘に守られた人……。


 イチノセさんの頭と心を、本当に色々な感情が駆け巡った。辛いのか、悲しいのか、怒っているのか、申し訳ないのか……イチノセさんには何も分からなかった。ただ、その幸せな家から逃げ出したいと自分が思っていること以外は、何も。


 そうして、イチノセさんは泣きながら宮野のお母さんに全てを話して、謝った。彼女はイチノセさんを慰めようとしたが、イチノセさんはただただ謝るだけ謝って、家を出て行った。それから、イチノセさんと宮野のお母さんが会うことは二度となかった。


 ——二人がその後どうなったのかを知る人は誰もいない。それが、この物語の結末。>


     *


「……それで終わり?」

「うん。これで全部、終わり」


 ジュンくんは、ぴしゃりと撥ねつけるように言った。多くの子どもたちが自由に遊んでいる、いつもの公園。走り回りながらわあわあと歓声を上げる子どもたちを尻目に、ジュンくんは重々しい表情で押し黙った。イチノセさんはそんなジュンくんをそっと窺い、大切なことを確認するように言った。「これは、バッドエンドなのかな」


 ジュンくんはむっつりと黙ったままだ。イチノセさんは仕方なく、青空を見上げた。真夏の頃より少し色褪せたように見える薄青の空を、雲が疎らに流れていく。雲の動きは速かった。風がやや強いせいだ。


 イチノセさんは空を、ジュンくんは地面を見ている。随分長い間、二人の視線が交わることはなかった。そして、ジュンくんはイチノセさんの方を一切見ようとせず、まるで地面を歩く小さな小人にでも話しかけるように、ぼそぼそと不明瞭な発音で言った。


「イチノセさん、サラリーマンになるの」

「え?」イチノセさんは意表を突かれたらしく、頓狂な声を上げた。

「なんで?」

「この前スーツ着てるとこ、見たから」


 イチノセさんは顎を触りながら沈黙した。顔の表情にこそ出ていないが、足が小刻みに揺れている。思い当たる節があって、そわそわしているようだった。そして、気まずくなるほど間が空いてから、彼は言った。


「ジュンくんは、俺が普通に働いていたら嫌?」

「……別に嫌じゃねーけど」


 しかしその声には、強がりと不貞腐れのニュアンスが多分に含まれていた。いつものイチノセさんだったら、分かりやすい嘘ついちゃって、なんてにやついてからかってきただろう。ジュンくんは、そうしてくれたらいいのに、と思った。子どもっぽい虚勢を張るジュンくんを、いっそ笑い飛ばしてくれた方が楽だった。でも、イチノセさんは真剣な顔をしていた。そして、ジュンくんには見えない何かと静かに格闘するように、じっと虚空を見つめる。ジュンくんはまだ、俯いたままイチノセさんが茶化してくるのを待っていた。待てば待つほど、彼は泣きたくなった。でも、イチノセさんの方を見ようとは絶対にしなかった。


 不意に、イチノセさんがジュンくんの頭に手を置いた。慣れない手つきで、くしゃりと髪を撫でる。そうして、ほんの幼い子どもをあやすように、イチノセさんはジュンくんの顔を覗き込んだ。ジュンくんはすぐさま顔を逸らそうとしたが、イチノセさんはジュンくんの頰を片手でむぎゅっと掴んでそれを阻止する。


「なにするんだよ」頬を掴まれて唇が上手く動かず、ジュンくんはくぐもった声で言った。


 するとイチノセさんはふっと破顔した。ジュンくんは驚いた。それは確かにきれいな笑顔だった筈なのに、どうしてかくしゃくしゃの泣き顔にも見えたからだ。


「俺はだな」イチノセさんは照れ臭そうに、だがおちゃらけに頼らない真摯な口調で言う。

「俺は、たとえどれだけジュンくんが変わったとしても、君を応援し続けるよ。君が大人になっても、生き方を変えても、ジュンくんはジュンくんだからな」


 それは、ジュンくんにとって嬉しい言葉の筈だった。それなのに、彼は全く嬉しくない。まるでイチノセさんが本当に遠くへ行ってしまうみたいだったからだ。


 いつも、こうだ。ジュンくんは思った。いてほしくない時にはいるくせに、いてほしい時にはいてくれない。イチノセさんって、いつもこうなんだ。


 ジュンくんの目から涙が溢れた。


「変わらなくていいじゃんか。ずっとこのままでいればいいのに」


 ジュンくんは変わってほしくなかった。イチノセさんにも、自分自身にも、この世界にも。イチノセさんは大人だったけれど、子どもでもあった。だからジュンくんと一緒に、広すぎる空の下でぼんやりと過ごすことができた。柔らかな停滞の時間を、楽しむことができた。しかし、イチノセさんが一足先に大人になってしまったら、ジュンくんは一体誰とこの公園で過ごせばいいのか? ジュンくんはもう、イチノセさんを知る前の自分がどうやって放課後暇な時間を潰していたのか忘れていた。


 こんなことなら、最初からイチノセさんになんて出会わなければよかった。ジュンくんは思った。


「ずっとここにいればいいじゃん。おれもここにいるから。だから、だから、イチノセさんも変わんないでよ」

 嗚咽混じりの声が、精一杯の力で訴えかける。だが、イチノセさんはただ無言でジュンくんの頭をそっと撫でた。やめろ、と睨みつけてやりたいところだったけれど、ジュンくんはそうできなかった。涙で濡れた目をイチノセさんに見せるわけにはいかなかった。


 イチノセさんはジュンくんの頭を撫でながら、諭すようなやさしい声で言った。


「絶対変わるよ。俺もジュンくんも」


 その言葉が、決定打となった。ジュンくんにはその言葉が二人の糸をぷつんと断ち切ってしまう鋭い刃のように思えた。


「そんなに、おれと一緒にいるのが嫌になったんだ」ジュンくんは声を詰まらせた。

「……おれだって。おれだってもうイチノセさんのことなんか嫌いだ!」


 いつもの癇癪の時よりひどい金切り声を、ジュンくんはあげた。だが、イチノセさんは何も言わない。そう怒るな、とも、嘘だろ、とも何も。ただ、何を考えているのかまるで分からない表情で、彼はジュンくんを見つめていた。


 イチノセさんは一度、何か言いたげに口を開いた。しかし結局、彼の口から言葉が出てくることはなかった。

 ジュンくんは、どうしたって抑えきれない、抱えているだけで苦痛なその怒りをどうにかしたくて、激しく地団駄を踏んだ。地面が仇ででもあるかのように、憎悪と狂気に近い感情をもってして。


 それでも、イチノセさんは何も言わなかった。何か言いたいと思っているのかさえ、分からなかった。あまりにもイチノセさんが何も言わないせいで、ジュンくんの心は怒りよりも悲しみの方に振れていった。イチノセさんはジュンくんのことを分かってくれていない。そしてジュンくんもまた、イチノセさんのことがまるで分からなくなっていた。


 彼は大粒の涙を降らせながら、独り言のように呟いた。


「嫌いって言われても怒んないのかよ」


 そして実際に彼は、その言葉がイチノセさんに届いたとも思わなかった。


「ほんとに、おれのことなんかどうでもいいんだ」

「……」

「二度とあんたになんて会うもんか!」


 そこまでが、ジュンくんの限界だった。彼は乱暴に手の甲で目をこすって、くるりとイチノセさんに背を向けた。そして脇目も振らずに駆けていく。もうイチノセさんのことなんか忘れてやる、と思った。何度も何度も、忘れてやる、と念じ続けた。


 必死に走って、涼しい風がジュンくんの髪をさらう度、憑き物が落ちたような気がする。でもそれは「気がする」だけで、次の瞬間にはまた、黒くて重い化け物の手が彼の足を掴んで影の中へと引き摺り込もうとしてきた。


 影の中に沈まないよう、ジュンくんは必死でもがいた。まるで体が自分のものではないみたいだった、心さえ自分の知らない遙か遠いところへ飛んでいってしまったような感じがした。でもそれでも彼は走り続けた。走って、走って、走った。


 そうしてようやく見慣れた一軒家の前に辿り着いた時、ジュンくんはほとんど虚脱状態だった。涙も出ず、笑えもしない。抜け殻のようになった彼は、自分がどうやって玄関で靴を脱いだのかさえ覚えていなかった。気がつくと、彼は二階の自室のベッドに横たわっていた。そして、はっとした。ズボンのポケットにあった筈の感触が消えている。彼はそこでやっと我に返って、慌てて服のありとあらゆるポケットをひっくり返した。そしてそこに目的のものがないことを悟ると、今度はランドセルの中と、机の引き出しの中まで調べた。しかし、それでも見つからない。ジュンくんはばたりと仰向けにベッドに倒れこみ、静かに目を閉じた。


 イチノセさんに見せようと思っていたプラチナ・エッグ。最高の幸運の証。それを一人で秘密にしているよりは、二人で分け合った方がずっと楽しいだろうと彼は思っていた。そうしたら、きっと幸せも二倍になると思っていた。


 でも、今、プラチナ・エッグはもうどこにもない。


 走っている最中に落としたのかもしれない。もしそうなら、公園から家までの道を探せば見つかる可能性もある。だが、ジュンくんはプラチナ・エッグを探そうとは思わなかった。


 どうせ、見つかりはしない。


 ジュンくんはブランケットを頭まで被り、胎児のように小さくなった。

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