四、本当
あの雨の日から、イチノセさんはいつもの公園に現れなくなった。ジュンくんは可能な限り公園に足を運んだのだが、晴れの日だろうが雨の日だろうが、イチノセさんは姿を現さなかった。ジュンくんはまず、イチノセさんがジュンくんの傘を盗んで売り飛ばそうとしたのではないかと思ってぷりぷりした。イチノセさんが死んでしまったのではないかと思い、心配をした。だが、時間が経つにつれ、それよりももっと可能性の高い考えに行き当たるようになる。つまり、イチノセさんはジュンくんと話すのに嫌気が差して公園に来なくなったのではないかということだ。
イチノセさんと最後に会った時のことを考えると、ジュンくんはまず最初にイチノセさんの穏やかな眼差しを思い出す。それから次に、イチノセさんの一切揺らぎのない声を。いつも通りのイチノセさんではあったのだが、思い返してみればそれはイチノセさんではないような気がしていた。
ジュンくんの知らないイチノセさんがいる。それはジュンくんとて分かっていることだった。だからこそ彼はイチノセさんについて知らない部分を想像で補おうとしたのだ。でも、それは単に知識として知らない部分があったということだ。年齢や職歴はその人を知る上で重要なピースではあるけれど、それは人の本質にはなり得ない。ジュンくんはイチノセさんの年齢も職歴も表面的なことは何も知らなかったものの、彼の本質については心得ているつもりだった。でも、実際にはジュンくんはイチノセさんの本質を履き違えていたのかもしれない。彼はそんな気がしてならなかった。
そして一番重要なのが、イチノセさんを誤解していたという事実よりも、そのことによってイチノセさんを失望させやしなかったかということだった。そう思うと、ジュンくんはイチノセさんと顔を突き合わせるのが怖かった。
ジュンくんは何度も公園に行くのをやめようとした。イチノセさんに会うのを怖がりながら、それでも彼が公園にいてくれたら、と期待を寄せて公園へ向かう——そして、その期待が見事に裏切られるまでの一連の流れは、ジュンくんをひどく疲れさせたからだ。たかだか一時間やそこらの時間で、一年分の感情の起伏を一気に味わわされた気分だった。
それでも、ジュンくんは結局時間が許す限りは公園へ赴いて時間を過ごした。それは、もし自分が公園へいなかった間にイチノセさんが来ていたら、と思うとどうにも心が疼いたからだ。
そしてそうこうしている間に梅雨が開け、夏休みが始まった。宿題以外にやることがないせいで、ジュンくんの憂鬱はさらに密度を増していった。ただでさえ彼の身の回りにはすっきりしないことが多かったというのに、気楽でいられたイチノセさんとの場でさえ一種の重荷になってしまって、ジュンくんとしてはイチノセさんを思い切り罵倒してやりたくもなった。
だから、七月がもう終わろうかというある日——その日は雲は出ていたが太陽の光は存分に感じられる夏らしい天気だった——イチノセさんが公園のいつものベンチに腰掛けているのを見つけた時、ジュンくんは思わずイチノセさんの背中めがけて砂を投げつけた。
「うわっ」イチノセさんは驚いて立ち上がり、砂を払った。
「何するんだよ」
それは呆れるほどジュンくんのよく知るイチノセさんだった。ジュンくんの方はというと、久しぶりに会うイチノセさんに人見知ってしまっていたというのに。
「何でずっと来てなかったんだよ」
「風邪引いてた」
「嘘つけ!」
ジュンくんは顔を赤くして(それは暑さのせいでもあったが)、地団駄を踏んだ。ジュンくんは本気で怒り始めていた。そんなに長い期間ずっと風邪を引いていたとは考えにくい。もし本当に体調を崩していたのだとしても、ここまで長引いたのならそれは最早ただの風邪ではないだろう。
ジュンくんの、自分は失望されたんじゃないだろうかという懸念は、今目の前であくびをかますイチノセさんによって見事に霧散した。しかし、イチノセさんに気を悪くした様子がなさそうだということは、ジュンくんがイチノセさんを誤解していなかったということの証明にはならない。ジュンくんはすぐそこにいるイチノセさんをどこか幻のように感じながら、恐る恐るいつものベンチに腰掛けた。イチノセさんもそれを見て、ベンチに座り直す。
「元気だったか、boy」
「boyって何だよ!」
「I was looking forward to seeing you again」
「は? 本当かよ」
ジュンくんは訝しげな目をイチノセさんに向けた。だがイチノセさんをそれに構わず続ける。
「Are you on summer vacation now?」
「yes. ってそんなのどうでもいいよ! 何でずっと英語なわけ?」
「時代はグローバルだ。俺もEnglish speakerになろうと思ってな」
「ダサい……」
ジュンくんにそれ以上の言葉は思い浮かばなかった。前々からよく思いつきで行動をするイチノセさんではあったが、ここまで陳腐な言動はジュンくんの知る限りでは初めてである。
身構えていた分、ジュンくんは肩透かしを食らったような気がして複雑だった。それに、イチノセさんがいわゆる「意識の高い」発言をするのにはどうしても違和感があった。ぎこちなくて、少し無理をしているように見える。
「……イチノセさんって変なの」
「そうか? まともなこと言ってるだろ?」
「まともって何だよ。全然似合ってないし」
「おいおい。ジュンくんが『仕事見つけろ』って言うから俺もまともに職探ししようかと思ったのに」
ジュンくんは思わず前のめりになった。「職探ししてるの? 本当に?」
「いや、まだだけど。いずれはする」
「いずれって」ジュンくんは大げさにため息をついて見せた。
「それ、一生しないやつじゃん」
「じゃあ明日からやる」
「それも絶対しないやつ!」
イチノセさんは声を出して笑った。表向き呆れてみせたジュンくんだったけれど、本当は少しほっとしていた。何でほっとしているんだろう、と考えて、彼は少し前にイチノセさんと話した時のことを思い出した。
『俺の癖はともかく、ジュンくんのカンシャクがなくなったら俺は寂しいぜ。ジュンくんと言ったらカンシャク持ちっていうところがあるからな』
『……それ、イチノセさんと言ったら無職、みたいなこと?』
それでジュンくんは考え込む。イチノセさんが無職ではなくなったら、イチノセさんはイチノセさんではなくなるのだろうか。いや、もちろんイチノセさんはイチノセさんのままだろうけれど、それでも確実にジュンくんが慣れ親しんできたイチノセさんではなくなってしまう。
「……変わんなくていいのに。イチノセさんのままでいればいいのに」
ジュンくんは浮かない顔でそう言った。するとイチノセさんは怪訝そうに返答する。
「まあ特に婿入りする予定もないから俺はイチノセのままだと思うけど……」
「そういうことじゃない!」
イチノセさんは肩をすくめ、口を歪めて変な顔をしてみせた。
「もし俺がサラリーマンだったら、俺はイチノセさんじゃなくなる?」
その言葉に叱責のニュアンスはなかった。ただ、興味本位放たれた何気ない会話のボール、といった具合だった。しかし、ジュンくんはそのボールを鉄球のように重い何かに感じた。かろうじて受け止めたものの、どう返せばいいものかと躊躇ってしまう。
「……サラリーマンのイチノセさんなんて、想像できないよ」
そうしてジュンくんが投げたボールは、弱々しく飛んで行った。イチノセさんがキャッチすることはないかもな、と彼は思ったが、イチノセさんはにっと笑って頷いた。
「俺も想像できないぜ」
イチノセさんはそれきり鼻歌交じりに空を見上げ、ぼんやりし始めた。いつもならジュンくんもそれに倣うところだが、今日はどうも胸のもやもやが気になって仕方ない。
ジュンくんは、イチノセさんの本質を分かっているつもりだった。でもそうではないような気がした理由が、今分かったかもしれない。職業はその人の本質ではない。それなら、イチノセさんが無職だろうとサラリーマンだろうと、イチノセさんは確かにイチノセさんのままの筈だ。でも今、ジュンくんはサラリーマンのイチノセさんはイチノセさんではないと思ってしまった。ということは、ジュンくんはイチノセさんの本質を全然分かっていないということになる。まさか、イチノセさんの本質が無職であること、なわけがないのに。
ジュンくんは難しい顔をしてうんうんと考え込む。イチノセさんはその様子を面白がって肩を小突いてみたが、ジュンくんから猛反撃に遭ってすごすごと手を引っ込めた。
「何だよ。何に悩んでんの?」
「別に悩んでない。考えてただけ」
「何を?」
「イチノセさんの本質について」
イチノセさんは噴き出して、そのままむせてゴホゴホと勢いよく咳き込んだ。ジュンくんは苦しむイチノセさんを白い目で見ながら言う。「何がおかしいの」
「おかしいだろ! 何でジュンくんが俺の本質を考えるんだ」
「考えちゃダメかよ?」
「別にダメじゃないけどさあ……どっちかっていうと、それは本人の俺が考えるべきことなんじゃないの?」
「じゃあ、おれはイチノセさんじゃなくておれの本質を考えた方がいいってこと?」
「そうは言ってねえけどさ」
イチノセさんは困り果てたように眉を下げた。「難しいことを言うよなあ、ジュンくんは」
「別に難しくないし」
ジュンくんは不満げに地面の砂を靴のつま先でぐるぐるといじり回した。何匹かのアリがそれに巻き込まれていったが、程なくしてアリたちはジュンくんの靴の下から這い出てきた。ジュンくんはアリたちを踏み潰してやろうかと一瞬思いついたが、アリたちが自分の何百倍もの重さの物体によってぺしゃんこになるのを想像するとぞっとしてすぐにやめた。
その間、イチノセさんは一応ジュンくんの言ったことを考えていたらしく、彼はゆっくり息を吐き出すように言った。
「人の本質とかそういうのって、本人にしか分からないもんだよ。みんながそいつの言動全部を見てるわけじゃないからさ」
ジュンくんもイチノセさんの言ったことは理解できるが、それでも彼は微妙に納得できなかった。
「だけど、他の人に言われて気付くことだってあるよ、きっと。もしかしたらそれが一番大事かもしれない」
「うん……それはそうだな」
「だろ?」
もっともだ、というような顔で頷くイチノセさんを見て、ジュンくんは嬉しくなった。そうしてあることを思いついた。
「なあ、イチノセさんはおれの本質は何だと思う?」
「ジュンくんの本質?」
イチノセさんは頬をポリポリとかいて、うーんと唸った。そこでジュンくんは一抹の不安を覚えて、カンシャク持ちっていうのはなし、と予め注意する。
「えー。じゃあ思いつかない」
「は?」
「冗談、冗談。んー、そうだなあ」
イチノセさんは空に答えを聞こうとしているかのように、頭上を仰いだ。そうして少し考えて、いつもよりもはっきりとした口調で言う。
「人が大好き」
「はあ?」ジュンくんは眉をつり上げた。
「そんなわけないじゃん。何言ってるの?」
ジュンくんは自分のことを人嫌いのひねくれ者だと思っていた。だからジュンくんにはあまり仲良くなれる人がいない。それこそ本質なのだから治りはしないだろう、とジュンくんは最早開き直りつつあるくらいだったのだ。それが、「人が大好き」だなんて。よりによってそんな言葉が来るとは思っていなかった。
分かりやすく不満を表明するジュンくんを、イチノセさんは荒ぶる動物を相手にするみたいに宥めた。
「そんなわけあるよ。ジュンくんが言ったんだろ、他の人に言われて気付くこともあるって」
「そうだけど、絶対違うし」
「違わない、違わない。ジュンくんは人と関わるのが好きじゃないけど、でも人は大好きだと思うね」
ジュンくんは未だ納得のいかない顔をしていた。それでイチノセさんは笑って「頑固ってのも付け足しとこう」と言った。ジュンくんは怒って反発しようとしたが、イチノセさんはそれに先んじて言葉を継いだ。
「俺はどうなのよ、ジュンくん。俺の本質を考えてくれてたんだろ?」
「……考えてたけど、分からなかった」ジュンくんは飼い主に叱られた犬のようにしゅんとする。
「だからイチノセさんが教えてよ」
「えー。俺も分かんねえよ。考えんのもめんどい」
「何でだよ。ちょっとくらいやる気出せよ」
「だけどイチノセって名前さえあれば、本質なんて考えなくても生きてけるしさあ」
「テキトー……」
「ああ、それが本質かもな」
なるほど、と思ってしまった自分が悔しいジュンくんだった。あれだけ考えたのに、まさかそんな単純な一言でイチノセさんの本質が言い表せるとは。しかし、「テキトー」という言葉はまさにイチノセさんを体現していた。
「本質なんて、そんなもんか」
ジュンくんはふうと息をついて空を仰いだ。それを見たイチノセさんがからかうように彼の顔を覗き込む。「小学生にして本質の何たるかを知るか、ジュンくんは」
「ウザい」
つっけんどんにそう言いはしたものの、ジュンくんは胸のうちにかかっていた厚い雲が風に吹かれて少しずつ動いていくのを感じた。生きている限り、何もかも片付いた、なんて心理状態でいられる時はそう多くはない。だからジュンくんはこれからも心にたくさんの雲や霧を作るだろう。しかし今、彼は雲と雲の間の小さな晴れ間、ちょっとした気持ちの落とし所を見つけることができた。まさしく、「テキトー」なイチノセさんのおかげで肩の力が抜けたのだ。
しかしジュンくんが素直にそれをイチノセさんに感謝するわけもなく、むしろわざと仏頂面を作った。いつもよりも念入りに。それに気付いているのかいないのか、イチノセさんは器用に話題を変えた。
「そういやさ、今日はイチノセさんのお話ないの?」
「え?」
「ほら、いつも話してくれる物語あるじゃん」
「ああ」
ジュンくんはすっかりあのイチノセ物語のことを失念していた。イチノセさんと会えるかどうかということやその他色々のことで思い悩んでいたものだから、続きはほとんど考えていなかったのである。それにイチノセさんの方から物語の催促が来るとは思っていなかった。思いの外イチノセさんがあの物語を楽しみにしてくれていると分かって彼は得意げな気持ちになった。だがそんな日に限って物語の整理をつけられていない。ジュンくんはどうしようかと思ったが、とりあえず以前考えた物語を話してみることにした。
「今日はあんまり上手く話せないと思うけど」ジュンくんはイチノセさんの顔を窺う。
「別に気にしないよね?」
*
<イチノセさんが宮野のお母さんの家に暮らし始めた時のことを話そうと思う。と言っても、大きな事件なんかは特に起きなかった。二人が話す時は大体家の中にいるし、外に出たとしてもスーパーに買い物に行くくらいだった。でも、それも普段はネットで済ませることが多かったし、宮野のお母さんはやっぱり外に出るのを怖がった。
だから、宮野のお母さんとの思い出らしい思い出はないんだ。昨日は一昨日の続きで、明日は今日の続き。本当にそんな感じで、特別な日っていうのはほとんどなかった。一応、クリスマスの日とか、二人の誕生日にはお祝いをしていたけど、やっぱりパーティも家でやるってなるとそんなに新鮮な感じはしなかった。出前も取らなかったから、本当にそうだった。宮野のお母さんは目の前で作られた料理しか食べたがらなかったんだ。
……そうそう、イチノセさんがどうやって宮野のお母さんの誕生日を知ったのか、だよね。もちろん、考えてたよ。まあ、イチノセさんは役者志望だったから、話をするのが得意なんだ。だから、上手い具合に宮野のお母さんから誕生日を聞き出した。
あ、やっぱりそうじゃない。家にあったカレンダーに誕生日がメモされてたから分かったんだ。
……え? 電話番号? あ、そっか。イチノセさんの電話番号と宮野の電話番号は違うんだ。どうやってイチノセさんは宮野の振りをしながらお母さんと連絡を取ってたんだろう。
……「個人情報が盗まれたから携帯の電話番号を変えた」って言って、イチノセさんの電話番号を宮野のお母さんに教える……。なるほど。いや、別に、おれも同じことを考えてたけど。まあとにかくそういうこと。
細かいところはいいんだよ。大事なのは、イチノセさんが宮野のお母さんと、毎日同じような感じだけど、平和で楽しい日々を送ってたってこと。イチノセさんは宮野のお母さんと一緒に料理するのが大好きだったし、窓辺の椅子に座って日向ぼっこをするのは本当に気持ちが良かった。
夜はイチノセさんにとって辛い時間だった。宮野のお母さんに嘘をついているというのはやっぱり心苦しいことだったんだ。それに何より、宮野のお母さんがイチノセさんに愛情を注ぎすぎて縛りつけようとしても、それが少し嬉しいと感じるようになったことに、イチノセさんは戸惑っていた。イチノセさんは変わったんだ。でもそれが良いことなのか悪いことなのか分からなくて、イチノセさんの頭はぐるぐるしていた。そうやって考え込んでいると、眠れなかったり、眠っても悪夢を見てしまったりする。
だけど、昼間宮野のお母さんと一緒に過ごしていると、イチノセさんは心の足りない部分がきれいに埋められて、代わりに嫌な気分が抜けていくような気がした。イチノセさんの心はそれまでずっと干からびていたんだけど、宮野のお母さんがたくさんジョウロで水をかけてくれるから心が潤って、花まで咲くようになったんだ。
不思議なことだと思う。夜にイチノセさんが苦しくなるのが宮野のお母さんのせいなら、昼間にイチノセさんが幸せを感じるのも、宮野のお母さんのせいなんだから。>
*
いつもよりも辿々しい物語が語り終えられた時には、照りつけてくる太陽のせいで二人とも身体中に汗をかき始めていた。イチノセさんはTシャツの襟首を掴んでパタパタと風を送りながら、嘆息混じりにこう言った。
「まるで恋じゃないか」
彼は彼なりに物語に入り込んでいたらしい。しかし、ジュンくんはイチノセさんと宮野のお母さんとの間に恋愛感情はない、と主張する。彼はあくまでも二人の間に家族的な親愛感情を描きたかっただけなのだ。だからジュンくんとしてはイチノセさんの発言が見逃せなかった。しかし、イチノセさんはアメリカン・コメディの登場人物よろしくやれやれ、といった具合に人差し指を振ってきた。
「俺が言ってるのはジュンくんがした表現の方さ」彼は熱弁する。
「『夜に苦しくなるのも、昼間に幸せになるのも、みんなあなたのせい』……なんて殺し文句だ。一体どこでそんな言葉を習ってくる?」
「おれのオリジナルだし」
「オリジナルなんてfantasyだぜ」
「いちいち英語混ぜてくんな、鬱陶しい。おれがどんなヒョーゲンを使おうが勝手だろ!」
ジュンくんは顔を赤くして怒った。正直、ジュンくんは深く考えて当該の言い回しをしたわけではなかったので、そんな風に突っ込まれるのは想定外だった。ジュンくんは先日たまたまテレビで放映されていた恋愛映画を観ていたため、その影響が言葉の表現に現れたという可能性はある。だが、そうと悟られるのは絶対に嫌だった。ジュンくん、恋愛映画なんて見てるの、なんて茶化されるのは断固お断り。彼は、これ以上言い回しについて掘り下げられないよう、言った。
「そんなことより、内容の感想を聞かせてよ」
ううん、とイチノセさんが軽い呻きを漏らす。イチノセさんはジュンくんから目を離し、遠い空を見上げた。
「イチノセさんの心がよく伝わってきたよ。まるで、俺がイチノセさんであると錯覚してしまいそうなほどに」
「イチノセさんは本当にイチノセさんではあるけどな」
「まあとにかく、君の話し方はとっても上手だったってことだ。良い言葉ばかりだった」
いつものジュンくんだったら、本当かよ、と言ってしまうところだった。だが、イチノセさんはどうやら褒めることに照れ臭さを感じているらしく、あまりジュンくんの方を見ようとしていなかった。それでジュンくんの方もとても照れ臭くなり、何とか言葉を発して沈黙をかき消したいという気持ちになった。そこで彼は、かねてから気になっていたことをつい勢いでイチノセさんに尋ねてしまった。
「イチノセさんには、宮野のお母さんみたいな、大事な人はいたの?」
イチノセさんはその問いに少なからず度肝を抜かれたらしく、おろおろと戸惑い始めた。「例えば、家族みたいなってこと?」
「何でもいいけど。誰にでも、自分と同じくらい大事な人っているだろ。おれは、母さんとばあちゃんが一番大事」
「なるほどな……」
イチノセさんは真剣に考え始めたようだった。空を仰いでばかりのイチノセさんだが、今回ばかりは腕を組んで地面の方を睨みつけながら、考えるというよりも悩むといった具合でうんうん唸りだした。そして熟考の末、彼は自分の中である一つの結論か、はたまた妥協点かは分からないが、ともかく納得のいく答えを出したようだった。
「……その人のためなら、雨の中何時間でも待つし、普段は面倒臭いことでもやってあげようって思うような……うんまあ、そういう人がいたよ」
「いた?」
「今は連絡取ってないからさ」
小学生のジュンくんでも、流石にその説明を聞けばその人がイチノセさんにとってどんな人だったかは理解できた。つまり、恐らくその人はイチノセさんの恋人だったが、今はそうではないということ。
イチノセさんも恋愛の一つや二つくらいしてきただろう、というのはジュンくんの専らの考えだったが、そんなに忍耐強く甲斐甲斐しいタイプだとは思っていなかった。案外、恋人には尻に敷かれる方なのかもしれない、と思うとジュンくんはおかしくて少し笑ってしまった。
「おい、笑うなよ」
「別にいいじゃん。なあ、それよりさ、どうして別れたの?」
別れた、という直接的な表現をジュンくんが用いたことに、多少なりともショックを受けたらしいイチノセさんは、引きつった笑みを浮かべた。「ませてるなあ、ジュンくん」
「別にこれくらい普通じゃん。いいから教えろよ」
「……振られたんだ」
イチノセさんが神妙な面持ちでそう告げる。そのあまりの神妙さに、ついついジュンくんは噴き出してしまいそうになったが、自分から聞いた以上は最低限の礼儀を貫かないと、と何とかこらえる。
「ある時、その人の本がなくなっちゃってね。どこにあるか知らないかって聞かれたんだけど、俺は知らないって答えた」イチノセさんは軽く息を吸った。
「でも、後で恋人は俺のバッグの中からその本を見つけた」
「え、どういうこと?」 ジュンくんは困惑した。
「勝手に借りてたのにそれを忘れてたってこと?」
「……『拝借』したのは事実だよ」
「は? どういうこと?」
「確認だけど、何か物を借りるということは、いつかは絶対に返すということだよな」
やけにもったいぶった、意味ありげな口調。
「俺は、その『返す日』がなくなってほしくないんだ。分かるだろ?」
ジュンくんからすれば、何も分からなかった。返す日がなくなってほしくない。ジュンくんは頭の中でその言葉をぐるぐると考え始める。彼の脳内にはたちまち宇宙が広がった。
「……要するに、ずっと借りてたいってこと?」
「そう言ってしまえばそうと言えるかもしれない」
「何でだよ? 意味が分かんない」
「……」
イチノセさんは苦虫を噛み潰したような表情で、遠くを見ていた。その額には汗の玉が浮かんでいたが、それは決して暑さのせいだけではないだろう。口を真一文字に結んで、それ以上語るのを断固拒否する、とでも訴えているようだ。しかし黙秘権を認めるようなジュンくんではない。ジュンくんは砂場に放棄されていた子ども用のバケツを拾い、近くの水飲み場で水を汲んだ。そしてイチノセさんの目の前でバケツを高く振り上げて——
「うわ! ちょ、やめるんだジュンくん!」
「三、二……」
「わかった! わかったから一回バケツを置くんだ、ジュンくん」
「どういうことか話す?」
「何でそんなに食い下がるんだ? 別にそんなに面白い話でもないのに」
「……一」
「話す! 話すよ!」
イチノセさんはすっかり大慌てだった。いくら夏の暑い日差しの下とは言え、イチノセさんでもびしょ濡れになるのは嫌なものらしい。ジュンくんはイチノセさんを慌てさせたことで得意になって、彼の言う通りバケツを地面に下ろした。イチノセさんはそれでようやくほっとしたのか、だらりと肩の力を抜いた。すると自然に、彼が肩を落としてしょげているように見えた。
「……何かを返さなきゃいけないってことはだ。そのために、もう一度その人に会えるってことなんだぜ」
ぼそぼそと、人知れずお経を唱えているみたいな小さな声で、イチノセさんが言った。ジュンくんがその言葉の意味を理解するには一瞬の間を必要とした。けれど、意味を理解するや否や、ジュンくんの喉元を笑いがこみ上げてきた。イチノセさんのあまりに健気な策略がおかしくてならなかったのだ。しかも、その意図が恋人に伝わることはなく、大切なものを持ち出していたくせに「知らない」とのたまった最低の男として、イチノセさんは振られてしまった。そう思うと気の毒ではあったが、どうにもおかしくて仕方なかった。
「あはははは!」
ついに、ジュンくんは笑いを押しとどめることが出来ずに、お腹から大きな笑い声を上げた。その笑いは天まで届こうかというほど、高らかで軽やかなものだった。しかし、イチノセさんの気持ちがそれとは対照的なものであることは容易に察せる。羞恥心で頭が沸騰寸前だったらしいイチノセさんは、うわあああ、と叫んだ。そして広い公園を走って一周し、また元のベンチに戻ってきたと思えばジュンくんの足元にあったバケツを自ら頭上でひっくり返して水を被った。一部始終を見ていたジュンくんは、ひたすらに爆笑した。
しかし、その日彼が笑っていられたのはその時までだった。イチノセさんは水飲み場の蛇口をひねり、水を流し始めた。かと思うと、蛇口の水が出てくるところを指で押さえ、勢いよく水を噴射させた。不意打ちを食らったジュンくんはまともに防御することができず、あえなくびしょ濡れになってしまう。
「熱中症対策はばっちりだな」
へらへら笑うイチノセさんの言葉で、ジュンくんの顔面がぴくぴくと痙攣する。そして次の瞬間にはジュンくんの怒声が、蝉時雨で飽和する晴天を見事に貫いたのであった。